こころ、アゲイン。

2006/08/23, 23:04 | 固定リンク

8月23日 水曜日 晴れ 

 節々が痛い。レコーディングで頑張りすぎたのと、スタッフ不足で久しぶりに機材を運んだのと。明後日からツアーなんだから休めばいいものを、結局のところ、この2日間で録音したもののミックスに取りかかる。このアルバムのレコーディングで、このバンドにとってのベストの録音方法がようやく確率されつつある。歌も含めて、せーので録って、必要最小限のものを加える。修正しないこと。その中に日々とか、想いとか、閃きとか、奇蹟と軌跡とか、たまにイケてる自分とか、イケてない自分とか、全てがある。俺たちは10何年もかけて、あり得ないほどの金をレコーディングにつぎ込んで、いっとう最初のやり方に戻ってきた。でも、それは昔のそれとは違う。何が違うと問われるなら、多少の自信と、ダメな自分を受け入れる強さのようなものがある。レコーディングは何度でも修正が出来る。でも、それをやっていくと、何のデコボコもない退屈なものにしかならない。それをようやく学んだのだ。多少の自信と共に。
 
友人宛のメールの抜粋。

 眠れない夜に。
 夏目漱石の「こころ」を今更ながら読んでいます。本屋を隅から隅まで歩いたけど、今の自分の触手に触れるものがなかったからです。

 何度も何度も(たぶん初めて読んだ時から30年は経過してるでしょう)読んだはずなのに、ストーリーは記憶とかなり違っていたりします。それを体よく、井上光晴さんの言葉にすり合わせて、「過去の捏造」ではなく「創造」と僕は呼んでいます。

 驚くべきことは。
 この数年に自分が経験した、およそこの世のものとは思えない醜い人間の行いの数々が、「明治時代!」に既に書かれていることでした。つまり、僕が云いたいのは、人間と云う愚かな生き物は100年前と大して変わっていないことと、マスターピースと呼ばれるものは時空を超えて、人間の本質を捉え、その輝きは決して失われるものではないと云うことです。モノを創る人々は、目先のことではなく、このような事に没頭すべきなのです。

 夏目漱石にあって、村上春樹さんにないもの。それはたぶん、この国の「季節感」のようなものです。僕が知らない植物でさえ、それがまるで映画のように、頭の中に描き出されるのです。それは「過去」のものではなく、今、吹く風の匂いと共に。書かなくても分かると思うけど、それは決して村上さんをけなしているのではありません。この国自体がそのような風景を私利私欲のもとに失ってしまったんだと思います。

 僕が伝えたかったことは、モノを創る人、それを伝える人の気骨と恥骨。それをいつも考えていたいと思います。流行に流されるのではなく。

by 山口 洋