魔界への旅

2009/08/30, 15:43 | 固定リンク

8月30日 日曜日 曇り 

 毎晩オレが「保護」、あるいは「捕獲」されているバーは日曜日がお休み。なので、バーのマスター夫妻に誘われて、魔界へと小さな旅に出る。夕刻、古都の蕎麦屋でギタリストのライヴを観る。特殊効果一切なし。これぞライヴ。客もある程度の緊張感を強いられる。その人となりが次第ににじみ出てくる。人物固有の「ねじれ」によって、蕎麦屋は静かに魔界と化していく。「ねじれ」、「歪み」、「欠落」あるいは「欠損」、エトセトラ。そんなものは誰にでもある。けれど、それが表現の源泉である人の音はまっすぐで、少し痛い。ときおり時空が歪む。蕎麦屋の近所ででっかいコンサートが行われていたらしい。蕎麦屋のステージは入り口近くにあって、ギタリストの背後を観客たちが通り過ぎる。そのコントラストがあまりにシュールで、何とも云えない不思議な興奮を覚える。どっちが夢で、どっちがうつつなのか。善し悪しではない。蕎麦屋という魔界の中に居なければ、この風景は観ることが叶わない。要は足を運ぶか、運ばないか。違いはそれだけだ。
 オレは充分に酔っていたが、違う街でのコンサートに誘われて、また違った「魔界」の予感がしたので、ついていく。蕎麦屋とはまったく違った意味で、そこでは中年諸姉が狂乱状態になっていた。すべてを捨てて、踊り狂う猿、サル、さる。あの光景を文章化するのは難しい。
 時として、音楽は合法的な麻薬のようなものだ。人に「ねじれ」を意識させ、あるいは人々を全面的に猿にする。オレは演奏していて、ときどき「神」の存在を感じることがある。それはキリストでも仏陀でもないのだけれど、確実にそこに居ると感じることがある。目に見えているものだけが全てではない。一方的だけれど、オレは毎日誰かと「通信」している。
 テレビをつけて、選挙の結果を知る。この世も充分に魔界なのだけれど、何かが足りない。何かがひどく薄っぺらい。何もかもがあるのだけれど、何もない。時間とはただの観念に過ぎないのだと、この頃思うのだ。充分なふたつの魔界に翻弄されて、飲み屋をたくさんはしごして、渦に巻き込まれたまま眠りに落ちる。

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by 山口 洋