普遍で不変で不偏のもの

2006/08/18, 22:38 | 固定リンク

8月18日 金曜日 晴れ 

 時を同じくして、ゼロからモノを生み出す知人たちから複数連絡があった。彼等は口を揃えて、「どうやって、この時代に自分の作品をすり合わせたらいいのか分からん」と云った。そんな事、俺も分からん。それに意味があるのかどうかも分からん。暮らしの周囲を見渡してみて、「どうも自らの価値観が、メディアから垂れ流されているものとは全く違うらしい」って事はいつも感じる。違和感に次ぐ違和感。でも、それが創造力を通じて、ファンタジーを生み出すこともある。新しいものの殆どは古くしかならない。コンピュータは家電ではない。何故ならじいさん、ばあさんが全自動洗濯機を難なく操るほどには簡単に出来てはいないからだ。だから、すぐに古くなるし、同時に家電への可能性も含んではいる。
 太古の昔から、変わらないことがある。人はある地点で自らの「死生観」について深く考察し始める。俺のそれをと、問われるなら「born to die」。おぎゃーと生まれたその日から、人は死に向かって生きている。それは誰にも必ず一度やって来る「人生最後の経験」だ。そう考えたなら、今自分が何をやるべきなのか、おぼろげながらも輪郭が見えてくる。それがネガティヴだとは思わないし、曖昧にしておきたくないし、俺が死んだところで世の中が変わるわけでもない。ならば、我々はもっと不偏のものを、自分の直感を信じて貫けばいいじゃないか。闇の中で見える光を描けばいいじゃないか。そんな話をした。この歳になると、大抵のコンプレックスは多少の諦めと共に払拭されてくる。何を迷う必要がある。と云いかけたところで、その言葉が自分に向いていることに気づいて、思わず苦笑した。

by 山口 洋