最終コーナーを曲がる

2010/07/31, 15:06 | 固定リンク

7月31日 土曜日 晴れ 

 この二月の忙しさは尋常ではなかった。忙しいと書くのは好きではないが、実際忙しいのだから仕方なかった。スケジュールを見たときに、「こりゃ乗り切れんかも」と一抹の不安がよぎったので、とにかく暇を見つけては「餌」を喰い、バテないように、どうにか時間をやりくりして、徹底的に走り込んだ。暑さから逃げるのではなく、暑さと向き合って順応していく方法を選んだ。結果、二月で600キロ走り、身体は職業不明な感じに真っ黒に焼け、どうにか乗り切ることができた。自分で「餌」を作る時間はなかったので、摂取カロリーが消費カロリーを上回るように徹底的に喰った。おかげで、レストランのメニューを見ただけで、「あ、これは1200キロカロリーね」なんてことが分かるようになったが、そんなの全然嬉しくなかった。
 昨日、宮城県でのイベントを終えて、僕ひとり「弾丸ツアー」のように、往復800キロをぶっ飛ばして帰ってきた。イカれてるとは思うが、時間は待ってはくれないから仕方がない。本当はこのイベントで「終わり」のはずだったのだ。でも、そうは簡単に事は運ばない。ボックスセットはデザイン、原稿、マスタリング、すべてがパーフェクトな仕上がりだった。そして、映像だけは、「僕は立ち会わないんで、やっといてください」的な態度を貫いていた。あの当時の映像を見るのは決して楽な作業じゃないからだ。しかし、送られてきたDVDを見て、他のものとの歴然とした「愛」の差に愕然とした。こりゃ、いかん。やっぱり自分が向き合って最後まで貫徹しなければ、ファンに向かって「素晴らしいものが出来たんで、家族会議にかけて、手に入れてください」なんて台詞は吐けない。映像そのものはどうにも出来ない。けれど、せめて音だけはきちんとリ・マスタリングすれば、かなり変わる。けれど、レコード会社の予算も尽きた、と。そりゃ納得できる。僕が「任した」と云う態度だったので、その分は予算に組み込まれていないのだから。今どき、レコード会社にも無尽蔵に金があるわけじゃないのだ。僕は担当者氏に懇願して、プロモーションビデオに関してはリマスターした新しい音源に差し替えてくれるように、そしてライヴ映像に関しては、僕が自力でリ・マスタリングするから、と。そんな訳でクーラーが苦手な僕は大量の汗をかきながら、仕事部屋にてライヴ映像のリ・マスタリング作業に取り組んでいます。もうすぐ最終コーナーを曲がります。あとちょっとだー、頑張れ自分。

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by 山口 洋  

街と音楽、宮城県某市にて

2010/07/30, 02:40 | 固定リンク

7月30日 金曜日 曇り 

 その建物を見たとき、顎が外れそうに驚いた。確か人口2,3万のこの街に、何故にこのようなゴージャスなホールが必要なのか、と。ホールだけではなく、隣にはこれまた巨大な体育館とジムが併設され、蓮舫議員が見たら、多分失神間違いなし。写真には収まりきれないけれど、本当にいちいちゴージャスなのだ。バブル期に建設されたのならともかく、それが作られたのは10年くらい前なのだと。どこかの宗教団体が建てたのなら、それに文句をつける筋合いはない。けれど、これは税金だよ。歴史のある素晴らしい城下町だけれど、夜中に飲み屋を探すのにも苦労するような街なんだよ。で、催し物は月に一度か二度くらいだと。いったいこの世の中はどうなってるんだ。僕は特定の団体や誰かを誹謗中傷したいのではない。このような建物を作り、運営する金があるのなら、もっと有意義な金の使い道があるはずだと云っているだけで。
 太古の昔からある種の芸術家にはパトロンが必要だった。それは理解してる。でも、昨今、地方都市のコンサートに原子力関係の金が流れていたりする。(今回のイベントの話をしている訳ではありません。念のため)巧妙だけれど、見え透いたプロバガンダ。それを知る度に腹の底からフツフツと怒りがこみ上げてくる。文化にまず必要なのは「ハコ」や「カネ」ではない。「情熱」だよ。オペラだろうが、ロックンロールだろうが、情熱さえあれば、何処でだって出来るはずだ。このホールでしかオペラを伝えられないのなら、僕がこの街の空き地でジョー・ストラマー直伝の「正しいEmの弾き方」を子供たちに伝えたい。

 そんな意味で、今日のイベントはまさに「街の人たち」による「街の人たち」のためのものだった。あちこちに街の名産品を並べた出店が並び、人々は普段の服装で気軽に入場でき、多種多様の音楽を楽しんでいた。ああ、良かった。何よりも客席には老若男女が居て、拍手は信じられないくらい長く続いた。それはミュージシャンを鼓舞するには充分なものだった。きっと奔走した人たちが込めた愛がオーディエンスに届いていたのだと思う。実際、街じゅういたるところにポスターが貼られていたし。作ったものを壊すにもお金がかかる。どうか、この建物で街の人たちが元気になるような催しが続いていきますように。

 さぁ、僕の出番だ。自分の出来ることにベストを尽くそう。リクオが気を利かして譜面を作っておいてくれたおかげで、僕はヴァイオリンとヴィオラと云う普段あまり縁のない音に包まれて、目の前のでっかい空間に新しい風景を見ることができた。ありがとう。

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by 山口 洋  

レインシャワーとプレシャスネス

2010/07/29, 15:11 | 固定リンク

7月29日 木曜日 雨 

 この時期、レインシャワーの中を走るのは、ランナーに与えられた特権。道路の照り返しもなく、雨が身体を冷却してくれる。潮風と草いきれが混じる中、誰も居ない海沿いの道をガシガシと走る。何処までも行けそうな気がしてくる。時々、自分が何処に居るのか分からなくなる。もう何も考えない。完璧な自由。肩書きなんて必要ないけど、ミュージシャンでランナーです。と応えてもいいのかな、と思う。不快なことはいろいろあるけど、全部忘れる。帰ってシャワーを浴びて、さぁ、本気で生きよう、と思う。

 僕は共に何かを創る人々に対して、何も云わない。自分が思った通りに誰かをコントロールしようなんて思わない。だから、僕の主な仕事は「人選」で、それが終った時点で仕事の重要な部分は終ったことになる。もちろん、頭の中には理想の「完成形」がある。でも、それが関わった人たちの「本気の仕事」によって、互いが影響され、あられもない方向に行けば行くほど、僕は満たされるのであって(ときどきとんでもない場所にたどり着いてボツにすることもあるけれど)、人を信じることは面倒臭さも含めて、基本的にはこのようなことだと考える。もちろん、誰彼なしに信じることなんて出来ないから、その人物のプロフェッショナルとしてのスキルは冷徹に見極めるのだけれど。そんな意味で、今回のボックスセットに関わってくれたプロフェッショナルたちの仕事を観ているのは、本当に胸がすくような想いだった。このようなチームで何かを創ることができる状況こそが、自分の財産なのだと、感謝と共にそう思う。

 この時代に於いて、独立した形でバンドのツアーを成功させるのは簡単ではない。だから、音楽のクオリティーはもちろんだけれど、何を作ってファンに喜んでもらうかってことも大事だと思う。ただ、目先の利益だけを考えて、「安かろう、悪かろう」みたいなものは作りたくない。自分が持っていたいもの、出来れば一生使えるもの、可能ならばそれを制作することによって、社会的に意味があると思えるもの。そういうものを作りたい。で、僕にはその才能がない。だから、「人選」を済ませたら、後はプロフェッショナルに任せる。全面的に。
 いつも僕らに賛同してくれ、ジュエリーを制作してくれるN君が「今回はリングだ」とブヒブヒ云いながら現れました。なるほど、これは素晴らしい。インディアン・ジュエリーっぽくないし、フリーサイズで男女を問わず、どの指にもいけるってことろが素晴らしい。

 じゃ、このリングに込めた想いを語ってくれ、とメールしたら、以下の文章が。熱いと云うか、暑苦しいと云うか。でも、説得力あります。

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1枚の羽根を製作し、それを丸めてリングに。
ただ羽根っぽいのではなく、1枚の羽根なんだという造形が大事。
当然、見えない内側にも、羽根の模様を1本1本、彫りました。
素材は、日本製の地金を。95%の銀と5%の銅を配合、不純物はゼロ。
都内某所、いつもの熟練職人の連携によります。
造形は造形だけを何十年もやっている職人がやりますし、
仕上は、磨く事だけを何十年もやっている職人がやります。
アナログな伝統の手法以外に、最新のデジタルの技術も用いました。
プレートに espoir の文字を彫り、内側に装着しました。
山口さんの手描きの espoir をコンピューターに取り込み、
レーザー光線を用いると、筆圧まで再現出来ます。

モノ作りを、安易にコスト安の海外生産にシフトし過ぎだと思います。
都合が良ければ、何をしてもいいのでしょうか?
それはユーザーの責任でもあるし、日本の文化も地盤沈下して行きます。
生産者も利益追求型で、弱い立場の日本の職人は、次第に諦めて行きます。
うちの工房は東京都が再開発した工房用物件を賃貸していますが、
トンボ玉職人や、鼈甲職人等、次々に消えて行きます。
専門学校を出た若い職人も否定しませんんが、
通るべき道は、通るべきです。自由もいいですが。

うちのknife acoustic grooveにせよ、espoirシリーズにせよ、
若い人はこんなのがいいのかねー などと言いながら、楽しそうに作ってます。まんざらでもない顔をして。
取材が入ろうが、決して外に出たがらない、寡黙な人達です。
カメラを向けると、逃げ回ります。伊勢丹の取材も、拒否した位です。
楽しい気分でモノを作るって大切ですね。人生の諸先輩方がコツコツ作ってます。

長くてすいません。
命名もお願いします。

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 はい。今回もまた熱いですね。普段僕は指に装飾品は付けません。ギターが弾きにくいからです。でも、とあるライヴで彼が作ってくれたこのリングを装着して演奏してみました。装着したからギターが弾きやすくなるってことはないんだけれど、気持ちが「上がり」ます。それってとても大切なことだと思うのです。素晴らしいものを作ってくれてありがとう。「物販」と云う言葉は好きじゃないので、ウチが誇る「モノ作り隊長」N君はこれからblogでそれらがどういう行程で作られているのか、伝えてくれるそうです。お楽しみに。しばらく、着用して「命名」します。リングは接写が難しく、装着したまま自分で写真を撮れません。近いうちに誰かに撮影してもらうので、それまではN君blogでお楽しみください。

http://kannna-peace.seesaa.net/

 今回のツアーにはウチが誇る「映像チーム」も帯同してくれる予定です。はい。例によって、僕が彼らに伝えたのは「ひ・か・り、だから。よろしく」、みたいな。あまりにも抽象的かつアバウトなリクエストにも関わらず、出来上がったプロトタイプは素晴らしいものでした。そちらも乞うご期待ってことで。

 では、宮城に向けて出発します。

by 山口 洋  

アナスタシア

2010/07/28, 18:15 | 固定リンク

7月28日 水曜日 晴れ 

 アナスタシアが天に還って一年。今日よりも蒸し暑い日だった。渋谷でクズになるまで酒を飲んで、もうこのように酒を飲むのは今日が最後だと決めた。彼女が僕のライヴを観て、こう云ったことがある。「ヒロシさんは自由な人だけれど、ギターのケーブルを抜いて、生音でやるときの方がもっと自由で好き」と。以来、一人のライヴでは欠かさずそれをやる。君と交わした約束は必ず守る。ずっと見守っていてください。

by 山口 洋  

Mastering day #5、「普遍の意味」、作業完了

2010/07/27, 12:51 | 固定リンク

7月27日 火曜日 晴れ 

 マスタリング最終日。5th album「1995」。いつも時代とズレていた僕らが、初めてそれと符合した作品。15年の月日を超えて、素晴らしい再生装置の前でその音楽を聞いていると、いろんなものが見えてくる。当時の僕は人を信じようとして、それを貫く力が足りなかったのが良く分かる。物理的にも精神的にもそれは難しかったし、当時の自分にその技量と度量があったとも思えないのだけれど。スピーカーから「tomorrow」と云う曲が流れた。その曲は当時のバンドのメンバーとどうにかして、この曲をモノにしようとする、関わった人間達全員の情熱と愛に溢れていた。僕らは手触りのよい、さしさわりのないJ-POPを作ろうとしていたのではない。総合的な人間力で壁を突破しようとしていたのだと思う。あの頃、自分の情熱と、置かれた状況は、自分の手に余っていた。佐野元春さんの力を借りなければ、今の僕らは存在し得なかったとも思う。
 多くの曲を録音してくれた森岡徹也の仕事は素晴らしかった。その音はまったく古くなっていなかった。彼はトレンドを追いかけたのではなく、僕ら「ニンゲン」が心から発した音を記録していた。普遍。一連の作業を通じて、僕は何を大切にして、これからも音楽を続けていかねばならないのか、それを自分たちの過去の作品から学んだ気がしている。迷うな。直感はだいたいに於いて正しい。
 作業中、スタジオにはいろんな人間たちが顔を出してくれた。来れない人たちは電話をくれた。本当のことを書けば、いちいち、嬉しかったのだ。無軌道極まりなく、好きなことをやってきたくせに、多くの人たちに愛されていたことが。
 このリマスタリングを担当してくれたエンジニア、酒井さんが「初めて」研修でプロのレコーディングの現場を見たのが「風にハーモニカ」のトラックダウンだったのだと。その曲に彼がリマスタリングを施す。なかなか、素敵な眺めだった。昔のソニーの録音部には大まかに云って「ソニー魂」みたいなものがあった。彼はそれを受け継ぐ最後の世代なのだと思う。彼は音楽をスピーカーの間に投影される「風景」として捉えることが出来る男だった。だから、言葉は必要なく、どちらかと云うと、くだらないギャクを飛ばすのが僕の仕事だった。素晴らしい仕事をありがとう。
 率直に書きます。この作品は単に過去をリイシューしたものではありません。ニンゲンたちがトラックに刻んだいびつな轍はそのままに、現代の技術と情熱をもって、「普遍」の作品に仕上がっています。決して安くはありません。でも、家族会議にかけて、是非手に入れてください。
 帰りしな、爆音でその音を聞きながら帰った。「1995」は2010年に生きる中年のための、サウンドトラックになっていた。悪くなかった。当時、共にフントーしていた宣伝スタッフの小島に電話して、「俺たちは何も間違ってなかった」と伝えた。「思い描けぬものは何ひとつない。どこまでも歩いていけるだろう」。その通り。今の僕はあの頃とは違う。今なら出来ることがある。さぁ、新しい道を切り拓こうと思う。

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by 山口 洋  

Mastering day #4、音楽は嘘をつかない

2010/07/26, 21:29 | 固定リンク

7月26日 月曜日 晴れ 

 亡父誕生日。マスタリング4日目。4th album 「No Fear」、1994年作品。

 「音楽は嘘をつかない。すべてはそこに刻まれる」。それが僕の実感。1992年に3rd album「陽はまた昇る」をリリースした後、僕は殆ど日本に居なかった。遅れてきた「何でも見てやろう」、あるいは「見る前に跳べ」。NYで居候を繰り返したり、世界中を流浪しながら、僕は新しい曲を書きあげていった。頭の中は破裂しそうなくらい、いろんなイメージで満たされていた。やる気満々で東京に戻り、アルバムの制作を開始した。が、しかし。他のメンバーとのテンションの相違はいかんともし難かった。ここに至るまでに、ある程度のセールスを記録してさえいれば、彼らとて、他の時間の過ごし方があったのかもしれない。僕は独り身だったから、ビンボーを楽しんで、自由きままに生きることができた。けれど、彼らにはそれぞれの生活があった。スタジオに入り、頭の中にあるヴィジョンを具現化しようとしても、まったくうまく機能しない。そして締め切り(物理的かつ金銭的な)は迫ってくる。仕方なく、曲によっては、僕はすべての楽器を演奏する決断を下した。
 そのような状況で作られたこのアルバムには「未熟さ」と野心と冒険心が刻まれている。けれど、この作品は初めて自分やこの国から「外に出た」アルバムでもある。「fear is the man's best friend」とジョン・ケールは歌っているけれど、ホリスティック・ビューを求めて、外に出た若者に一番必要な態度が「No fear」だったことは間違いない。

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by 山口 洋  

シークレットライヴ

2010/07/24, 10:41 | 固定リンク

7月24日 土曜日 晴れ 

 某所にて、シークレットライヴ。普段お世話になっている人物の50歳を祝うためのもの。とはいえ、それゆえに全力です。客席にうつみようこを発見したので、一本のマイクでミックとキースみたいに(違うか)歌いました。どんなステージであれ、自分の中から何かがこみ上げてこなくなったら、潔くステージを降りよう、思っているのですが、どうやら生きてる限り、それはなさそうだ。そんなことを今日の会場から教えてもらった気がします。ありがとう。

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by 山口 洋  

「蒼の時代」の確かな道標

2010/07/23, 15:23 | 固定リンク

7月23日 金曜日 晴れ 

 マスタリングは3枚目まで終了し、ブックレットのクオリティーはかつてないほど、素晴らしく、9月のバンドのツアーに帯同してくれるウチの映像チームからは、「好きにやってね」という無茶なリクエストだったにも関わらず、確かに「光」を感じる映像が届き、「一生使えるホンモノを」と云ういつもの漠然としたリクエストに応えてくれたモノ作りチームからは「出来ましたーーー」と一報が届く。すべてが動きだしています。後は僕が新しい音楽に向かうだけ。来月は山に籠って、音楽に没入するつもりでいます。つって、みなさんも文章だけでは分かりづらいか、と。ボックスのジャケット部分、ごらん下さい。1990〜1995年までの5年間、スントー・ヒロシはヒートウェイヴの「蒼の時代」と名付けました。「苦闘」と「蒼」に置き換える。それが彼の真骨頂だと思います。

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by 山口 洋  

Mastering day #3、再会そして未来

2010/07/22, 20:51 | 固定リンク

7月22日 木曜日 晴れ 

 3rd album「陽はまた昇る」、1992年作品。ドラマーが脱退して、僕と圭一はルー・リードの「Legendary heart」みたいな短編小説が10曲入ったようなアルバムを作ろうとした。そして細海魚と出会ったのもこのアルバム。1曲目は「明日のために靴を磨こう」。最近Bank bandがカヴァーしてくれたのも何かの縁なのだろうと思う。前作の反省も含め、ベーシックトラックを福岡で、それからの作業を東京のスタジオで、と云う新しい方法を僕らは考えだした。両方のいいところを詰め込みたかったのだ。エンジニアもたくさんデモを録って、慎重に探した。ピンと来たのは、以降僕らのサウンドを支え続ける職人、森岡徹也だった。彼は頑固なまでの自分の音へのこだわりがあった。ソニーには彼の伝説がたくさん残っている。
 ところで、このアルバムのマスターテープはAMPEXの478。もう手に入らない。思い出した。僕らのチームはマスターテープの種類にまでこだわっていた。結果的には18年経過して、今の技術を用いて、更に素晴らしいものが仕上がる伏線となっていた。ちょっと、カンドーしたよ。
 最初の音が出た瞬間から、マスタリング・エンジニアの酒井さんと顔を見合わせて、今日の作業の勝利を確信した。僕は何ひとつ注文をつけることなく、ソファーに深く座って、リズムを取りながら、音楽を聞いているだけで良かった。必然の上に書かれた曲があって、魂のこもった演奏があり、それを素晴らしい音で録音した技術があり、すべてのアイデアを取捨選択したミキシングを施して、テープに適切なレヴェルで刻む。色あせない。18年くらいでは。後は2010年の酒井さんの腕で、更なる高みを目指すだけ。僕ら、そしてスタッフも含めたチームは確かに前進していた。このアルバムはエヴァーグリーンなものとして、今でも聞くことができる。
 ところで、嬉しい再会があった。当時のディレクター、山中幸夫がスタジオに遊びにきてくれた。あの頃はお互い20代。思い出すことと云えば、ここには書けないような話ばかり。書いたとしても常軌を逸しすぎていて、誰も信じないだろう。喧嘩もしたし、良く笑ったし、バカの限りを尽くしていた。でも音楽に対する情熱だけは誰にも負けなかったと思う。彼はソニーの制作のトップになったそうな。そんな彼と再びその会社のスタジオのソファーに座っているのは感慨深かった。お互いいろいろあったけど、生き延びたぜ、とか、情熱は増すばかりでちっとも減ってないぜ、とか。まったく、何処にもたどり着いてないよな、とか。オスは多くを語らないけど、お互い云いたいことは目を見れば分かる。来てくれて、本当に嬉しかったよ。ありがとう。

 このボックス、古いものをただリイシューしている訳ではありません。2010年の技術と情熱をつぎ込んで、永遠に輝きを失わないものになりつつあります。残念ながら、「限定生産」なのですが、それはCDが売れない状況の中では仕方がないと思っています。当時、それらを聞いてくれていた人たちにも、新しく耳にする人たちにとっても、エヴァーグリーンな作品を目指して、魂込めて制作は進んでいます。是非、手に取って欲しいと思っています。

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by 山口 洋  

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2010/07/21, 23:42 | 固定リンク

7月21日 水曜日 晴れ 

 ちょっと前のこと。このボックスセットのレコード会社担当者氏が、宣伝用のコピーを書いてくれた。そこには確か「ロックンロール、苦闘の記録」みたいなことが書いてあって、「あの、この時代、苦闘してない人なんていないすから、それ止めませんか」と喉元まで言葉が出かかったが、飲み込んだ。少なくとも、彼はそう思ったのかもしれないし、僕は関わった人の想いから出てきたものをまずは尊重する。実際のところは、検証してからでも遅くはなかろう、と。
 ところが、長いインタビューで過去を振り返り、音源をつぶさに聞いてリマスターしていく作業の中で、彼のコピーは「そうとしか云えないかも」と思えてきた。マスタリングを2日終えて、一番の感想は、まるで他人事のように「闘っとるなぁ、この人ら」と云うものだった。見事なまでにエバーグリーンなパンチを繰り出しているものもあれば、モーレツな空回りもある。ただ、決して易きに流れることだけはなかったこと。それだけはジョー・ストラマーの教えを勝手に継いだ者たちとして、評価してもいいのではないかと思う。バブルが終焉を迎え、だんだんと不気味さが世の中を包んでいく。その頃の話。僕らが在籍していたレコード会社にドリカムと呼ばれる人たちがいて、「聞いてむれば?」と勧められるままに、確か「決戦は金曜日(だったと思う)」みたいな曲を聞かされた。毎日が決戦だった僕らはその歌の意味が理解できず、頭を抱えた。あの、決して悪口ではないですから、念のため。それだけ世間と剥離していたのに、資本主義のド真ん中であるレコード産業に居たことに無理があっただけで。
 僕には決定的な弱点があった。孤独を好む割には、とてつもない寂しがり屋なのだった。情けないけど事実だから仕方がない。でも、それも最近「すこん」と音がして抜けた気がする。物体として、それらが物理的にこの世から消えてしまったとしても、大切なものは何ひとつ失われていないことを実感している。延々とひとりで走り続けることによって。肉体を使うことによって。逃れられない「負」のものが浮かんできたら、いつもより強めに負荷をかけて走る。距離を伸ばすとか、タイムの設定を上げるとか。キツい。でも、ちゃんと地球はその感情をアースしてくれる。それを繰り返すことで、多少強くはなったんだろう。すれ違うランナーの中に、あからさまにテンションの違うニンゲンが数人居て、言葉を交わさないまでも、何か致命的に決定的なことがなければ、この人は走らなかっただろうと思える人たちがいる。顔と目つきが違う。最初は「オレに近寄るな」的なオーラが出ていたが、次第に会釈を交わし、軽く手で挨拶し、いろんな反応があるのだけれど、連帯しない奇妙な連帯感のようなものが存在している。すれ違うその数秒間が僕は嫌いじゃない。僕らの間に詮索は存在しない。ただ、黙々と走り、そしてすれ違うだけ。師匠のゲンちゃんが「ロッキー」と呼んでいる男が居る。毎日、ものすごいスピードで走っている。しかも、彼はスポーツウェアを着てはいない。けれど、速い。身体はカミソリのように研ぎすまされていて、走った後、デカい岩を抱え上げて砂に叩きつけるのが彼の日課。リポビタンDのCMをかなりアナーキーにしたような光景が毎日砂浜で繰り広げられる。何のためにそんなことをしているのか、僕は知らない。でも彼は僕を見つける度に熊のような叫びを上げて「おーーっ」と挨拶をする。ロッキー。僕は彼が嫌いじゃない。
 旅先でひとりで食事をすること、ひとりで旅を続けること。帰ってきて、止まったままの空気やカビを何とかすること。稀に折れそうな気持ちになることはあるけれど、決して鈍感になってやり過ごしているのではない。鋭敏になって、抜けたんだと僕は思う。何も「存在」していないけれど、「何もかも」は心の中に刻まれている。それを消すことは誰にもできないし、僕には音楽があって、そして理由もなく、走ることが僕を奮い立たせる。

by 山口 洋  

Mastering day #2 ある種の拷問

2010/07/20, 20:35 | 固定リンク

7月20日 火曜日 晴れ 

 「走ってるときに何を考えてるんですか?」。あまりに多くの人にそう聞かれて、いつも応えに窮する。多分、何も考えていない。空白の中を無心に走る。僕はそれが好きで、そういうことに向いているんだと思う。少なくとも、日に10キロ。多い日は20キロとか30キロ。疲労が蓄積してくると、身体が「もういい加減にしてください」とSOSを出してくる。だから、週に1度か2度休む。日々は結構忙しい。今日も昼までには移動に2時間かけて、都内のスタジオに行かなければならない。走る前に低血糖にならなように、何か口に入れておかねばならない。だったら早起きするしかない。けれど、何も苦にならない。灼熱の太陽が昇る頃に、僕は海沿いの道を走る。暑い。だんだん脳味噌が沸騰しそうになってくる。上半身は裸。はっきり云って苦しい。でも、僕は愉しい。もはや誰とも競っていないし、そんなに自分と闘ってもいない。走ることはいつだって自分で止めることができるし、苦しさを比較するなら、人生の方が断然苦しいし、厳しい。
 身体つきは日々変わっていく。どこまでも、どこまでも。それも愉しい。以前は初対面の人が僕の職業を類推するとき「報道関係?それとも作家?」みたいな感じだったが、最近「サーフショップのオーナー?」遂に「AV男優?」と真顔で云われ。「何かの戦士ですか?」てのもあったな。ははは。それは男の勲章として受け取っておこう。

 はてさて。今日もソニーのスタジオでリ・マスタリング。今日の作業が拷問に等しくなることは最初から分かっていた。1991年にリリースした2nd album「凡骨の歌」はリリースしてから19年間、一度も聞いたことがない。このアルバムで、僕はプロとしての厳しさを思い知った。いい思い出は殆どない。
 それまでのレコーディングは故郷福岡にて、アナログの24chで録音されていた。面倒は多いけど、僕はその方法が好きだった。それによって僕ら独自の音を作り出していたし。けれど、このアルバムはレコード会社と事務所の強い勧めで、当時、最新だったデジタルの48chにて東京や河口湖のリゾートスタジオで録音された。そこにあった機材は福岡にあるものとは比較のしようがないほど高価だったが、その音がどうしても好きになれなかった。どうして、僕は自分の直感を曲げてまで、それらの勧めを受け入れてしまったんだろう。僕らは日本の消費のサイクルに巻き込まれて、前のアルバムからわずか8ケ月でこのアルバムをリリースしなければならなかった。何よりも、僕らが福岡時代の10年を費やして作り上げたデビューアルバムはわずか「8ヶ月」しか通用しないのか、と。人間はそんな短期間に成長しない。曲を書くのも、録音することも、メンバー間の人間関係も、何もかもがうまく機能しなかった。
 「凡骨の歌」のマスターテープはハーフインチのアナログで残っていた。何せ19年前のものだから、再生する前にオーブンで焼かねばならない。そしてテープは名器STUDER A80にセットされた。今こうして聞いてみても、この時期、自分たちがプロとしての立ち位置にひどく迷っているのが聞き取れる。抗っていることも。「怒り」と「空しさ」が渦巻いていた。全力を尽くして立ち向かった結果だから仕方ないさ。僕はこの作品が好きになれない。でも、この状況から何とか抜け出そうとしたからこそ、僕らは次の地点にたどり着くことができた。このままプロのミュージシャンで居ることを諦めていたら、一生音楽を嫌って生きていただろう。そんな意味ではくぐり抜けなければならない鬼門のようなアルバムだったのだと、今となっては思う。

 帰りしな、リ・マスタリングが終了したその作品を車で聞いていたら、妙な感動を覚えてほろりとした。このボックスセット。関わってくれたすべての人の想いが凝縮してきて、云うまでもなくクオリティーには自信があるけど、「愛着」が湧いてきた。是非、手にして欲しいと思っています。

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by 山口 洋  

Mastering day #1 青春の轍と光と影

2010/07/19, 21:05 | 固定リンク

7月19日 月曜日 晴れ 

 20年の時を経て、ソニーのスタジオの門をくぐる。感慨深し。今日は祭日で人影もまばら。逆にそれで良かったのかもしれない。僕らが足繁くスタジオに通っていた頃、ソニーのスタジオは信濃町と六本木にあった。今は乃木坂。僕に縁もゆかりもない何とか「ミッドタウン」が近くにそびえ立ち、昔とはすっかり様変わりしてしまった。そこで20年前のマスターテープと再会する。それはつまり20年前の自分たちと対面することでもある。僕は普段、自分たちの作品を聴かない。レコーディングの間にうんざりするくらい聴いているし、リリースした時点で気持ちは次に向かっているからだ。これから5日間かけて、一日にアルバムを一枚づつリ・マスタリングしていく。今日はデビューアルバム「柱」。1990年の作品。ちょっと怖い。

 今回のボックスセットのリ・マスタリングを担当してくれるエンジニア、酒井さんは僕より一回りくらい若いのだが、聞けば、初めて研修でレコーディングの現場を目撃したのが、僕らのアルバム「1995」のトラックダウンだったのだと。これも何かの縁なんだろう。スピーカーから20年前の自分たちの音が再生された。正直に云って、驚いた。演奏は20台半ばと思えないほど確かだった。あの頃、僕らは一年に300日は音を出していたから、当然と云えば当然なのだが、音塊と奥行き。その二つを既に有していた。そして多少の気恥ずかしさを込めて、その音には溢れる情熱が刻まれていた。緊迫感があり、「俺たちは他の誰とも違うんじゃ」と雑草のように、声高に主張していた。嬉しいことに、まったく古さを感じさせない演奏だった。恥ずかしいのだが、その情熱はエヴァー・グリーンなものだったのだ。次第に当時の風景が蘇ってきた。あの曲じゃ音をデッドにするために、メンバー全員の実家から毛布を運んだなぁ、とか、あの曲が録音できなくてディレクターと大酒飲んで喧嘩したなぁ、とか、このギターは彼女のテレキャスター借りて弾いたんだとか、すべて過剰な情熱に突き動かされてたなぁ、とか、俺、前歯がなかったなぁ、とか、栄養失調で49キロだったなぁ、とか、エトセトラ。世はバブルのまっただ中だった。音楽は完全に逆行していた。ニンゲン臭いにも程があって、クールさは微塵もなかった。でも、驚いたことに、僕はこの音楽が好きだった。無軌道さの中に妙に品格があった。これを今誰かに聞かされたなら、「いいバンドが居るんだよ」と誰かに紹介するだろう。青春の轍と光と影。そんなに悪い経験じゃなかったのかもしれん。

 僕らは近年、マスタリングの巨匠でビクターの至宝、小鐵さんと仕事をしてきた。けれど、酒井さんの腕は確かなものだった。二つのスピーカーの間に上映される情熱の短編映画に、見事な奥行きをつけてゆく。若い世代がしっかりと育っていることが嬉しかった。

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by 山口 洋  

生活を美しくする

2010/07/18, 19:17 | 固定リンク

7月18日 日曜日 晴れ 

 ライヴ三昧の日々が終わり、明日からはスタジオ通いの生活。わずかに空いた隙間にやりたかったことは「生活を美しくする」。僕はこの二月の間、ほぼ、ずっとどこかで外食をしなければならない日々だった。もう飽きた。どんなに高価なものも、どんなに安価なものも、僕の心を満たしてはくれない。望んでいることは、誰かが心をこめて作ってくれたものを喰うことだけれど、叶わないのなら、せめて美味いパスタを作って喰おうとか、そんな些細なことが僕のハピネスだったりする。とはいえ、旅暮らしで、家中はカビだらけ。キッチンも云わずもがな。こんなところで料理はできない。だから、磨いた。靴も磨いて干した。到底カビには追いつけないけれど、少しだけすっきりした。明日は由緒正しい日本のご飯と味噌汁を喰って、スタジオに行けるかな。

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by 山口 洋  

62年目の覚悟、湘南にて

2010/07/17, 13:14 | 固定リンク

7月17日 土曜日 晴れ 

 9/11に開催される地域密着型イベント、「海さくら」のプレイベントを湘南にて。窓から見える富士山、沈んでいく夕陽、そして音楽。それらがすべてセットになった素晴らしいものだった。
 小坂忠さんと云う偉大なシンガーと、リクオ、朝倉くん、寺岡くん、それに僕。一回り下の世代が響き合う。ほころびた部分も含めて、リアルな空間だったと思う。何よりも、その人物のデカさとチャーミングさに引っぱってもらったとでも云うか。僕は久しぶりにエレクトリックギターを能動的に弾きました。自分がそれを欲したとき。それは必然なのだと思います。イベントの運営も含めて、9/11がより素晴らしいものになりますように。
 先月の花田さんに続いて、忠さんの62回目の誕生日をオーディエンスと共に祝う。運ばれてきたケーキには名盤「ほうろう」のジャケットが描かれていて、彼が大事にラップに包んで持って帰る姿にほろりと来たなぁ。

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by 山口 洋  

歌ヂカラとエレクトリック・ギター

2010/07/16, 22:43 | 固定リンク

7月16日 金曜日 晴れ 

 明日のイベントのためのリハーサルを都内某スタジオにて。八重山で素晴らしい時間を過ごしたら、急にエレクトリック・ギターが弾きたくなった。本当に勝手な男だとは思うが、それは「衝動」だから仕方ない。でも、その装備と云うか、機材を運ぶのが面倒くさい。何も知らない人が見たら、殺人兵器にしか見えないであろう、巨大で重厚かつヘビーなそれらの機材を汗をかきかき車に積んで、スタジオまで運んだ。久しぶりに弾いたら、最初は勝手が違ったけれど、すぐに勘は取り戻した。それにしても、小坂忠さんの「圧倒的な」歌ヂカラ。彼の声には覚悟がある。声の中に覚悟が座ってる。その横で自分の武器を抱えて、音楽を奏でるのはとても愉しい。

by 山口 洋  

シリシリ坊や、八重山から東京へ戻る

2010/07/15, 20:45 | 固定リンク

7月15日 木曜日 晴れ 

 八重山、いと去り難し。訪れるたびに、その想いは増すばかりです。旅を続けていて、辛いのは見送られることです。後ろ髪を引かれるじゃないですか。それぞれに、気持ちのこもったお土産を手に、空港に集まってくれたりすると、涙腺緩むじゃないですか。まったくよう、本当にありがとう。どうか、みんな来年まで元気でね。まっすぐに生きて、いい曲書いて、必ず戻ってきます。

 ところで、「シリシリ」って知ってる?知らないよね?島のミツオさんは「東京じゃ、みんな知ってるさー」と云ってましたが、そんなこと絶対にありません。そもそもこの話。島のコーちゃんが「野菜のパパイヤ」をプレゼントしてくれたことから始まったのです。はい、まず「野菜のパパイヤ」ってところが?っすよね。僕も知らなかったんだけど、野菜のパパイヤを熟成させると、果物のパパイヤになるんだそうです。でもって、「ヒロシ、パパイヤをシリシリして喰うとうまいさー」と云われたのですが、「??????」。「パパイヤをシリシリ」。聞けば、それはスライサーの丸いバージョンのようなもので、パパイヤと人参をシリシリする(この場合、動詞)と断面が丸いので、格別に食感がよろしい。本島では居酒屋に「にんじんシリシリ」とか「パパイヤシリシリ」というメニューがあるし、八重山の八百屋でも「パパイヤシリシリ」はフツーに売られている、と。ほんとかよ?嘘だー、みんなで寄ってたかって騙してるだろー?
 で。ミツオさんがわざわざ買ってきてプレゼントしてくれました。(写真参照)じゃーん、これが噂の「シリシリ」です。このマシン本体をまず「シリシリ」と呼び、円形にスライスされた食物のことも「シリシリ」と云うそうです。さっそく、家に戻ったら、コーちゃんがくれた野菜のパパイヤをシリシリしてみます。ちなみにパッケージに記された正式名称は「パパイヤ突き」。「パパイヤ突き」って、まったくもう。

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by 山口 洋  

竜宮城に行く、石垣島にて

2010/07/14, 18:39 | 固定リンク

7月14日 水曜日 晴れ  
 
 オフなのです。この二ヶ月間、唯一無二のオフなのです。本当は曲を覚えなきゃいけないんだけど、許してください。音楽も何もかも、頭から追い出したかったのです。
 島のみんなと犬のサクラが僕を竜宮城に連れていってくれました。地元の人しか知らない場所です。水中の写真が撮影できなくて、この世界を見せられないのが残念。珊瑚のリーフに沿って、水深3~7メートルくらいの海溝があるのです。そこをシュノーケリングで進んでいきます。あの、僕、こう見えても海っ子です。玄界灘の岩場で育った男です。でっかい魚を観たくらいじゃ驚きません。でも、形容できない世界がそこには拡がっていました。何だろうなぁ、車を停めて、海までは熱帯雨林のジャングル。そして海の中は竜宮城。生命って本当にすごい。あの、その、本当に帰りたくない。嫌だーーーーーーーーーっ。

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by 山口 洋  

沖縄県石垣市にて

2010/07/13, 18:23 | 固定リンク

7月13日 火曜日 晴れ 

 石垣島が誇るジャズクラブ「すけあくろ」にてライヴ。いまどき、古いアルテックのスピーカーを真空管のアンプで鳴らしてライヴをやるハコなんてありません。断言します。ここだけです。そして、つまりはそういうことです。「愛」のある人たちです。僕は島に来たら、もう何も考えません。太陽や、道の照り返しや、海や、食べ物や、人々との会話から、バサバサに渇いた心のスポンジにいろんなものを吸収します。もらってばかりでは申し訳ないので、僕は中空に風景を描きます。そんなエネルギーの交換が「すけあくろ」では行われるのです。人生のそれは、と聞かれたなら多いに?だけれど、方向感覚は生まれつきいいのです。だからもう地図は必要ありません。道ばたに咲いている「圧倒的に」赤い花。そんな風に逞しく、たおやかで、強く居たいと思います。本当にありがとう。頼まれなくても、また戻ってきます。多謝&再見。

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by 山口 洋  

石垣島を走る

2010/07/12, 18:51 | 固定リンク

7月12日 月曜日 晴れ 

 うひょひょ。八重山諸島にやってきました。胸が高鳴ります。好きなんです。石垣空港に降り立った瞬間に、那覇よりも更に「圧倒的」なエネルギーを浴びて、身体じゅうにエネルギーが満ちていくのを感じます。いつものように友人たちが迎えに来てくれて、「歓迎そば」を頂いて、会えなかった一年間の話を聞いて、畳の上で笑い転げます。狭い島では「everybody knows everybody」。アイルランドの田舎と同じ現象が起きていて、その人間模様を聞いているだけで映画を観てるみたいです。さぁ、走るぜ。誰が止めても、オレは走るぜ。一度でいいから、この無茶苦茶なエネルギーの下で走ってみたかった。地元の人に「日陰走らんと死ぬぞー」と脅されましたが、僕もそこまでアホじゃないので、大丈夫です。でも、走り続けるのは5キロが限界。身体じゅうから見たこともない量の汗が吹き出てきて、あっという間に乾燥していきます。こりゃタダ事じゃないわ。たった10キロ走るのに、木陰での休憩を入れて1時間10分もかかったけれど、エネルギーを身体にチャージしました。しかし、一週間の間に北海道と八重山のエネルギーをチャージできる僕は本当に幸福だな、と。ありがとう。って誰に?八重山にです。

 

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by 山口 洋  

圧倒的な光、沖縄県那覇市にて

2010/07/11, 18:38 | 固定リンク

7月11日 日曜日 晴れ 

 見てください。この圧倒的なまでの「ひかり」。何処かを狙って撮影した訳じゃありません。ホテルの前のフツーの光景です。写真でもだけれど、視覚も見事にハレーションを起こします。那覇空港を降り立った瞬間、「ここを走るのは自殺行為だ」と。太陽の光に焼き殺されるか、自分が蒸発して消えてしまうか。沖縄は既に梅雨があけ、突き抜けるような青空。「俺が雲だ」と云わんばかりに真っ白い意思が浮かび、梅雨のまっただ中から来た人間にとっては、目の前の「膜」がすべてすっきりと抜け落ちたような感覚。ただ、ひとこと。圧倒的な生命の力。

 今日、ライヴをやらせてもらう「桜坂劇場」は僕にとって、理想的に文化が交流している空間です。文化の有機的十字路。そこには大小2つの映画館、カフェ、本屋、レコード屋(もうすぐ移転)があり、市民大学ではたくさんの講座が開かれています。公開されている映画もこだわり抜かれたラインアップ。ハリウッドものと比べると、集客は決して楽ではないと思うけれど、東京のミニシアターをすべて集めたような気骨を感じます。若いスタッフが生き生きと働いています。三重県亀山市の「月の庭」を主宰していた我が友、マサルが亡くなって、彼の地の文化が20年遅れたと云われてますが、那覇に「桜坂劇場」がなければ、それと同じことが起きるはずです。

 我々のようなタイプの人間が孤軍奮闘する時代は終ったのかもしれません。時を同じくして、ワールドカップの決勝があり、選挙があり、自分のライヴがある。フットボールは巨大ビジネスと化しているのだろうけど、その決勝戦は研ぎすまされた人間たちの最高峰として、素晴らしいものでした。ありゃ意思の芸術だ。アスリート以外、誰も立ち入れない崇高な世界。おそらく、醜いにも程があるビジネスの上で、守備的ではないパスサッカーが一瞬のチャンスをモノにして勝利をおさめる。学ぶことはたくさんありました。選挙の結果についての感想はここには書きたくないのです。何も期待はしていなかったけれど、想像通りだったわけで。ザッツ・日本人のメンタリティー。突然、僕は思ったのです。孤軍奮闘していたのではダメだ、と。このままだと自分をすり減らすだけで、何も変えられないまま自分の命が尽きるだけだ、と。僕の兄貴が云うように、「夢や希望や愛」は本質的に大切なものだけれど、自己満足や、自分へのエクスキューズとして、その言葉を使ってはダメだと。それよりも、マーケティングや効果的なプロモーション、その雑用の方が「孤軍奮闘」を続ける者たちにとっては遥かに重要なことではないか、と。那覇で思い至ったのです。

 泡盛を飲みながら、沖縄のミュージシャンと語ったのです。桜坂劇場が立ち行かなくなるようなことがあれば、それは僕らの責任でもある、と。どうか、あの磁場を大切にして欲しいと思います。

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by 山口 洋  

沖縄へ

2010/07/10, 23:51 | 固定リンク

7月10日 土曜日 晴れ 

 大木君という若いカメラマンが、先日の渋谷での「うたの日」の模様を撮影して送ってくれました。若いってことは見てる場所が違うなぁ、とおじさん感嘆。大木君、ありがとう。

 明日から沖縄、石垣島と廻ります。みなさんに会えるのを愉しみにしています。しかし、フツー北海道の次に沖縄に行くか、自分?

 photo by Ohki Daisuke(office intenzo)

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by 山口 洋  

邂逅

2010/07/09, 14:31 | 固定リンク

7月9日 金曜日 雨 

 一大プロジェクトを終えて、本日NYに帰る兄貴のトシと、朝の8時半から築地で鮨を喰う。というか、ごちそうになる。兄貴も心身ともに疲れてるだろうから、鮨ぐらいごちそうしたかったが、僕がトイレに立った隙に勘定は終っていた。「ex江戸っ子の前でトイレに行っちゃあおしめぇよ」と彼が云ったかどうかはさておき、まったく油断も隙もありゃしない。江戸前の鮨を喰らいながら、我々は実に男の子チックに「直列6気筒」の話なんかをしていたのであるが、多分、互いの人生の目的を語らないうちに語っていたのだと思う。気恥ずかしさを承知で書くなら、社会を良くしたいのだ。本気だよ。そのためには自分が「ひかり」にならなければならない。そんなことを本当の意味で第一義的に考えられる人間はそうは居ない。だから、彼は僕の永遠の兄貴なのだと思う。何度でも書くけれど、彼に会わなければ僕の人生はもっとeasyなものだったと思う。けれど、後悔はしていない。
 昨年は確か浅草で蕎麦を喰ったあと、ランニングタイツ - CWX - 通称ウシの話になり、そのままお茶の水のスポーツ店に行って強引に試着させられ、僕はウシストになり、そのウシの伝道者になったのが、今日は彼が首にファイテンを装着しているのを発見して、そのままファイテンショップに直行し、新製品ファイテン100Xをプレゼントした。うしし、格好悪っ。まったく強いんだか、弱いんだか。希代の根性者も寄る年波には勝てないのか。じゃ、来年はアシックス・ストアに行って靴をプレゼントしますからね。どうか身体に気をつけて。

 ボックスセットのクレジットを書いていて、編集担当のS君から「当時のエピック・ソニーの社長だった丸山茂雄さんの名前、入れましょうよ」と提案され、彼が最近blogを再開されたと聞いた。僕らは丸山さんが社長でなければ契約しなかったと思う。当時25歳だった僕にもびびっと感じる強い「人間力」が彼にはあった。音楽業界にもこのような人物が居るのだという驚き。そしてこのような人物が長を努める会社なら、心から信用できる。いつもの直感がそう云って、実際彼が云った通り「お前らは5年間、好きなように音楽に没頭しろ」。その言葉通りのことをやらせてもらったのだ。だから、永遠の恩義を感じている。10数年振りにお会いしたとき、「お前、柔和ないい顔になったなぁ」と云われた。いろんな荒波を乗り越えて、そのような表情をしているのならば、これは褒め言葉として受け取っておこう、と。素直に喜んだことを覚えている。
 ところで、氏が再開されたblogには彼がこの数年、食道ガンと共生していたことが綴られている。手の施しようがないと宣告され、今日に至るまでの過程が。丸山さんの父上、故丸山千里博士は「丸山ワクチン」の生みの親である。父と子を巡る話は、僕が語るより実際に氏の文章を読んで頂いた方がいいと思う。僕はその文章に深い感銘を受けた。冷静に運命を受け止め、それでいて静かに熱く、社会のために仕事や人生に取り組む。このような人物だからこそ、若い僕は導かれるように彼が長を努める会社と契約するに至ったのだ、と。今更ながら。20年の時を超えて。是非、読んでください。この時代を生き抜くヒントに溢れています。そして、また何処かでお目にかかれることを愉しみにしています。心からの感謝を込めて、丸山さんの名前をボックスセットにクレジットさせて頂こうと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/marusan55/20100627
http://vaccine.nms.ac.jp/general/index01.html

by 山口 洋  

神の手

2010/07/08, 00:25 | 固定リンク

7月8日 木曜日 晴れ 

 美容師に激しく勧められて、髪切処にいるうら若き女性の「ヘッドスパ」を受けて、僕は宇宙に行ってしまった。ほぼ失神。技術云々ではなく、その心から仕事をしているのが伝わってくる。僕は彼女を「神の手」と名付けた。本当にありがとう。

 写真はカメラの中に残っていたもの。函館では野菜と僕の楽器がいっしょくたになって、車に積載されていた。なかなか、好きな眺めだ。

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by 山口 洋  

移動日

2010/07/07, 22:08 | 固定リンク

7月7日 水曜日 晴れ 

 メディアでは語られない地方都市の現実をたくさん目撃した旅だった。その一部始終はしんどすぎて、ここには書きたくないくらいこの国は疲弊している。危機は末期に達している。自分に何が出来るのだろう。幸いにして、僕には守らなければいけないものは何もない。失うものも何もない。僕は光になって、闇の中に突っ込んでいこうと思う。そして、そこで見て、聞いたものを、書き、歌い、ロックンロールの光としてあたりを照らさなければ。弟分と話していて、本気でそう思った。

 仕事場に戻った。部屋中カビカビになっていた。知るか。そう思った。まずはこの気持ちをアースしなきゃ。小学生みたいに鞄を部屋に投げ込んで、そのまま着替えて走り出した。雨が降っていた。でもこの時期はシャワーの中を走ってるみたいで気持ちいい。海沿いの道は曇天に鈍く光って、アイルランドみたいだった。僕はこの道を走るのが好きだ。原始人みたいに走るのが好きだ。

 仕事は山積みだった。うんざりした。半日でいいから休ませて欲しい。でも、それは待ってはくれない。無数のメールの中にスントー・ヒロシからのものがあって、ボックスセットのデザインが完了した、と。果たして送られてきたファイルを見て、僕は深い感動を覚えた。まるで柔道の金メダリストに見事な「内股」を食らって一本負けし、失神して訳も分からず天井を見つめている。そんな類いの感動だった。このプロジェクトをやるに当たって、デザインはスントー氏に、ブックレットの編集は旧知のS君に「丸投げ」した。自分の過去を整理する仕事は僕には辛過ぎるし、彼らの仕事をプロフェッショナルとしてリスペクトしていたからだ。本当に素晴らしかった。言葉がない。かつて、これほど「愛」の詰まったボックスがあっただろうか、と思う。ああ、「The Band」のブックレットは素晴らしかったな。さぁ、後はマスタリングだ。これだけの仕事をされたのなら、後は僕が頑張らねば。

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by 山口 洋  

まっすぐに生きること、北海道旭川市にて

2010/07/06, 21:46 | 固定リンク

7月6日 火曜日 晴れ 

 読者のみなさんは、旭川の道がどれだけ「まっすぐ」かなんて知る由もないっすよね?これがね、あまりの「まっすぐさ」に道に挑まれてるような気分になるんです。「よっしゃー、受けて立とうじゃねーか」と勇んでみるものの、走ってるうちに気持ちが折れてきます。僕のランニング時計はgoogle earthと連動してるのですが、後で軌跡を確認して、あまりの直線っぷりに悶絶、みたいな。ちなみに写真を見てください。この直線、目算で少なくとも7キロはあります。 

 さて、旭川のライヴ。お世辞にも超満員とは云い難い状況でした。長い間ミュージシャンを続けていると、稀にこんな日もあります。ライヴ中にも話したけれど、1万人の前で演奏することより、こちらの方が遥かに難しい。僕は今日、何が出来るのか、ぐっと考え、ぱっと演奏する。でも反応は温かかったし、今まで何処でもやったことのないようなフレーズが指から湧いてくる。音楽とはつくづく不思議なものだと思います。試練と呼ぶほどのことでもないけれど、意味のない試練は本当に与えられないとこの頃思います。終わりかけていた僕の喉もPAエンジニアの素晴らしい腕によって、最後まで枯れることはなかったし。何にせよ、愛。そして希望。この世に著しく欠けているものは。今夜、僕は少ないオーディエンスからそれをを受け取ったのです。心からありがとう。
 北海道シリーズ、これにて終了。出会ったたくさんの人たち、どうか来年まで元気で。そして心からのサポートをしてくれた友人たち。本当にありがとう。

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by 山口 洋  

旭川を走る

2010/07/05, 19:28 | 固定リンク

7月5日 月曜日 晴れ 

 Cに連れられて、極上の昼ご飯を食べて、札幌から旭川を目指します。静かないい時間です。みんな一年振りに会うので、話に花が咲きます。旭川に着いて、ホテル富山(ともだちの家)に勝手にチェックインし、旭川を走ります。想像とは違って、結構暑いです。空気も湿っています。今日は静養するので、迷うことなく明日はライヴに足を運んでください。北海道から受け取ったもの、全部出し切ります。

by 山口 洋  

キヨシとの夜、北海道札幌市にて

2010/07/04, 19:19 | 固定リンク

7月4日 日曜日 晴れ 

 「僕は鍛えてるから、もう無敵の身体だ。声も伸びるし」なんて、調子ぶっこいたのはどこのどいつだ。はい。不肖、私めでございます。

 苫小牧から、札幌に移動し、いつもの由緒正しきジャズクラヴ「くう」にてライヴ。過密日程がたたったか、移動距離が長過ぎたのか、昨日のツルさんにアテられたのか、いずれにしろ、身体は元気なのですが、喉をやられてしまいました。まったく一年振りに愉しみにきてくれているオーディエンスが居るってのに、プロとしてあるまじきことです。ただ、生身の身体なので、痛んでしまったものはどうにもなりません。だから、精一杯の気持ちを込めて演奏しました。そして、そんな時に限って機材が壊れる。アーメン。昔の僕だったら、キレてたと思います。自分に。でも、大人になりました。そのとき、自分にできる最大のことをやろう。そのようなつもりでステージに立っていました。足を運んでくれて、本当にありがとう。「くう」のみなさん、いつも心を込めて仕事をしてくれて、ありがとう。
 さて。札幌にはキヨシさんと云う素晴らしいミュージシャンが居ます。そうです。トマトスに居たキヨシさんです。僕はもはや彼を愛しています。一年に一回しか会えないけれど、会うと元気になります。彼はバイーヤと云う極上の音楽が流れるバーを経営しています。喉はこんな状態だし、行くべきかどうか悩みました。でも、会わなかったら一生後悔するぜ、といつもの直感が申したので行きました。キヨシさんは僕が喉にダメージが残っているのを既に知っていて「喋るな」と云いつつ、南沙織で迎えてくれました。ゆっくりと時間は流れて、精神のチャージ完了。キヨシさん、サイコーだよ。今度会うときまで、どうか元気でね。

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by 山口 洋  

きれいな魂に会いにいく、北海道苫小牧市にて

2010/07/03, 02:39 | 固定リンク

7月3日 土曜日 晴れ 

 函館から苫小牧って、近いと思うでしょ?とんでもないです。北海道はデカいっす。浜野某に連れられて、太平洋沿いを北上すること4時間。ホッケーの街、苫小牧に到着です。ここには33年の歴史を誇る、苫小牧の魔界「アミダ様」があり、オーナーのツルさんが鎮座しています。彼はとてつもない人です。優しくて、厳しくて、イカれてて、深い愛を持つ男で、スキンヘッドです。いつか僕が「日本奇人変人列伝」を書くことがあるなら、冒頭に登場かな。
 今日は僕のために、ステージの後ろに「オブジェ」を用意してくれました。旅人のためにまずはサンドイッチとコーヒー。口は悪いけど、優しい人です。地元の新聞には今日のライヴの記事。本当にありがとう。でも、ライヴになると彼は豹変するのです。間断なく、ライブ中に鋭い突っ込みが入ります。初めて、ここに来たときにはまったく太刀打ちできなかったのです。でも、それもまた愛。旅を続けるうちに、彼とやり取りしながら、音楽に没入していけるようになりました。まったく、とんでもなくきれいな魂だと。
 彼は別れ際にこう云いました。「ヒロシの音楽はファンには受け入れられてるかもしれないけど、僕にはまだ名曲と思えるものがない」と。あはは。こんな風に云ってくれる人も、もうそんなには居ません。本気で生きなければ、彼の愛には応えられないのだと、僕は思います。ツルさん、ありがとね。そして足を運んでくれた人々。本当にありがとう。また、必ず戻ってきます。

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by 山口 洋  

函館の街を走る

2010/07/02, 02:19 | 固定リンク

7月2日 金曜日 晴れ 

 ツアー中は当たり前だけれど、いつもホテルに滞在しています。これがまた、限りなく煮詰まるのです。心に余裕があれば、部屋を自分のテイストに変えたりすんだろうけれど、そんなことより、翌日一秒でも早くチェックアウトできた方が楽。よって、ホテルは帰って寝るだけの簡易な「巣」みたいなものです。でも、函館と旭川だけは友人の厚意に思い切り甘えます。居心地いいんだもん。ホテル浜野では畑で採れたばかりの野菜が食卓に並びます。これがね、美味いの何の。何年か前、畑作業を手伝ったのですが、僕にはまったく才能がないことが判明したので、僕は函館の街を走ります。
 今年の畑は豊作です。浜野君と細君、そして浜野母の3ちゃん農業です。浜野母はもとよりターシャ・チューダ然としていたのですが、もはやその風貌は「浜野母」としか云いようがありません。隣には浜野母の妹(ややこしくてごめん)とその息子によるカフェが併設され、いい感じです。何故か僕のCDも置いてある直売所もあります。
 誰かが住んでるところで眠る。旅ガラスにとっては心休まるひとときです。

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by 山口 洋  

継続すること、北海道函館市にて

2010/07/01, 02:17 | 固定リンク

7月1日 木曜日 曇り 

 北海道にやってきました。この時期、何が好きって、空港を一歩出たときに「ひんやり」と頬をなでる北国の空気。ところがどっこい、期待に反して、最近函館では「蝦夷梅雨」という現象が起きていて、その空気はしっかり梅雨のものでした。ここにも確かに地球温暖化の波が。

 僕が一人でツアーを続けている理由。それは第一義的にはいつの日かフルバンドで訪れるための「種」をまくこと。本気です。長い間続けていると、良いときも、そうでないときもあるけれど、諦めません。実現するまでは。

 函館山の麓に「想苑」と云う50年の歴史を誇る名門ジャズ喫茶があります。かつて、この街のモボやモガたちがオシャレをして通った店です。もう何度目になるのか分からないけれど、ここに来る度に「帰ってきたなぁ」と云う感慨を覚えます。それはひとえに、どんな時代であれ、僕らの音楽を伝えるために力を尽くしてくれる人たちの「継続する志」のおかげです。本当にありがとう。首謀者、浜野はこの街で無農薬野菜を作っています。かつて、マイク・スコットに僕のCDを渡すためにイギリスに渡った男です。アホでいて、高血圧です。訪れるたびに、そのリレーションは広がり、今回は彼らの野菜、おぐに牧場の牛肉、函館の塩、エトセトラ。それら心のこもった食事が「ロックンロール・プレート」としてオーディエンスにふるまわれました。暮らしの延長に、当たり前に音楽が存在していること。書けばこれだけのことを実現するのは簡単ではありません。オーディエンスは総じてシャイだったけれど、音楽の力をそれぞれに受け取ってくれたら本望です。

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by 山口 洋  
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