日別アーカイブ: 2013年8月11日

新・相馬盆歌

8月11日 日曜日 晴れ ひっさしぶりに宇宙に達するくらい眠り、ベッドの中で「安住紳一郎の日曜天国」を聞いたら、元気になりました。惰眠って大事だなぁ。続いてポッドキャストで「あまちゃん」の音楽を担当されている大友さんの話を聞いていたら、本格的に元気になりました。8/15にはPROJECT FUKUSHIMAでたくさんのやぐらを組んで福島駅の前で盆踊りをやるんだそうです。その音頭は大友さんが作曲し、ミチロウさんが歌ってるそうです。何だか、元気出ました。感謝です。こちらは、孤軍奮闘って感じで、残念ながら盆踊りまでは実現できなかったんですけど、浜通りと中通りと世界を繋ぐために、ひとりで背負うのはもう止めにして、来年目指してがんばりマッスル。 事の経緯を簡単に。 始まりは今年の3月11日、福島県いわき市でのことです。興味がある人はその日のblogを読んでちょんまげ。 http://no-regrets.jp/wordpress/?p=7176 ミチロウさんは前年の盆に、浪江町から避難している人たちの盆踊り大会を二本松の仮設住宅で催したのですね。福島県はとっても大きいのです。浜通り、中通り、会津と大まかに云って3つの地域に分かれます。そのうち、浜通りと中通りでは「相馬盆歌」が盆踊りの歌として広く歌われていることが分かったのです。じじばばがその歌が流れると表情が変わったのだそうです。ミチロウさんがいわきの楽屋で、僕の目をまっすぐに観て、放った言葉がすべてです。 「山口クン、オレたちがミュージシャンとして初めて音楽でできること、見つけたんだよ」。 云うまでもなくミチロウさんも僕もミュージシャンである前に人間ですから、どんな時もできることをやり続けてきました。でも、正直しんどかった。今だから書けるけれど、例えばスーツを着て、スポンサーを説得するのは僕には向いていなかった。私腹なんて一銭も肥やしていないし、お金は出ていっただけなのに、どうしてありもしないことで誹謗中傷されなければいけないのか分からなかった。大事な場面になると必ず誰かが逃げた。人間がこんなにいい加減で、嘘つきで、中途半端な生き物だとは知らなかった。気がつくと、僕は担ぎ出されたはずなのに、責任と集客と集金と広告塔の殆どを負わされ、どこにも逃げられなくなっていた。苦しかった。人が僕に期待したり、何かを託してくれるほどに苦しかった。 同時に福島の事態は悪化しかしていなかった。分からなくなったとき、僕はいつも原点に戻る。あの電気を使っていたのは関東に住んでいる僕だった。だから、相変わらずそれは僕の問題なのだった。 そんなとき、PROJECT FUKUSHIMAを牽引してきたミチロウさんから前述の言葉をかけられたのです。彼や彼らがどれだけの困難を乗り越えてきたのか、僕なりに知っています。でもミチロウさんたちはメゲなかった。そんな彼から「力を貸して欲しい」と云われて燃えないなら、僕は在日九州人のプライドを捨てなきゃならない。 ってここまで書いて、こんなに力が入るから疲れるのかもね、と思う。 閑話休題。 「相馬盆歌」を皆で歌い踊る。死者の魂を弔い、生者と交わり、浜通りと中通りを繋ぎ、世界に福島を知らせる。真ん中にあるのは音楽。誰も傷つかない。なんて素晴らしいアイデア。 いわきからの帰りの車中でだいたいの仕事を終えたはずだった。でも、信じられないことに、そのアイデアは福島では認められなかった。このことに関しては多くを語りたくない。僕なりに原因も分かってはいるし、その理由は墓場まで持っていく。ただ、さすがに僕も傷ついた。まぁいい。この事に関してはこのくらいにしておこう。 お互い日本中を飛び回っているミチロウさんと僕。顔を合わせられることは滅多にない。相馬で盆踊りをやれる可能性はすべて消えてしまった。じゃ、どうする?諦めるか、二人のロッカー。 ところがどっこい。僕らはオーディエンスが一人も居ないところから這い上がってきた叩き上げなのです。誰が聞いてくれなくてもいい。死者を弔い、生者と交わる。相馬のお寺が快く場所を提供してくれました。多くの人が亡くなった海で、僕らは演奏することにしました。誰も居ないところから心を込めて始めよう、昇ってくる朝陽とともに。それを映像に撮って、相馬の人たち、この国の人たち、世界の人たちに観てもらおうと思っています。できればお盆の時期に間に合うように。 僕はどんなに困難なときも、自分の手を汚し、誰よりも矢面に立ち、決して私利私欲のためではなく、行動し、道を創る人を尊敬します。ミチロウさんは相馬での最後の行動で、僕に道を創ってくれました。内容?それは秘密です。

カテゴリー: 未分類 | 10件のコメント