感謝を込めて

2009/12/31, 13:56 | 固定リンク

12月31日 木曜日 晴れ 

 今年一年のみなさんの変わらぬ声援に心からお礼を云います。本当にありがとう。こんな時代だからこそ、それぞれの現場で、それぞれの火を大切にしてください。みんなの幸福を祈って、今から走ってきます。どうか、よいお年を。

 多謝&再見。 山口洋(46)

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by 山口 洋  

抜け殻

2009/12/30, 02:33 | 固定リンク

12月30日 水曜日 曇り 

 一日中、自分の抜け殻を見つめていた。何をやる気も起きなかった。でも、もう二日走っていない。今日走らなければ筋肉は退行を始める。折れそうな気持ちを奮い立たせて、ヨシミが誕生日にくれた新しいジャンバーを着て、走った。何だか訳の分からない感情がこみ上げてきて、涙と鼻水をまき散らしながら、強い風の中を進んだ。翻弄される。自分の意思ではどうにもならない。でも抗っても仕方ない。こんな日に限って、憎しみがもたらされる。繰り返し云ったじゃないか。舌がもつれるまで。「オレは世界中の誰も恨んだり憎んだりしていない」。「感謝しこそすれ、その世界にはもう住んでいない」って。憎しみは必ず連鎖する。そして、最後にその人物を滅ぼす刃となって、自分に向かってくる。うまく行かないのは誰かのせいじゃない。100%自分のせいだ。たとえ、それが裏切りや陰謀だったとしても、それは君を鍛え、いつか感謝できるようになる。病を憎んで人を憎まず、罪を憎んで人を憎まず。もうオレはこの話をするのが嫌なんだよ。
 独り暮らしであろうおばあさんが玄関に注連縄を飾っているのを観た。美しかった。背中は曲がっていても、凛とした佇まいに胸を打たれる。高潔。オレもあのような人物になりたい。

by 山口 洋  

光と剥がれた爪と38本の薔薇の花

2009/12/29, 01:38 | 固定リンク

12月29日 火曜日 曇り 

 目覚めたとき、足の親指に違和感を感じた。オレは初めて親指の爪の下の風景を見た。何だか色を塗る前のダルマみたいだな、と思った。待てよ、て、ことは。剥がれた爪もあるはずだ。探してみると、何とも形容しがたい、固くて、黒い物体がおふとんの国に転がっていた。グロだな、と思って光にかざしてみると、妙に美しかった。ドブの中に差し込む夕陽のようだった。悪くなかった。これでオレは二枚目の爪を失った。確実に死んでいるのはあと2枚。運が悪けりゃ、合計5枚の爪が剥げるだろう。だから何だ、と思う。痛みもまるでない。走り始めたベリー初期に、合わない靴で闇雲に走ったり、レースに出たりしていたせいだ。でも、もう学んだ。靴を換え、ワセリンと5本指のソックスをはき、爪へのダメージは確実になくなった。いつかへんてこりんな新しい爪が生えてくるんだろう。それでいい。失ったものと得たもの。比べるまでもない。走ることは、孤独で、喜びで、哀しみを捨てることで、考えることで、考えないことで、無になることで、タイムマシンで、本当に大切なものを見つけることで、希望で、オレにとっては家族でもあり、挫折の連続で、身体を知覚することで、心と魂の場所を知ることで、細胞を生まれ変わらせることで、感謝を見つける場所で、赦しを乞う場所で、愛を叫ぶ場所で、原始的で、創造的で、肉体的で、精神的だ。もたらされたもので、一番大きなことは、「光」は観念ではなく、実存することを知ったこと。そして同じ「光」は二度とないこと。それらは「ひかり」と云う言葉で総称されること。それを見るたびに、「大丈夫だ」と思う。訳もなく。一人だけれど、独りではない。絶対に。
 死ぬまで走っていたいと思うようになった。音楽を奏でるように。だから、無茶をして壊れないようにしようと思う。走れないのはきっと耐えられない。人に見られたい訳じゃない。レースも4時間を切ったら、もう出ないかもしれない。競いたい訳じゃない。ただ、ただ、人生も、音楽も、走ることも。ひかりを目指していたいだけだ。願わくば、揺るぐことのない愛と共に。
 赤い薔薇の花が届いた。生まれて初めて買った。でも官能的で好きじゃなかった。ちっとも美しくなかった。知らなかった。赤い薔薇にひかりはなかった。花屋に行った。この仕事が好きだから働いてるんです。そう顔に書いてあるお姉さんと花選びをした。何だか、楽しい作業だった。「ありがとう」。本当にそう思ったから、店を出るときにお姉さんに伝えたら、彼女の笑顔がひかりになって、それが花にふりそそいだ。

by 山口 洋  

魂の飛沫を浴びること

2009/12/28, 00:40 | 固定リンク

12月28日 月曜日 晴れ 

 小坂忠さんの1メートル横でギターを弾くってことは、シンガーとしての42年分の魂の飛沫を浴びることでもある。喜びであり、光栄であり、責任も重い。それに応えるためには、とにかく音楽を身体に入れておくこと。後は歌に身を委ね、素晴らしいバンドに呼応して、オーディエンスに音楽の素晴らしさを伝えること。ただ、それだけ。
 人生に於いて、幸か不幸か、オレもいろんな経験を重ねてきた。昔ならキンチョーのあまり指が硬直してたかもしれん。でもね、本当に楽しかった。その状況の中に居ることが。彼の歌には、自分の手を汚して生き抜いてきた男の「覚悟」と「約束」がある。それは同じ職業のペーペーであるオレにとっては「希望」に他ならない。歌を歌うってことはこういうことなのか、とあらためて教えられる。バンマスのKYONさんにはバンドを導いていく術を教えられた。人を信じること。オレはまだまだ足りない。
 終演後、「happy birthday」が突然鳴り響いて、サムズ・アップのスタッフからケーキが運ばれてくる。へぇ、誰か誕生日なんだ、と思っていたら、そこにはオレの名前が記されていた。今年3度目です。本当にありがとう。

 深夜、ひとりで故人の墓参りに行く。伝えたい感謝の気持ちがあったから。暗闇の墓地は何故か心が安らぐ。

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by 山口 洋  

余韻に浸る暇もなく

2009/12/27, 17:19 | 固定リンク

12月27日 日曜日 晴れ 

 本当は幸福なライヴの余韻に浸っていたかった。友人達にもひとりひとりありがとう、と云って廻りたかった。けれど、明日のライヴに向けて、頭の中の音楽を全部入れ替えなければならなかった。ずーっとエンドレスで鳴っている「おだかやな暮らし」を頭から追い出したくなかったんだけど。仕方ない。
 譜面が読めなくて、苦労することもあるけれど、読めない良さもある。身体に音楽を入れなければ演奏できないのだけれど、入ってしまえば何が来ても、反応できる。オレ式譜面も無茶苦茶だけれど、昨日のおおはた式譜面もその上を行くくらい無茶苦茶だった。オレのは絵で、おおはた君のは糸ミミズみたいな。あはは。ま、とにかく演奏できて、なんぼだと思うよ、ミュージシャンは。

by 山口 洋  

確かな光、46歳になる。渋谷にて。

2009/12/26, 13:39 | 固定リンク

12月26日 土曜日 曇り 

 前夜。バーで。ライヴに向けて昂る気持ちを鎮めるため、静かに飲んでいた。日付が変わって、ロウソクのついたケーキが突然運ばれてきた。唖然。居合わせたお客さん全員で誕生日を祝ってもらった。何故か隣の席にはリクオが居たな。ありがとう。本当に嬉しかったよ。みんなの心遣いが。

 さぁ、今日はワンダフルなオカピー、おおはた君とライヴ。リハーサルをやるべきところと、本番に楽しみを取っておくところ。そのあたりをツーカーで理解してくれるから、とても楽しい。どっちみち二人とも本番になったら、どんな演奏をするのか自分でも分からないのだ。あはは。リハーサルを終えて、彼は渋谷の街のパトロールに出た。そして彼はエロ・ジャケ買いをしたと云うアナログ盤を三枚プレゼントしてくれた。ありがとう。
 この数年、エレクトリック・ギターを弾きたいという衝動はあまりなかった。でも、そう決定的に思わせてくれたのは彼の音楽だった。リハーサルは一度きりだったけれど、ステージに上がると、お互いのいい部分が自然に引き出されていく。いやはや、何だか、無茶苦茶楽しい。誰かとギターを弾くことって、こんなに楽しかったっけ。忘れてたよ、オレ。それにしても彼のポテンシャルは素晴らしかった。反応が速い。この国で、ギターと歌っちゅー楽器で、あれほど会話が出来る人間が居るとは思わなかった。
 アンコールになって、彼がヘンなフレーズを弾き始めた。不穏な空気。ううっ。ハメられた。ステージにケーキが運ばれてきて、オーディエンスとおおはた君による「happy birthday」の大合唱。だ・か・ら。最近、オレは涙腺弱いって云ってるだろ。でも昔だったら、照れて終わりだったけれど、素直に嬉しかったよ。これだけの人間たちに祝ってもらえることが。心からありがとう。生きてて良かった。史上最高の誕生日だったよ。

 楽器を握って何年になるんだろ。14歳の誕生日だったから、ちょうど32年だね。でもね、あの時の気持ちとまったく変わらずに音楽に向かうことができるなんてね。これ以上の幸福は何処にもないと思う。オレとおおはた君はただ楽しかっただけじゃなくて、音楽で「ひかり」を描こうとしてたんだと思う。オレがときどきマラソンコースで観てる、あの「ひかり」。それさえあれば、大丈夫さ。きっと。彼の歌で特別に好きなものがあって、オレは確かにギターを弾いていたけど、半分はオーディエンスみたいなヘンな感覚を味わっていた。その時、オレは「ひかり」を観てたんだと思う。もう何も考えていなかった。願わくば、年末の忙しい中、働いたお金でライヴを観に来てくれたオーディエンスにも、それが伝わっていますように。

 今日一日でどれだけの「おめでとう」を云われたんだろう。ひとりひとりにお礼を云います。本当にありがとう。沢山の、持ちきれないほどの、メッセージ、メール、電話、プレゼント、エトセトラ。本当にありがとう。おおはた君とはどんな形でか不明だけれど、また何かをやるでしょう。今回のライヴはマネージャーの発案だったんだけれど、奴に云いました。「お前と10年以上仕事してきたけど、今日がベストだ」って。ありがとう。来年出る、彼のニューアルバム。素晴らしいよ。そのツアーが始まったら、オレはフツーにファンとして観に行こうと思います。

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by 山口 洋  

感謝すること

2009/12/25, 16:03 | 固定リンク

12月25日 金曜日 晴れ 

 今日の海は穏やかだった。波もない。太陽の光をキラキラと反射している。こんな日に、ラップを気にすることなく、何も考えず、ゆっくり走る。それが今のオレには至福の時間。走ることで、筋肉や心をほぐしていく。わだかまっている気持ちはいつか消えてなくなる。そして、行き交う人たちと挨拶を交わす。本当に恵まれてると思う。ここは車もバイクも来ない。思い切り、自分のペースで走ることができる。
 強い風が吹くと、このコースは砂で埋まる。防砂柵もなぎ倒すほどの強風が吹く。砂が堆積すると、歩くのも難しくなる。自転車はほぼ通行不能。すると、街から委託を受けた業者の人たちが砂と格闘して、コースを清掃してくれる。今日もまた、彼らは額に汗して働いていた。本当に頭が下がる。仕事とは云え、エンドレスな闘いなのだ。彼らのおかげで、オレは走ることができる。だから、「お疲れさまです」と云って通り過ぎる。月に一度のレースもそう。街のじいさん、ばあさん達がボランティアで運営している。参加費は800円、ハーフでも1300円。東京マラソンに比べると、べらぼうに安い。数千人のタイムを人の手で計測し(大きな大会はチップで計測する)、記録し、連続して参加した者には商品が出る。頭、下がるんです。本当に。だから、出来るだけ街でお金を使おうと思う。稀に売っていないものもあるけれど、取り寄せてもらったりして。

 さぁ、気分を入れ替えて、音楽に向かおう。オレは26と28日の両日で一体何曲演奏するんだ。ままよ、考えるのは止めよう。今度はオレがオーディエンスにハピネスを届けなきゃね。

 アイルランドから新聞が届いた。「IRISH TIMES」じゃなくて、「DONEGAL NEWS」だったのが嬉しかったな。街のみんなは読んでくれたかな。来年は必ず会いに行くぜ。

 じゃ、明日はduoで。年末で大変だと思うけど、気軽に遊びにきてください。いろいろあった2009年も、明日で「歌い納め」です。バンドの時とは違って、出来るだけ椅子に座って楽しめるよう、スタッフにも伝えておきます。

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by 山口 洋  

男二匹のクリスマス・イヴ

2009/12/24, 01:48 | 固定リンク

12月24日 木曜日 曇り 

 「きっと君は来ない。男二匹のクリスマス・イヴ」。
 
 色気はないけど、スタジオには変態楽器店みたいに、二人の弦楽器が並ぶの図。先日、ゆっくりと酒を一緒に飲んで、きっと互いに「こんなアイデア、あんなアイデア」が浮かんだのかと。でも、結局のところ、互いに「何だか、策に溺れてるよね」とシンプルなところに行き着くのが、リハーサルの意味かと。あはは。いやはや。おおはた君は素晴らしかった。二度と同じ演奏をしないところが。オレはホストとして、かちっとやらなければと云う本来の自分ではない役目を勝手に引き受けていたが、彼の奔放かつ繊細な演奏に、「よっしゃ、お互い野原を感じたままに、フリチンで走るか」ちゅー結論に達したリハーサル。ライヴはお客さんが居てくれて、エネルギーを交換してなんぼ。だから、ステージに上がるまで、お互いから何が出てくるのかは不明。そんな演奏を彼と出来るであろうことを、嬉しく思っています。ただひとつだけ間違いなく共通していたと思うのは、ふたりがそれぞれに「ひかり」を目指していること。その感じ方や表現は違うのだけれど、来年に繋がる「ひかり」を感じてくれたら、と思います。てな訳で、二人で両手を拡げて、お待ちしております。本当に素晴らしいよ。野生の音楽家、おおはた雄一。

 おおはた君の若きマネージャー嬢が、クリスマスケーキを用意していてくれたので、二人でがっつり喰いました。甘いもの、イエス。アリガトネ。

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by 山口 洋  

風紋

2009/12/23, 17:28 | 固定リンク

12月23日 水曜日 晴れ 

 海沿いの道はとてつもない風が吹いていた。立っていられないほどの。でも、今年最後の逆風だと思って、諦めずに走ることにした。こうやってひとつひとつ乗り越えていく。今年はそんな一年だったなぁ。でもピンチに陥ったとき、走るときのあの様々なしんどさを乗り越えたんだから、オレは大丈夫だろう、と思えるようになった。諦めなくて良かった。それが積み重なって、強さと優しさと自信を形つくるんだと思う。今日で、月間走行距離は初めて300キロを超えた。体重の減少もどうやら止まった。小食のオレが、育ち盛りの中学生みたいに喰うようになった。でももう水には浮かないだろう。体脂肪率も10%はないだろう。ふくらはぎと膝はどうやら出来上がりつつあるみたいだし、最近は太ももと尻の筋肉痛。多分、身体ができるだけデカい筋肉を使って走ろうとしているんだと思う。
 夕陽と強風と海と風紋。オレはランニングシューズも買えるし、好きな時間に走ることもできる。所詮、趣味だ。世界にはそんな趣味さえ許されない人々が沢山いる。だから、想像力を切らさないようにして、感謝して走る。それは幸福のひとつの形だと、この頃思う。

by 山口 洋  

情念

2009/12/22, 13:16 | 固定リンク

12月22日 火曜日 曇り 

 気になっていた女性シンガーソングライターのライヴに行った。シンプル極まりないステージ。オレは総じて、こういうものが好きなのだが。音数の少ない演奏と、紡がれる言葉。いつもなら、そこに情景が浮かび上がってくるのだけれど。今日は女性の静かで激しい情念に飲み込まれて、彼女の口の中に引きずり込まれて、その体内をオレが彷徨っているような、不思議な感覚を覚えた。それが気持ち良かったかどうかって、ことはノーコメント。
 総じて、オスはバカちんで、女性は偉大だ。女心をどんなに理解しようとしても、分かったためしがない。今日のステージは、うーん。「怖かった」。すいません、こんな感想で。でも、怖かったんだもん。

by 山口 洋  

中年中学生

2009/12/21, 11:30 | 固定リンク

12月21日 月曜日 晴れ 

 おおはた君がオレの仕事場まで来てくれた。挨拶として、そりゃ夕陽を観なきゃいかんだろうと思ったので、男二匹で富士山と海と夕陽を満喫した。悪くなかった。それから男二匹は仕事場にあるギターをポロポロ弾いたのだが、これがね、楽しいのなんの。表現はどうか、と思うけど、14歳の時に友達の家で初めて「22歳の別れ」をギター二本で弾いたときのカンドーが蘇ってきたよ。オレたちのことは中年中学生と呼んでくれ。ライヴは素晴らしいものになりそうだよ。何よりも、やってるオレたちがこれだけ楽しいんだから。ギターを弾くってことがこんだけ楽しいんだって、今更ながらに思えるのは幸福だよ。もちろん、彼の確かな技量があっての話なんだけどね。クリスマスイブは彼と一日かぎりのリハーサル。「それって問題ないの?」と聞いたなら、「ぜんぜんないっすよ」と彼。あはは。お互い色気なし。
 な訳で、26日はみんなにゆっくり楽しんで欲しいと思ってます。できれば、座って酒でも飲みつつ。じゃ、待っとるよ。

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by 山口 洋  

情熱

2009/12/20, 17:50 | 固定リンク

12月20日 日曜日 晴れ 

 情熱とは継続する志のことである。

 数少なくなってしまった、好きな映画館。高田馬場にある早稲田松竹、浅草でいつも寅さんを観る映画館、沖縄の桜坂劇場、そして広島が誇る「横川シネマ」。シネコンに行くのはそこに行きたいからではなくて、その映画を観るためには、そこに行くしかないからである。だから、思い入れはない。けれど、上記の映画館はふらっと入ってみようかな、と思う。信頼してるから。映画が好きでたまらないのが伝わってくるから。オレは古いタイプの人間だと思う。野球もドームになって、まったく足を運ばなくなった。だって、楽しくないもん。先日、帰郷した際、生まれた街を走っていたら、平和台球場が跡形もなくなっていて、本当に哀しかった。仕方ないんだろうけど、子供時代を全部奪われたような気になった。あそこは田舎の少年にとってはドリーム・ランドだったんだよ。絶妙な博多弁のヤジを飛ばすおっさんを観て、早く大人になりたいと思ったもんだ。ロッテの金田監督と博多人民との軋轢なんて、ヤクザの抗争みたいだったし。ワクワクしたなぁ。風呂場の下で思い切り叫ぶと、選手が洗面器で前を隠して、子供たちに愛嬌を振りまいたりしててね。ジャイアンツじゃ、絶対にあり得ないようなふれあいがあった。「ライオンズ友の会」っちゅー子供のための組織があって、毎年オレの会員番号は100番を切っていた。云っておくけど、いちおうプロ野球だよ。でも、その会に入ると、シーズン通して外野はタダになる。少ないお年玉をやりくりして買ってたけど、確か1000円くらいだったと思うなぁ。夢があったなぁ。
 
 横川シネマ - 以後「横シネ」 - が十周年を迎えるにあたって、原稿を書いて欲しいとの依頼があった。ああ、喜んでやりますとも。横シネでは何度か歌わせてもらったことがある。売店にはガラスケースがあって、おばちゃんも居る。基本的にはオーナーの溝口君が一人で切り盛りしていて、訪れるたびに、「よくもまぁ、こんなに偏ったラインアップで続けられるなぁ」と感心する。シネコンの真逆。溝口君はオレや友人達から「広島一のダメ男」の烙印を押されていて、酒席を囲むと、彼をいじっているだけで時間が過ぎる。見かけは「ウシ」みたいなんだけど、実のところ、熱い情熱が流れている。横シネのことになると、周囲の人間が本気でサポートをする。多分、みんな分かっているのだ。何も云わないけれど、街にはこのような空間が必要だと云うことを。彼は映画への情熱のあまり、電気、水道、ガス。ライフラインを全部止められていたことがある。嘘みたいな本当の話。映写室に寝泊まりしてたんだと。ところで、その本が送られてきた。オレは小冊子みたいなものだろうとタカをくくっていたら、ちゃん本だったよ。各界150人からの愛のこもったメッセージ。そっか、あいつはウシみたいな顔をして、最後にゃいつも醜い身体をさらして、上半身裸で踊ってたけど、こんなにも愛されてたのね。ちょっとカンドー。素晴らしいぜ。あとがきに書かれた溝口君の言葉。ちょっと引用。

「要するに、他の仕事が務まる自信がないから、コレやるしかなかったんだよ。ホントだよ。横川シネマをオイラが10年続けたのは、それがいちばん「無難」だったからだ。裁判所の人も、廻りの連中も、この主張を認めてくれなかったが、オレは死ぬまでそう主張する。主張しながら死んでやる。世間と取っ組みあって倒された時に、受け身を取りやすいのが「映画館」という闘い方だっただけだ」。
「正直な話、この10年、横川シネマは「映画館」として試合に勝ったことはない。リングサイドでたくさんの伝説が生まれただけだ。多くは映画以外の。ついでに告白すれば、中高と柔道部に所属していたオレだが、本当は「白帯」だ。卒業アルバムでは黒帯してるけど。昇段試験受けてないんだよ。でも、受け身の練習は人一倍やったよ」。

 がはは。あんた、いいこと云うねぇ。ほら、何だか、みんな、横シネに行きたくなってきたでしょ?広島にお立ち寄りの際は是非、怪しい雰囲気満載の街「横川」にある横シネに行ってみんですか。素晴らしい映画とウシとおばちゃんと映画愛に会いに。

 な訳で、この本にも載っている、オレの好きな映画についての原稿。転載しておきます。

「光年のかなた」1980年 仏=スイス 100分 アラン・タネール監督/トレヴァー・ハワード、ミック・フォード

 ミュージシャンとして「至福のとき」。ステージで音の渦に飲み込まれて「ひょっとしてオレは今、飛べるんじゃないか」と思う瞬間がある。この映画はアイルランドの片田舎に移り住んだ超偏屈なロシア人のじいさんが、鳥の魂を浴びて、いつか空を目指すちゅー映画である。こんな事、真面目に考えてるの、オレだけじゃないのね。独りでこの世をサバイブする力をどれだけもらったことか。出来れば「横シネ」で観たいね。多分、帰りはみんな鳥になってる。少なくとも気分だけは。



 はてさて。今日はヨシミと合同練習日。走ることは基本的に孤独なのだけれど、誰かが居てくれないと出来ないこともある。あ、その前にヨシミって誰ですかって良く聞かれるんだけど。ヨシミはヨシミです。オレの友達。オレと奴はこの街で月に一回開催されるレースでしのぎを削ってきた。でも、最長でもハーフしかない。お互いに悟ったのだ。ハーフではヨシミの馬力とスピードにオレは勝ち目がない。あいつのエンジンはアメリカ製の3600ccみたいな。まるでコルベットのように走る。でも、頭と燃費が悪い。ひひ。オレのエンジンは日本製の1400cc。非力だけれど、燃費はいい。つまり長距離になれば、ヨシミはオレに勝てないってことがはっきりしてきた。前回のハーフみたいに、互いの負けず嫌いで火花を散らしていたら、二人とも本番のフルの前に身体がぶっ壊れる。なので、互いの目標である、フルマラソンで4時間を切るためにはどうすればいいかって練習法を考えた。4時間を切るためのラップは一キロ5分40秒である。だから、ラップを5分35秒に設定して、これから週に一回、15キロ、20キロ、25キロ、30キロと走り、そのペースを身体に覚えさせる。今日は一回目の練習なので、15キロからスタート。オレもヨシミも、もうチャリンコにも乗らなくなった。コースに来るにも走ってくる。往復6キロ。お互い原人。
 奴はラップを考えながら走ったことがない。本当に横で走ってるとアメ車の顔をした原人と走ってるみたいだ。このドアホ。もっと頭を使え。本能の赴くままに、走ってきた奴はラップをコントロールするのが本当に苦手みたいだ。1キロ通過する度に、オレから「5秒落とせ」とか「10秒上げろ」とか云われると、奴は30秒落としたり、上げたりする。まったくもう。走りながら、「お前、いつも何考えて走ってんの?」と聞いたら、「いやー、いつもオラオラ、と思いながら走ってるんですわー。わっはっはー」みたいな。お前、一回脳味噌を氷水で冷やした方がいいみたいだな。しかし、アメ車原人の走りは力強い。オレは馬力がないので、坂道が苦手だ。奴は嬉々として坂道で加速していく。反対に、砂まみれの道では、奴は泣きそうな顔になる。本能が通用しないのと体重が重いからだ。こうして、第一回「原人たち合同練習」は無事終了。5分22秒のラップで、1時間20分。マージンも4分稼いで、余力も充分に残して練習を終えた。ようやく原人たちは「本能バカ走り」から成長しようとしている。

by 山口 洋  

信じる

2009/12/19, 17:26 | 固定リンク

12月19日 土曜日 晴れ 

 この季節、良く晴れた日。海沿いのコースはまるで北斎の富岳十六景(だっけ?)みたいな眺めになる。富士山が偉大に見える。いにしえの人たちも、この風景を眺めてきたんだろうね。そんな風にくっきり見えるのは「寒い」ってことの証。不明の二人が早く見つかりますように。
 その富士山めがけて走る。走るってことは何て原始的なんだろう。素晴らしく原始的で孤独。思考がシンプルになっていく。雑音は耳に入らない。風と潮騒、流れていく雲。あとは自分の荒い呼吸と心臓の鼓動だけ。「信じる」って言葉が好きだけれど、ときどき「信じる」って言葉じゃ足りないと思うときがある。「パッショナート」、情熱の持ち主。稀にだけれど、何処までも走れそうな気がする時がある。それは永遠を目指して、おわらない音楽の中に棲んでいるときに似てる。

 42キロの後遺症、未だ。巻物に自主的にフル・マラソンを走れと書いていない理由を今更ながらに理解する。なかなかリカバーできないのだ。得られたものは自信、失ったものは身体の調子。肉体より精神の方が強過ぎるんだろう、きっと。でも、自分のやったことだから仕方ない。これも学習。こりゃ、整骨院行きだな。もはや、自分の手には負えない。

 オレは民主党支持者じゃないし、自民党を支持する訳もない。けれど、自分にとって、自民党よりも民主党の方がマシであることは間違いない。思うのだ。足を引っ張るのではなく、せっかく何かを変えようとフントーしているのなら、温かく見守って、応援して、叱咤激励し、自分のできることは率先して、暮らしの中でやったらいいじゃないか。オレがマスコミの大半が嫌いなのは、持ち上げておいて、落とすからだ。二度美味しい。そして無意味に不安を煽るからだ。テレビをつけると、ネガティヴなものが蔓延している。そんな部分もある。それは認める。でも、多くの人は画面を観ただけで、理解したような気になる「誤解」をする。実際はいろんな捉え方があるはずなのに。毎日、毎日、不景気だ、不景気だ、と云われていたら、それは必ず連鎖する。財布の紐は固くなる。今こそ、意味のあることに金を使うべきだ。全体を見て、自分が何処にいて、どう行動すべきなのか考えたい。遠くを見よう。メゲずに、明るく生きている人たちは沢山いる。目先を変えれば、もっとほっこりするニュースだってたくさんあるはずだ。

 走りたくなるのには、多分、そこにも理由がある。身体にまとわりついた生き霊みたいなもの(死んだ人間より生きてる人間の方がよっぽど怖い)や、情報やモノがありすぎて、訳が分からなくなった感情を、ふりほどくのだ。オレは自分の力で「信じる」ことができる人間で居たい。

by 山口 洋  

バベルの塔に行く

2009/12/18, 18:05 | 固定リンク

12月18日 金曜日 晴れ 

 けだし貧血気味。42キロを走った代償を払っているところ。もりもり喰って、酒を控えて、栄養について学んで、気持ちを前に向けて、今日は練習を休んで、その分、身体にメインテナンスを施そう。ふくらはぎが、見たこともない不気味な物体になってきた。ちょっとキモい。オレの足は細いけれど、それは太ももの話であって、ふくらはぎは決して細くない。心なしか骨まで太くなった気がする。鉄分と亜鉛が何に含まれるのか、勉強しよう。足りないものはサプリメントで摂ろう。台所のカウンターには各種のスポーツ系摂取物が置いてあって、まるでサイボーグの部屋みたいだ。友人がブドウ糖の塊をビニールに入れてプレゼントしてくれたのだが、これはヤバい薬物にしか見えないし。トホホ。今までの野菜中心の粗食では、まったくエネルギーが足りない。足りないんだから、仕方ない。

 閑話休題。

 沖縄で、おばぁはオレをぎゅっと抱きしめて、「お前は私の息子さ」と云った。何でそんなことになるのか、まったく分からないのだけれど、確かにそれは深い愛だった。どうして彼女がオレの電話番号を知っていたのかも知らないが、そんな野暮なことは聞くだけ無駄だと思った。いつだって、彼女はお見通しだ。連絡があるときには理由がある。雨の中、無理をして走った。身体の芯まで冷えた。ちょっとだけ身の危険を感じた。すると電話が鳴る。「お前はバカさ」。お見通しだ。そして昨日また、電話が鳴った。怒られる前に、「オレはまっすぐに生きてるよ」と云った。事実だからだ。「それは分かってる。お前が決して嘘をつかないことも。まっすぐなことも。だから助けてやりたくなるのさ。でもよ、お前の優しさが誰かに誤解を生んでることがどうして分からない。世間ってものはそんなものじゃないんだよ」。確かにオレには思い当たることがあった。オレは世間にどう思われてもいいと思ってた。自分にやましいことが何もなければ。持っているものなら、分かち合う。それでいいと思ってた。そこに幾ばくかの甘えがあったことも認める。それが人を傷つけていたことにどうして気づかなかったんだろう。どんなに光を目指して走っていても、青い。青すぎる。けれど、クサクサしたってしょうがない。誰かの言葉じゃないけど、過去と他人は変えられなくても、自分と未来は変えることができる。ならば、そうしよう。
 おばぁは最後にこう云った。「お前は外国に行くことになる」。ほぇ?????? 「オレ、パスポート切れてんだけど」。「お前はバカさ」、アゲイン。「今すぐ取ってきなさい」。何なんだろ、このオレの日々は。根拠がなくても、おばぁの言葉には素直に従うだけの愛があった。調べてみると、今日申請すれば、年内に発給されることが分かった。ふーん。行くことになろうがなるまいが、必要なものには違いなかった。近年、ドメスティックな活動が多すぎて、渡航する必然性も充分に感じてはいた。でも、面倒臭かったのだ。役所に行くことが。パスポートが切れていることで、ま、いっか、今回行かなくてもと思ったことも何度かある。つまりtime has comeなのだ、と理解した。

 オレの本籍は杉並区に、住民票は渋谷区に、そして仕事場は神奈川県にある。墓は福岡にあって、家は阿蘇だ。無茶苦茶だ。だいいち、オレは自分の本籍をソラで云うことも出来なかった。えーっと何だっけ。きちんと整理しなければ、と思った。おばぁが云ってたのはこういうことでもあるのか、と。デラシネだとかバカボンドにも程がある。ついでにおばぁは金のことにも言及して、オレがあまりに無頓着なことに怒って、「お前が思ってるみたいに、金を稼ぐのは汚いことでも何でもない。お前はもっとたくさんいい歌を書いて、人を幸せにする。その役目があるし、才能もある。それには金が必要なのさ。今、3曲あるだろ?そのうちの1曲は誰かが手を入れることになる」。絶句した。3曲とは、その通りだったからだ。

 ままよ。早起きして、電車に乗って、杉並区に行った。ここには2度場所を変えて、都合8年くらいは住んでいただろうか。随分変わった。そしてここに本籍があるのはおかしい、と自分でも思った。それからバベルの塔にしか見えない都庁に行って、パスポートの申請を済ませた。いったい、オレは何処の人間なんだろう。ノーウェアマン。人としての、常識はあるつもりだった。けれど、あまりにも常識が欠落していたことに自分で凹んだ。こういうことか。ちゃんと考えよう。生きていることをシンプルにしよう。寒い冬京の空にそう誓った。青すぎる。

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by 山口 洋  

peace

2009/12/17, 12:38 | 固定リンク

12月17日 木曜日 晴れ 

 初めて買ったマラソンシューズ。サイズが少し小さくて、おかげで足は血マメだらけになったけれど、オレに走ることを教えてくれた思い入れのある靴。人様にお古の靴をあげるのはどうなのよ、と思いながらも、もらってくれる人が居るのなら、タンスの肥やしになっているよりはいいか、と。感謝を込めて洗ったら「オレはまだ使って欲しいんすよ」と云ってるように見えた。靴は走り始めた友人のもとに嫁いだ。良かった、良かった。

 親父の写真を持って、バーに静かに飲みに行ったら、マスターが缶ピースを用意していてくれた。心遣いが嬉しかった。居合わせた喫煙者のお客さんたちが、こぞって缶ピースを吸ってくれて、店の空気は一気に極悪になった。ヘンな弔い。でもこれぞ弔い。こうやって親子は28年経って、杯を交わした。ありがとう。

 どうも貧血っぽい。血の製造が運動に追いついていない模様。でも、ニンゲンは生き延びるためなら、無意識に必要なものを摂取する。頂いたロースト・ビーフをまたもや原人喰いした模様。42キロを走った代償は意外に大きくて、得られるものもかなりあるんだけれど、これは月に一回、無理のないところでやらないと身体が潰れると実感。

 マラソンコースの15キロほど向こうに米軍の基地がある。ときどき平和な空を切り裂くように戦闘機が飛んでくる。その音たるや、筆舌に尽くし難い。暴走族の出す音はまだニンゲンが出しているバカな音だと思える。けれど、戦闘機の音はこの世の終わりを示すように、圧倒的に人を威圧する。それまでの一切の思考をゼロにしてしまう。日常的にこれが頭上を飛んでいたなら、オレは確実に頭がおかしくなる。慣れたくない。想像しよう。何でこんなモノが必要なのか。

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by 山口 洋  

old man

2009/12/16, 11:34 | 固定リンク

12月16日 水曜日 曇り 

 亡父命日。
 死んで28年も経つと、そもそも彼を知っている人物そのものが少なくなってしまった。もはや誰からの連絡もなく。でも、それでいいのだ。
 オレは14歳で彼から灰皿を与えられた。「隠れて吸うなら、堂々と吸え。その代わり、缶ピースな。それ以外はタバコじゃない」。いい教育だ。高校生になると、週末はいつも友人と酒を飲んでいたが、唯一の心残りは一度も彼と飲めなかったこと。彼が誰かと楽しく酒を飲むようなことはなかった。いつも自分を破壊するように、追いつめるように、独りで飲んでいた。まるで忌まわしい記憶から逃げるように。今になって思うに、聞いておきたかったことが山ほどある。よっぽどの事がなければ、彼は貝のように口を閉ざして語ろうとしなかったが、満州や朝鮮で彼は何を観て、感じて、あれだけの心の闇が形成されてしまったのか。酔ったときに彼が思わず吐いてしまった言葉の断片を拾い集めて、それを繋ぎ合わせて、自分の胸にしまって、オレは生きている。中国に行ったとき、中国語が話せないので、「盧溝橋」と書いた紙を持って、どうにかその場所にたどり着いた。彼の人生を変えてしまった始まりの場所を目に焼き付けておきたかった。そこには「抗日資料館」が併設されていて、直視がはばかられるような資料を観て、どんよりと落ち込んでいたら、中国人に、あれは何語で云われたんだろう、「来てくれて、ありがとう」と。オレは書き上げたばかりの「ハピネス」を歌って、弔いをした。
 今なら、何でもどーんと聞いてやれるのに、と思う。でも、それはもう叶わない。だから、親が生きている友人にはたくさんたくさん話をして欲しいと思う。聞くのも、話すのも辛いこともあると思う。けれど、それは失われるには貴重すぎる「経験」だと思う。
 今夜は静かに親父の魂と乾杯しよう。そう思っていたら、玄関のチャイムがなって、友人から線香が届いた。「私たちは元気に生きていきましょう」と。嬉しかった。

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by 山口 洋  

おだやかな暮らし

2009/12/15, 21:01 | 固定リンク

12月14日 火曜日 晴れ 

 泣き虫です。最近、アラレもなく、よく泣きます。

 今年、一番響いた曲はと聞かれたら、カオリーニョ藤原の「人生の花」と、おおはた雄一君の「おだやかな暮らし」。ふたつの曲は突然、心の中に入ってきて、カンドーだか、励ましだか、哀しいんだか、嬉しいんだか、訳の分からない感情をもたらして、気がついたらいつも号泣。違うことがあるとするなら、カオリーニョの曲は定点で聞くとよろし。おおはた君の曲は移動しながら聞くと、効果倍増(別に泣きたかないんだけどね)。オレはフェリーニの「道」を観ると、毎回同じシーンで寝てしまう。同じように「自転車泥棒」を観ると、同じシーンで号泣してしまう。ふたつの曲はそれと同じだ。オレにとっては。

 欲しいものは おだやかな暮らし
 あたりまえの 太い根をはやし
 好きなひとの てのひらがすぐそこにある
 そんな毎日

 別に歌に自分を当てはめてる訳でもない。何だろう。この歌を聞きながら、昨日のタエコの事を思ったり、どうして人はこんな些細な幸福さえ手に入れられないんだろう、と思ったり。何故、手に入れたときにはそれを幸福だと感じないほど、人は強欲なんだろう、と思ったり。でも、こんなに平たい言葉で、胸を衝くのは彼の偉大な才能だと思う。

 まだリハーサルも何もしていないけれど、おおはた君と演奏するのを本当に楽しみにしています。つーか、単純にオレが聞いてたいんよ。隣でね。年末で大変だと思うけど、迷わず来てください。

 ちょっとした理由があって、「HW30thアニバーサリーツアー」のマルチトラックの音源を聞きました。他人事みたいにいいライヴだった。観客の愛を音からあれほど感じたことはないす。それに応えるバンドの熱量も半端じゃなかった。素晴らしい。今は気持ちが前を向いているので、それらをミックスするモチベーションは低いんだけど、あのツアーに足を運べなかった人たちのために、行くことが叶わなかった、東北、北海道、四国、山陰、北陸の人たちのために、音源化しようか、とも考えています。

by 山口 洋  

タエコのこと

2009/12/14, 20:21 | 固定リンク

12月13日 月曜日 晴れ 

 彼女の名前はタエコ。名前をつけたのはオレ。漢字で書くなら「耐子」。決して「多恵子」ではない。年の頃は70数歳。死んだオレの母親と同じ頃に生まれたんだろう。背は低く、腰は曲がり、時速2キロでしか移動できない。そして、眼光は鋭い。

 オレが走っている海沿いのマラソンコース、全長7,7キロには防風林が併設されている。海があって、砂浜があって、マラソンコースがあって、防風林があって、最後に国道が走る。幾重にも重なったパイのような構造が続く。平和と云えば、平和。でも、闇もある。時々、報道されるのだけれど、その防風林には100名を越すホームレスが住んでいる。夕暮れ時に走っていると、防風林からサンマを焼く匂いが漂ってきたりもする。ある時、海岸を清掃している職員が老人が座っているのを観た。仕事を終えて、帰ろうとすると、その老人は朝と同じ格好をしていた。つまり、死んでいたのだ。

 タエコも間違いなくここに住んでいる。初めて会ったのは二ヶ月くらい前。走り終えて、コースの端にひとつだけある自動販売機でスポーツ飲料を買おうとしたとき。タエコは販売機のあらゆるところを漁っていた。金が落ちていないかどうか。これは彼女が生きるための「労働」だ。そう思ったから、ずっと待っていた。けれど、いくら待っても彼女はそれを止めようとしなかった。しびれを切らして「すいません、飲み物買ってもいいですか?」。そうオレが話しかけても、じろっとオレを睨んだだけで、それを止めようとはしなかった。そうか、耳は聞こえるんだ。でも、その瞬間。ある意味で、オレは魅了された。近くで観る彼女はグランドキャニオンのように、深い深い皺が幾重にも刻まれていた。それはオレが想像もできない、壮絶な人生を送ってきたことを物語っていた。タエコには生への執着がある。その力がオレを惹き付けたんだと思う。自分が彼女だったら、どうだろう。多分、もう生きることに執着しないで、やってくる死を待つかもしれない。

 それから、オレは彼女に会う度に、会釈をするようになった。「こんにちは」と。ランナーはすれ違うときに、挨拶をする。それと同じだ。けれど、一度も何かが返ってきたことはないし、彼女が笑っているのを一度も観たことがない。ときどき、疲れ果てたタエコは海岸に座って、海や、夕陽や、家族連れや、恋人たちをずっと観ていることがある。その光景を観ると、胸が締め付けられる。哀しい顔をしないように、速度を上げて通りすぎる。そして、得体の知れない感情がこみ上げてくる。同情や、憐れみじゃない。怒りとも違う。社会って一体なんだろう。これだけ「生」へのエネルギーに溢れた人物が屋根の下で生きていけないのはどうしてなんだろう。自己責任。それも正しい。でも、この国の総理大臣には、オバマと対話するのと同じように、タエコとも話して欲しいと思う。彼女が口を開いたとき、そこからは想像もできないような道程が語られるに違いないのだから。彼女の横を通り過ぎて、いつもオレは自問自答する。オレに一体何ができる。歌を書いて、演奏して、そしてタエコが元気で居てくれる限り、挨拶をしよう。いつの日か笑ってくれることを夢見て。

 今日もタエコに会って、オレは走っていた。個人的な事情で、オレはどうしていいのか分からなくなっていたことがあった。突然眩しさを感じて、海を観ると、夕陽が黄金色に輝いて、海に輝く道が出来ていた。そうか、諦めず光の方に行けばいいのか。オレはそう思った。そして、願わくばタエコもこの光景を観ていますように、と。

by 山口 洋  

ドニゴールの風

2009/12/13, 00:49 | 固定リンク

12月13日 日曜日 雨 

 目覚めたら節々にガタが来ていた。当たり前か。じっとしているのと、積極的な休養とどっちがいいんすか?と身体に聞いてみる。ふむ。そうか。じゃ、身体と対話しながら、感謝を込めて、ゆっくり走ろう。
 アルタンが来日していた。今日は最終公演。三鷹まで出かけた。ステージに彼らがジュニア・オーケストラと指揮者と共に現れ、モレートさんが歌った瞬間。突如涙腺決壊。自分でも訳の分からない感情がこみ上げてきた。目の前にドニゴールの風景とか、自分が経験したこととか、浮かんでは消えた。心が焼豚みたく紐で縛られたようにドキューンとして、涙が溢れてきて止まらなくなった。何なんだ、この感情は。とてもじゃないけど、人に会えるような状態じゃなかった。楽屋にも行かず、誘われたパーティーにも行かず。歩いて、電車に乗って、街を徘徊して、空を見上げて、家に帰った。心からごめんなさい。オレとて、みんなに会いたかった。でも、もらった風景と巨大な感情をまずは咀嚼しなきゃ、と思ったのだ。アルタンはどんなに世界に名の通ったグループになっても、やっぱりドニゴールの香りがする。ダメだ、今日は言葉が浮かばない。でも、一言だけ。本当にありがとう。何だか、とても寒い日の冬の空のように心は澄んでる。

by 山口 洋  

走った距離は裏切らない。自主的フル・マラソン完走

2009/12/12, 03:05 | 固定リンク

12月12日 土曜日 晴れ 

 自主的にフル・マラソンをやるバカ者はこの世には殆ど居ないのだと。やったとしても、せいぜい30キロ走。あまりに身体的リスクが高いし、モチベーションを保つのが難しいから。でも、幸か不幸かオレとヨシミはそんな人間だった。オレたちは11時ちょうどににそれを始めた。先週のハーフで、ヨシミは1キロのラップを4分50秒で、オレは5分5秒で走りきった。どんなに頑張っても、それ以上はオレには無理だった。うちひしがれた。勝てないのだ。奴のあのスピードには。でも、30キロから先は二人にとって未知の世界。だから、今日は1キロのラップを6分30秒に設定した。それなら、最後まで走れるはずだ。どんなにキツくても。そのタイムで走り続ければ、ゴールのタイムは4時間30分になる。ところが、走り始めて気づいた。6分30秒はさすがに遅すぎる。だから、30秒上げて、6分のラップでフル・マラソンを目指すことにした。これはレースではない。42キロがどれほどの道のりなのか、それを互いに知りたかっただけだ。5キロ、10キロ、15キロ、20キロ、25キロ、30キロ。30キロの時点で我々は3時間を切っていた。さすがに練習の甲斐あって、息を切らすことなく同じラップを刻んでいける。さぁ、ここからが未知の領域。ところが32キロを過ぎたあたりで、ヨシミに異変が起きた。今までのレースでは0勝3敗。まったく歯が立たなかったあのヨシミがズルズルと遅れていく。オレも決して楽ではないけれど、ラップはキープできる。いろいろ考えた末、オレは自分のラップをキープすることにした。振り返ると奴はもう見えない。36キロで最後の折り返し。そこからはヨシミが居ようと居まいと自分との闘いだ。とにかくラップだけは落としたくなかった。すれ違ったヨシミは息も絶え絶えで走っている。その差約1.5キロ。何が起きたのか、分からないけれど、すまん、オレはオレの道をいく。先日のハーフの地獄のような苦しさに比べれば、35キロ過ぎの疲労も大したことはなかった。何とかラップはキープできた。さすがに走るのがもう嫌になってはいたけれど。最後の5キロくらいは何を考えていたのか、覚えていない。多分、無に近い状態だったんだと思う。遂にゴールにたどり着いた。4時間11分。レースではないのに、まずまずだと思う。平均ラップ5分56秒。最後までそれが落ちることはなかった。
 待てど暮らせど、ヨシミは帰ってこない。奴は5時間経って帰ってきた。足が4回つったのだと。あの根性ものが歩くなんてあり得ないことだ。多分、限界だったんだと思う。マラソンが面白いのは、根性だけではどうにもならないところ。レースになれば何とかなるだろうってことはあり得ない。誰かの言葉の通り、走った距離は裏切らない。緻密な作戦と絶え間ない努力がなければ、我々みたいな凡人が4時間の壁を破るのは難しい。今日だって、たまたまオレは足がつらなかっただけのことかもしれないし。とにかく、あと11分だ。不可能なことではない。でも慢心すれば、不可能だろう。でも、初めて走りきった42.195キロは決して手の届かない距離ではなかった。
 今日はレースではない。だから、オレは奴に1勝をあげた訳じゃない。でも、奴も学んだだろう。何も考えず走っていれば、必ず失速する。その位には充分に厳しい。周囲に惑わされず、自分のポテンシャルを知って、均等に配分して走り走り抜けなければ、目標を達成することは難しい。
 本番のレースまで、あと3ヶ月ある。到底不可能だと思ったことを、実現するためにあと、3ヶ月ある。頑張れば、何とかなるところまでは来たと思う。でも、ヨシミが居てくれて良かった。先週、死ぬ気で走って、奴に完膚なきまでに負けて、オレは気持ちが折れかかった。でも、そこから這い上がってきて、多分、今日奴の方が折れた。一人じゃ、ここまで来ることすら無理だったと思う。オレ達が目的を達成しからと云って、何がしかの金がや名誉がもたらされる訳じゃない。だからこそ、光のためにまっすぐに頑張れるんだと思う。
 奴と焼き肉屋に行って、しこたま喰った。なぁ、無駄な努力は決して無駄じゃないよな。一銭にもならないことに、夢中になれる自分たちがそんなに嫌いじゃない。それは金には換えられないと思うよ。

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by 山口 洋  

飼い猫の弔辞と写真家の偏愛

2009/12/11, 15:23 | 固定リンク

12月11日 金曜日 雨 

 明日は「本気」ではないにしろ、初めて42キロを走るので、体内のグリコーゲンを満タンにしておかねば、後半のガス欠は確実にやってくる。三日ほど前から炭水化物を増やしておき、前日の晩飯で完了すると云うもの。カーボローディング。昨夜は所用で東京に出かけた。また飢餓状態がやってくる。そうなると、もうダメだ。何もできない。血糖値が下がると、身体が震える。面倒な身体になったなぁ、と思う。空腹のピークを過ぎると、喰えなくなる。だから慌てて「焼き肉屋」に駆け込んで、栄養を摂取。自分では気持ち悪くて調理できないレバーを喰って、鉄分補給。ご飯もおかわり。喰うと、エネルギーが身体中に充満するのを感じる。まったく本気で走るってことは、身体にいいのか、悪いのか微妙だね。最近は顔が小さくなったねぇ、と云われる。自分でもそう思う。甘いものに続いて、果物が無性に喰いたくなってきた。最近まで果物は生きていくのに必要ないと思っていたから、口にしなかった。総じて皮を剥くのが面倒くさい。ところがどっこい、ああリンゴ食いたいとか、美味しいご飯粒が喰いたいとか、チョコ喰いたいとか、思うのだ。ビール飲みたいと思う前に。人間の細胞は一年で入れかわると、いつか書いたけれど、齢45にして、それがモーレツなスピードで起きてるんだろうと思う。

 バーで知り合った、近所にお住まいの写真家の50歳を祝う展覧会に行った。住宅街の中にあるこじんまりしたギャラリー。威圧感がまったくないのが好きだ。オレには何人もの写真家の友人が居るのだが、それぞれの被写体への「偏愛」っぷりに呆れ、そして感銘を受ける。ある人物は世界中の雑木林を撮影する。雑木林なんて、どこでも同じじゃん、と思うが、絶対にそうではない、彼にとっては。ある人物と撮影旅行に出る。普段はウシみたいな人だ。でも、ファインダーを覗いている時は戦士みたいだ。断崖絶壁の端っこにフツーに立っている。総じてヘンで、そしてフツーだ。今日の彼の作品で好きだったもの。それはメキシコの壁をクローズアップして撮影した作品。壁とは人為的なものだ。でも何度も安物のペンキで塗り直され、経年変化がそれに加わると、作為が作為ではなくなってしまう。何とも不思議な世界になる。写真家は夢中になってそれを撮影する。黒い布をかぶって、蛇腹のでっかいカメラで。気がつくと、「何でこいつはこんなものを撮影してんだ」と黒山の人だかり。オレも写真家との旅の中で、何度も同じ光景を観たことがある。でも、彼らを駆り立てるその情熱がオレは好きだ。偏愛って言葉にするとネガティヴに聞こえるかもしれん。でも、それは本物の情熱だ、と思うのだ。
 今日、テレビにアラーキーが出ていて、自分の葬式の花代わりの「花の写真」は既に撮影済みだと。美しかった。弔辞は猫のチロに読ませるつもりなので、ニャーニャー練習させている、と。最高!

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by 山口 洋  

繋がっていくこと

2009/12/10, 17:25 | 固定リンク

12月10日 木曜日 晴れ 

 今日もまた、海に沈んでいく太陽の光に見とれながら走った。海に描かれたひとすじの光の道。本当に毎日、カメラを持っていなくて悔しいけれど、それはそれでいいじゃん、とも思う。

 何も画策しなくても、物事は動き続ける。信じているのはただひとつ。まっすぐに歩き続けること。

 アイルランドの新聞社からメール。明日、その記事は載るのだと。ちょっと前に、「お前は外国に行くことになるだろう」と云った人物が居た。「へー、そうなん」と思っていたが、いつでも行けるようにパスポートを取っておけと云うメッセージのような気がしてきた。だから、そうしよう。

 マサル。「eagle talk」がとある国のラジオで流れてるんだって。予想以上に反響があるんだって。ネイティヴ・アメリカンと日本人の組み合わせが信じられないんだって。そりゃ、そうだろうね。音はアメリカのディストリビューターまでは届けられたと。繋がっていくといいね。

 日本のハワイアンの草分け、かつ第一人者であるミュージシャンのご遺族とプロデューサーとの橋渡しをすることになりそうだ。こうやって、いい音楽が後世に伝えられていくこと。カネとか、そんなことではなく、それも自分の役目なんだと思う。

 毎日、おおはた君のアルバムをエンドレスで一枚づつかけっぱなしにしている。笑わないで聞いて欲しいけど、寝ているときも。オレ、相当好きだわ、彼の音楽。楽しみだね、ライヴ。

 12日に、ヨシミと「自主的フルマラソン42キロ」に挑戦する。何もそこまでしなくても、と云われるけれど。走ってみたいのだ、その距離。いったいどんな世界なのか。知りたいのだ。走った人は口を揃えて、35キロからは地獄だと。俺たちは本番でいきなりそれを体験する訳にはいかんのだ。

 何だかグルングルンにいろんな事が身の回りで起きていて、果たしてどれから手をつけていいのやら。とりあえず、一番情けないところから書くなら、パンツ(下着)のサイズが合わなくなった。動くとずり落ちる。残されたサイズはひょっとして子供用だけかもしれん。だから、無理してでも喰っている。明日は極上のカレーを二人分予約済み。一人分じゃ、到底足りない。オレは大人のパンツがはきたい。

 質の良い睡眠を取ろう、と。「おふとんの国」をきれいにした。ああ、気分がいい。そんな日々に書いた曲が詰まった次のアルバムはどんな音楽になるんだろう。まったく想像つかず。でも、深刻なものは作りたくない。もういい。おおはた君のとはまた違った形で、日々の中でほっこり響く音楽。エンドレスで聞いていても、まったく飽きない音楽。そんなのがいい。

by 山口 洋  

ジョンの魂、そしてRun for マサル

2009/12/09, 18:11 | 固定リンク

12月9日 水曜日 曇り 

 ジョンの命日に、アナログ盤を持ってきてくれた人物が居た。彼の音楽は細胞の隅々にまで血や肉として入っているものだと思っていたが、ジョンが亡くなった齢を5つも超えて、あらためて聞いてみると、その才能、ヴィジョン、葛藤、軋轢、凄まじい人生に、あらためてのけぞるしかなかった。今も昔も一番好きなアルバムは「walls and bridges」。うちにあるアナログ盤は自ら命を絶った友人の形見だ。一番好きな曲は「nobody loves you」。昨夜、邦題を知って驚いた。「愛の不毛」。そりゃないだろうと、ライナーを読んでみたら、当時の東芝EMIの担当ディレクターは知り合いだった。今度会ったら、その邦題はないっすよと伝えておこう。「愛は不毛」ではない。ジョンはアイリッシュの血を引いている。今まで気づかなかったけれど、アルバムには自分がアイリッシュであることのアイデンティティーについて、切々と書いてある。そしてそこにもDonegalの文字が。そうだったのか、とジョンの命日に。導かれて、オレもあの土地にたどり着いたのか、と。一番好きな表情は亡くなる直前の「ダブル・ファンタジー」。ジョン40歳。穏やかでいて、強い意志がその目に宿っている。彼は「愛」に生きた人だと思う。母の愛への葛藤が、彼をあのような人物にした。シニカルなところはデッド・パンそのもの。そしてヨーコに出会って、紆余曲折があって、素晴らしい作品を我々に遺してくれた。逃れようのなかった「経験」。それに感謝しながら、作品に昇華することの素晴らしさを今更ながら教えてくれる。オレは曲を書き続けようと思ったよ。ありがとう。ジョン。

 そして今日は我が友、マサルの命日。もう一年も経ったんだね。あんたが居なくなって、オレは寂しい。いろんな人間に来ないか、と誘われたけど、まだ勘弁してくれ。泣いたら止まらなくなる。その位、オレは女々しい。だからあんたの魂のために走った。今日も海は穏やかだったよ。いつだって、あんたはオレの心の中に居る。いつだって会えるさ。あんたが大切にしてた家族や友人たちをこれからも見守ってくれ。この前とある人物に云われたんだ。イタズラ好きな友達がオレにはくっついていて、その男がオレに酒を飲ませて悪さをするってね。そんなの前述のジョンのレコードをくれた奴とあんたしか居ない。もうオレは酒に飲まれることもない。変わったんだ。だから、もう大丈夫さ。あんたと作った作品はメゲずに世界に伝えていくよ。ありがとう、マサル。
 
http://www.youtube.com/watch?v=bAn_GDrMEaI 

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by 山口 洋  

リセット、そして潮の路

2009/12/08, 21:02 | 固定リンク

12月8日 火曜日 晴れ 

 二日前のレースを終えて、燃え尽きてしまったような気がした。ベストを尽くすと云うことは、ときどきこのようなことをもたらすのかもしれない。走っている間じゅう考えていたのは、ただただタイムのことだけだった。最後まで決めたペースを落とさないこと。それ以外のことは何も考えられなかった。キツすぎて。でも、それって果たして、自分が望んでいたことなのだろうか?それが分からなくなって、うろたえた。オレは機械じゃない。人間だ。多分、ここらでリセットしなきゃならないんだろう。恐怖に煽られてマシンのように走るのは一度止めてみよう。そう思った。
 音楽では、もうそんなことはない。きっと生きている限り、前を向いて、何があっても続けていくだろう。そのくらいには音楽の神様にも愛されているのを感じる。何よりも、面倒なことも含めて、楽しい。ステージではもう何も考えない。「無」に近い。
 こんな時に限って、たくさんの「誤解」がもたらされる。あからさまな誤解。ひどくしんどい。でも、こうも思うのだ。それも自分が引き寄せている。
 もう一度、何がオレを走らせているのか、確認しよう。時計も外した。眼鏡もかけた。小銭も持たない。ただ、何も考えず、ゆっくりと走ってみよう。海に出た。とても穏やかだった。凪いでいた。そこに映る夕陽が本当に奇麗だった。光に向かって走っているようだった。やがて太陽が沈んだ。海は黄金色に輝いていた。そこに路が見える。これが潮の路か。初めてみた。ゆっくりと穏やかな気持ちになった時、そこに行くべき路が見えることもある。嗚呼、そうだったのか。今日も走らせてくれてありがとう。そうでなければ、この光景には出会えなかった。路はどこに繋がっているのか。オレはそれが知りたいんだと思う。そして、まっすぐな気持ちでそれに向かっていけば、偶然は必ず必然になると、信じていたいんだと思う。

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by 山口 洋  

see you in my dream

2009/12/07, 11:45 | 固定リンク

12月7日 月曜日 晴れ 

 久しぶりに車に乗った。スタジオの行き帰り。12/26に一緒に演奏するおおはた君のアルバムを聞いていた。素晴らしい。ド真ん中。今日、聞いていたのはカバー・アルバム。エリック・カズ、ニック・ドレイク、友部さん、レッド・ベリー、エトセトラ。かぶってるなぁ。何が素晴らしいって、余計な音が一切ない。12月の車窓の風景と相まって、もうひとつの流れていく風景が心の中に浮かんでくる。それだけの隙間が音の中にある。そこに自分の演奏でこんな風景を付け加えたいなぁ、とか思う。本当に楽しみだね。是非、来てください。

 小坂忠さんの一日限りのリハーサル。わずか一日でどーすんだよ、と内心思っていたが、そこは百戦錬磨のミュージシャンたち。バンマスKYONさんの元、ワンテイクかツーテイクでどうにかなっていく。お見事。もちろん参加した全員に忠さんへのリスペクトがあっての話なんだけど。

 マラソンの弊害、その3。腹が減って血糖値が下がると震えがくる。多分、脂肪がないからだと思う。リハーサルが終わって、空腹でフラフラ。何かを喰わねば、とひとり定食屋に駆け込む。ご飯を二口喰って落ち着く。店にあった新聞に小津安二郎の言葉。「私の表現したい人間は常に太陽に向かって、少しづつでも明るさに近づこうとする人間だ」。同感。オレが表現したいのは、困難だと分かっていても、ニンゲンとして生まれたからには光に近づこうとする人間だ。

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by 山口 洋  

勝利と敗北、三度目のレース完走

2009/12/06, 14:57 | 固定リンク

12月6日 日曜日 快晴 

 3度目のレース。ハーフマラソン、21.1キロ。朝8時20分スタート。結果から先に書こう。自分に勝って、ヨシミに負けた。

 自分で掲げた目標は1キロを5分10秒で走りきること。そうすれば、タイムは1時間50分を切る。このひと月、やれることは全部やった。ツアーの合間を縫って、月間270キロ走ったし、坂道ダッシュもやったし、レースぺース走もして、目標は実力に上乗せしたギリギリのところに設定した。多分、今のオレにはこれが限界。ハーフにはいつものマラソンの匠、S君とライバル・ヨシミとオレがエントリー。10キロにはお菓子屋のボンと、初めての女子がエントリー。
 睡眠も食事も気をつけた。出来ることは全てやってみた。前日は餅も喰ったし、朝にはバナナとおにぎりも喰った。ヨシミは若さを味方につけて、ペースも何も考えず、とんでもなく速いS君に限りなくくっついていく「根性コバンザメ走法」で行くらしい。天気も良く、気温も上がった。前回の失敗を踏まえて、オレは廻りに左右されず、4分台後半のペースを守る作戦に出た。しかし、S君とヨシミは彼方に消えた。嘘だろ?速過ぎるぜ。オレはこのペースを落とさないことで精一杯。最後の折り返しで、二人とすれ違う。いつもと違って彼らにもまったく余裕がない。多分、今日は全員がそれぞれのギリギリのところで踏ん張っているんだろう。オレももうこれ以上無理っちゅー走りを継続した。あまりのキツさに真面目な話、棄権しようかと思った。レースの5分の4は地獄だった。支えていたのは根性と、積み重ねてきた根拠のない自信だけ。それでも諦めなければ必ずゴールはやってくる。1時間47分30秒。平均ラップ5分05秒。前回より8分の記録更新。自分の目標は達成したが、ヨシミはオレより6分も速かった。S君に至っては驚愕のタイム。でも今日は何の後悔もなし。オレにこれ以上の力はない。全部出し切った。単純にヨシミの方がポテンシャルが高いのだ。素直に負けは認めよう。フルマラソンまでの道のりはまだ長いんだし。嗚呼、0勝3敗。
 しかし、それから2時間、オレたちはその場を動かなかった。つーか、動けなかった。女子も53分で完走し、お菓子屋のボンも57分でゴール。それぞれに達成感を手にしたみたいで、嬉しかった。

 走ってる時はこう思うのだ。「もー、こんなにしんどいことやめてやる、ぜんぜん楽しくねー」。でも自分の壁を破った達成感はこのキツさがないと得られない。ヨシミもオレもサブ4(4時間切り)にはまだまだ実力が足りない。このキツさをこの倍の距離耐え続けるのはきっと無理だろう。だから、足をひきずりながら家路に着いて、またメラメラと燃えてくるのだ。

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by 山口 洋  

レース前日

2009/12/05, 14:05 | 固定リンク

12月5日 土曜日 曇り 

 3度目のレース前日。明日はハーフを走るので、軽めの調整。ゆっくり走りながら、筋肉や関節、ひとつひとつに状態を聞いてみる。完璧じゃないけど、レースに向けて、仕上げていくことも随分覚えた。最初はまるで「明日は特攻出撃」みたいな気分で緊張して眠れなかったが、ようやく慣れて、自分の練習がどれだけの結果をもたらすのか、目標を決めて、それを実現する。そんな気持ち。適度な緊張感もまた気持ち良し。嫌いなバナナも喰うし、自分に勝つためなら何でもする。マラソンの友、ヨシミにまた負けるようなことがあれば、通算0勝3敗。前回3秒差で負けた屈辱を胸に、このひと月頑張ってきた。スーパー負けず嫌いの男との闘いもまた楽し。奴は関西人なのだが、走り終えた後の勝利のコメントが毎回ムカつくのだ。「折り返しのとき、既にオーラのないヒロシさん観て、何て慰めようかって考えながら走ってましたわー。わっはっはー」、あるいは「ヒロシさん、もう歩けないほど疲れてるじゃないすか。オレ、まだこのままぜんぜん走れますわ。わっはっはー」みたいな。てめー、覚えてろよ。30キロ走はオレの方が4分速いんじゃ。明日は九州人のド根性を見せてやる。

 昨夜はお菓子屋のボンが「田舎風アップルパイ」を持ってきてくれた。美味かった。遂にオレはスウィーツに目覚めてしまったらしい。未知の味覚領域。何だか舌の知らなかった部分がビンビンに感じる。甘さを。多分、終戦直後の「ギブ・ミー・チョコレート少年」状態なんだろう。今日に至るまで殆ど喰ったこともないくせに、ボンに「オレみたいなスウィーツ嫌いの連中も喰える甘さ控えめのものを開発したら売れるんちゃう?」とか云ったりする。毎日、ありがとね。ちなみにボンも明日の10キロに出場する。ケントーを祈る。

 周囲で続々と走る人が急増中。いろんなことを質問される。オレはただ熱いだけの初心者だっちゅーに。でも、それぞれのペースでそれぞれの目的で走ればいいと思う。過激にメタボってる人は歩くことから始めればいい訳だし。逆にその方がきれいなフォームを作るんじゃないかと思うし。オレみたいに訳も分からずがむしゃらに走ることだけはおすすめしない。振り返ってみると、確かに走ってないとやってられない理由はあったのだけれど、靴箱にあったスニーカーを履いて、心臓が破れそうになるくらい全速力で走って、休息もまったく取らず、雨の日も風の日も走り続け、膝の痛みで階段を登ることもままならず、こりゃ壊れる。そこまで来て、ようやく学び始めた。「オレも走ります」。「私は歩きます」。そんな連絡が良くあるけれど、お願いだから、靴だけはいいものを買ってください。店員さんのアドヴァイスを聞いて、見かけで選ばず、適したものを買ってください。とりあえず必要なものはそれだけです。オレの爪はもう4本死んでます。初期の無茶苦茶な練習と、合わない靴を履いていたせいです。アシックス社は根性入れて、日本人に合うものを作ってるなぁ、と思います。どうか、ひとつよろしく。

 はてさて。走ることは天候にも左右されるので、毎日の天気を気にして、その時間を選びつつ、新しい曲も書き、オファーがあったたくさんの曲も身体に入れつつ、12/26のおおはた君の音源も届いたので、ライヴの内容も考えつつ、音楽に向き合っています。1月の後半は「on the road,again」で昨年廻りきれなかった九州地区に行きます。お楽しみに。3月は魚ちゃんと二人で、新しい曲を抱えてツアーしたいなぁ、と。そんでもって、フルマラソンを走って、新しいアルバムのレコーディングを開始したいと思ってます。

 てな訳で、今日は13曲の譜面とカクトーしています。吐きそうです。譜面は書いた人によって癖があるので、長年の間に生み出した「山口式記号譜面」に書き直します。これはオレしか読めません。つーか、こんな風に書かないと、現場で即座に反応できないのです。五線譜に書かれていると、どうしても目で追ってしまって「音楽」を楽しめないのです。ふにー。

by 山口 洋  

飢餓状態

2009/12/04, 15:50 | 固定リンク

12月4日 金曜日 晴れ 

 異変その1。
 頂き物のローストビーフの塊を観た瞬間。「これを塊のまま、今すぐ喰いたい」と云う衝動に駆られた。気づいた時には、まるで原人みたいに両手でそれを抱えて、手も洗わないまま、立ったまま、むさぼり喰っていた。完食。普段、オレは好んで肉を喰わない。まして、レア状態のものは好きではない。しかし、「原人喰い」したレアのローストビーフは美味かった。狩りをした後のご褒美みたいな感じだった。
 
 異変その2。
 夜中に突然、「シュークリームが喰いたい」と云う衝動がやってきた。もう日付が変わろうとしているのに、老舗のお菓子屋のボンに電話して「シュ、シュークリームが喰いたいんじゃー」と云って、電話を切った。ボンは家路に着いていたのに、わざわざ会社まで戻って、シュークリーム一式を持ってきてくれた。(ありがとね!!)箱を開けて、オレは2個、原人喰いした。オレの普段の食生活を知っている人が観たら、失神したかもしれん。オレは甘いものはまったく喰わない。もう何十年も喰いたいと思ったことがない。しかし、シュークリームは美味かった。砂糖が全身に廻っていくのが分かる。

 いまどき、こんなに飢えてるのは市橋容疑者と断食中の渡辺圭一とオレくらいだと思う。思うに、身体中の脂肪は全部燃えてしまったんだと思う。脇腹にあるほんのわずかな贅肉を除いて、もう何もない。マラソンの師匠ゲンちゃんが、「とにかく、喰ってください。ご飯だったら2合くらい。この運動は一日に軽く1000キロカロリー以上消費しているので、それ以上の補給をしてください」。うーん、なるほど。何だか、原人級の食欲が湧いてくる自分がそんなに嫌いじゃない。

 これまでは解剖学とか運動生理学だったが、これからは栄養について学ばなければ。グリコーゲンやアミノ酸。それらを身体に取り込んで、効率良く使わなければ、必ず後半バテる。ガソリン切れ。これまでに読んだあらゆる巻物によると、相当無茶なスピードで前進しているし、自分が掲げた目標にも着々と近づいている。ただし、これからは自分の身体に「燃料」をちゃんと補給しなければ危ない。実際、明後日は三度目のレースなのだ。今日あたりから考えて食事をして、きちんとガソリンを入れておこうと思う。実験だ。

 嫌いだったものも、きちんと身体が欲するようになる。それもまた面白い。身体は相変わらず固いままだけれど、毎日のストレッチで少しづつ柔らかくなっている。昨日、見せてもらったゲンちゃんのマラソン日記はオレが今、克明に記録しているものとほぼ同じだった。ラップ、その日の目標、天候、体調、エトセトラ。それらをデータ化すると、いろんなものが見えてくる。初マラソンで4時間を切ったからと云って、何がもらえる訳でもないけれど、多分、駆り立てられているのは、「達成感」とその先にある光のようなものだと思う。

 月末にある今年最後のライヴ。小坂忠さんの曲の譜面が送られてきた。その中に「I believe in you」と云う曲があって、「またか」と思う。オレもまったく同じタイトルの曲を書いているところだったからだ。何だかねぇ。本当に不思議だ。

 12/26のライヴ。おおはた君からメールをもらった。彼の演奏は本当に素晴らしい。一緒にやってみたいと思う数少ないミュージシャンのひとり。まだ彼の音源が届いていないから、どんなライヴになるかは不明だけれど、是非観に来てください。HWとはまた違った音楽の風景を描けると思うから。

by 山口 洋  

interviews in English

2009/12/03, 13:20 | 固定リンク

12月3日 木曜日 雨 

 教訓その1。雨の日は走ってはいけない。自然に逆らわず休養日にするべし。

 いつまでたっても英語は鬼門。マラソンみたいに燃えないのはどうしてなんだろう。でも、アイルランドに居るときは、ギネスがあれば問題なし。これはホント。ある時、オレは北京でムービーを回されてた。中国人を相手に、とても楽しそうに会話がはずんでいる映像を観たことがあるのだが、今となって思うに、あれは何語で話してたんだろう?謎だ。ロシアでは「スパシーバ」を連発して切り抜けた。ああ、何だかアイルランド行きの飛行機に飛び乗りたくなってきた。もう5年も行ってない。その前にパスポートが切れてるっちゅーに。

I am Yamaguchi (family name) Hiroshi (first name). Born in 1963, 45yrs old. I am living in Tokyo, the capitol of Japan, but was born and grown up in Kyushu. Kyushu is an island in the southern part of Japan, and is about the size of Ireland.

In 1979, during my high school days, I formed the band "heatwave". I did all of the songwriting as well as vocal and guitar. In 1990, "heatwave" made its debut from SONY RECORDS, and.... I'm still in the scene. It's our 30th anniversary this year. We've just finished the anniversary tour in November.

While working with "heatwave", I've travelled around all over the world and met many musicians. Irish musicians I'v played with are Altan, Donal Lunny, Sharon Shannon, Doroles Kean, Liam O Maonlai, Kila, and more.

I think the first time I visited Donegal was probably 1993. At that time, I was freeloading at Toshi Kazama the photographer's house in New York. One day, we decided to take a trip and flyed from NY to Shannon Airport. I was always a fan of Irish music, and also, all the Irish I met in NY said "Hey, you're like an Irish guy. You must hurry up and go to Ireland. And make sure to take the route from Shannon Airport". So, there we were, rented a car and drove all over Ireland, and fell in love with the wild....a rather dismal scenery of Donegal. Finally, when we stepped into the mainstreet of Dungloe, we smiled at each other and said " this is it " .
It was truely a coincidence that we "found" Donegal. It was a view that captured us more than any other place. It fit us perfectly.

Our inspiration was right. We made a lot of friends shortly. Mrs. Beedy, who runs beedy's on the mainstreet of Dungloe is a very special person, as much as my mom , to me. Actually, when my mother passed away, I release her ashes in Dungloe Bay, and Beedy gave me a big hug. I'm always hoping for her to stay well, cuz....
she IS my mother.

I think I've visited Donegal at least 15 times. Each time everybody welcomes me with an unchanging attitude. I have buddies just like my classmates, children like my own, and I have my mother there. My English isn't very well, but I find no difficulties as long as I've got GUINESS! Good music, nature, drinks, warm hearted people... there's nothing in Donegal, but there's everything in Donegal.  

Why I like Donegal? There are too many reasons to list up, so Iet me share one of them with you.
In the pub I always go to, there's a room for the elders sitting in front of the fireplace, and another room for the younger people. The young ones always come to greet the elderly first and then go to their space to enjoy the night. I reminds me of the good old days in our country, too. Everyone respected the elderly. However, nowadays, people treat the elderly like rubbish. Many old people living by themselves pass away, due to illness, starvation, or whatever something hard to believe, without anyone not noticing. There's definitely something wrong with the nation's policy, too.
There are so many things that we lost behind the significant economic growth. People have forgotten to care about each other. So, it makes me cry when I see what's happening in your pub. It's wonderful. The elderly being respected and the tradition is passed on to the next generation. It's great. And me? When I am not playing music, I spend my time in the "senior room" with my friends.

When I first visited Ireland, there was an old lady who mainly spoke IRISH. I was delighted. My friends taught me a lot of funny IRISH, too, such as "POGUE MAHONE". Language is a very important factor of one's identity. Thus, I think it's fabulous that little kids are learning Irish in school.

Ian Smith, the great musician living in Donegal, first taught me "The Homes Of Donegal". It struck me. All the things I like of Donegal is sung in this song. So I decided to sing in Japanese to tell the Japanese audience of its wonderfulness. With Donal Lunny as the producer, I recorded the song with Sharon Shannon and Narig Casey all at once in the studio. The scenery of Donegal came floating out of the headphones in the studio in Tokyo. It was so touching. After some while, I met Paul Brady in Tokyo. He liked my version and made me happy. Also, Mairead from Altan brought back my CD to Ireland and handed to the radio DJ. I truly appreciate such relationship among us.

I put together my diary and made it into a book "The homes of Donegal", to introduce Donegal to my fans. I heard that quite a number of people actually went to Donegal with the book in their hands.

I cannot recall when I first met Mairead from Altan. When my friends took me to do a session in the pub in Gweedore, I met Francie, Mairead's father. He was a man. And her brother was a great guitarist. I stood on stage at an yearend event held in memory of Franky Kennedy in Dunlewy, too. I can never forget that moment when I sang without using the microphone at the foot of Mt. Elligalle. Ah, now I remember! Mairead was teaching many young people how to play the fiddle in the hotel's lounge in Gweedore. That's my first encounter. It was such a nice view. And when Altan came to Japan, we did "the Homes Of Donegal" together quite a few times. Of course, I will go to see them when they are here.

I wanted to observe my country closely... observe its craziness. So I went on the tour all around Japan choosing small towns as much as possible. It's certainly disasterous, but at the same time, it's not hopeless. Just like your people, people in Japan, as well, cannot live without music. That's why I didn't have time to go to Donegal after 2005 when I went to produce a Japanese singer with Kila. While doing this interview, I really started to feel like going to Ireland. The smell of the peat. People's smile. I'll definitely be there in 2010. I will go to Donegal.

I've always thought Donegal as my hometown and played music. Thank you very much. I really appreciate from the bottom of my heart. The scenery, nature, music, people...they are all in my heart always. Everyone, please stay well. I'm doing my best here, too!

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by 山口 洋  

心眼

2009/12/02, 19:19 | 固定リンク

12月2日 水曜日 晴れ 

 きれいな満月。心が洗われるような光。

 ドニゴールの新聞社からインタビューの原稿が届いた。その中に、今月来日するアルタンとは会うのか?と。ふーん、来日するんだ、と思っていたら、招聘元から連絡があって、「久しぶりに会いに来ませんか?」と。ふーむ。不思議な連鎖は今日も続く。オレは何も画策せず、ただまっすぐに歩いているだけなんだけれど。

 オレが18のとき。ちょうどこの日。親父は車2台に轢かれた。二週間生き延びたら、植物人間として生きるでしょう、と云われて、ちょうど二週間目に死んだ。ときどきフラッシュバックのように、いろんな光景が蘇る。案外しつこい。もうすぐそのときの彼と同じ齢になる。彼の無念を勝手に晴らそうと、同じ齢になったら、彼を越えてやろうと思って生きてきた。オレはあんたより頭の回転は遅いけど、タフだし、健康だし、友達にも恵まれてるし、夢も希望もあるし、愛の意味も分かりかけてきたし、エトセトラ。何よりも、あのときと変わらない表情でオレを励まし続けてくれて、ありがとう、と心から思う。あんたはいつもオレの心の中に居る。

 今日はコースまでの往復6キロをゆっくりと。そしてコースでは10キロの軽めのラップ走を。目標は1キロ、5分40秒で。結果は平均ラップが5分38秒。トータル56分02秒。1キロごとのラップのばらつきが減ってきた。努力すればどんどん伸びて、新しい世界が見えてくるのが本当に嬉しい。子供の頃から視力が弱い。でも、走るときは音楽も聞かないし、眼鏡もコンタクトもしなくなった。はっきりと見えることにあまり意味を感じないのだ。稀に道のくぼみが見えなくて失敗することもあるけれど、視界がぼーっとぼやけている方が走りやすい。多分、ニンゲンには眼球以外にも目があるのだ。もちろん心にも。眼鏡を外すと、そこが鍛えられているのを感じる。後ろから近づいてくる自転車は耳が察知する。だいたいどの位のスピードで来ているのかも分かるようになった。不思議だ。

 可愛い弟分みたいな奴が「オレみたいに薄っぺらい男が」と云う台詞を連発するので、怒った。卑下すると、必ずネガティヴなものを引き寄せる。本当だよ。この世に意味のないニンゲンなんて居ない。それぞれにそれぞれの役目があるのだ、絶対に。走るようになって、筋肉にも「ありがとう」と思うようになった。アホか、と思いながらも、自分の一部であって、そうでない気もするのだ。毎日、良くもまぁ、これだけ過酷なことに耐えてくれて、ポテンシャルを上げてくれようとしている。帰りしな、やっぱり坂道ダッシュもやっとくか、と。ふくらはぎの筋肉に聞いてみる。「やっていいすか?」。「いいすよ」。帰ってきて、アイシングの代わりに冷水をぶっかけ、次に湯船につけて、入念にマッサージを施す。感謝するようになって、痛みが格段に減った。本当に不思議だ。

by 山口 洋  

今の限界

2009/12/01, 16:58 | 固定リンク

12月1日 火曜日 曇り 

 12月だよ。信じられるかい?2009年は1995年と並んで、生涯忘れないと思う。それだけの年ではあった。終わってないけど。旧知の炎のデザイナー、スントー・ヒロシから連絡があって、「1995年、あれから15年ですよ」と。不思議な連鎖は今も続く。午前中、3/28のマラソンの登録を済ませた。最後に何かに登録したのは「共通一次試験」か。その時の100倍くらい、心が引き締まった。さぁ、本気で走るぜ。

 12月1日。限界に挑戦してみたくなった。一人で出来る限界を知っておきたかった。5キロを軽く走って、帰りの5キロ、全力で走ってみた。4分12秒、4分55秒、4分45秒、5分7秒、5分42秒。トータル24分43秒。平均ラップ4分56秒。鈍重。でも、昨日より2分速い。これが今のオレの限界。心臓が破れるかと思った。このペースで42キロ走り続けても、3時間27分。絶対に無理。4時間を切るのが、今の自分にとってどれだけハードルが高いのか、身にしみて分かった。ただ、オレには秘策がある。それを今日から実行しようと思う。i believe in you. どうしても光にたどり着きたい。

by 山口 洋  
- end -