最期とその場所

2005/10/30, 15:59 | 固定リンク

10月30日 日曜日 曇り 

 ニチヨウビ。昨日はちょっとばかし飲み過ぎた。だからソファーにひっくり返って、日曜の午後のドキュメンタリーを観てた。それは訪問看護士さんが「自宅での死」を選んだ人々を支援するっつー番組だった。
 人はいつから病院で死ぬことになったんだろう?俺がガキの頃は、多くの人が自宅で家族に見守られて最期を迎えていた。高度成長、核家族化、エトセトラ。仕方ないと云えば仕方ない。けれど、自分の身に置き換えてみたら、病院で最期を迎えることを好む人は少ないだろう。実際のところ、「末期ガン患者の在宅ケア」ってものを自分で経験してみると、それは愛があったとしても並大抵のことではなかった。右も左も分からないド素人がどんなににわか勉強をしたとしても、「愛」だけで切り抜けられる問題じゃない。専門的な知識を持ち、物心両面でバックアップしてくれるシステムがなければ、今の時代にそれを貫くことは難しい。結局、患者と同じように日に日に疲弊していく俺を見かねた親が、自ら病院行きを選んだ。もちろん病院の人々は心からケアしてくれたのだけれど、親があれほど望んでいた「帰宅」を果たしたのは、魂が抜けた後だった。それは何とも云えず切ない経験で、自分の無力さだけが浮き彫りになった。
 聖路加病院のその看護士さんはシステムを作った。彼女はどんな時も笑顔を絶やさず、患者さんはもちろんのこと、家族の精神的ケアまでこなす。人間として、心から尊敬に値する女性だった。
 人が一生を終えるのは自然なことだ。通常、若い世代は上の世代の死を看取って、いろんな事を学ぶ。育ててくれた事への恩義を、看病で少しだけ返すことによって、親も子も死というどうにも出来ない運命を「受容」していくように思う。愛をもって、最期の日々を何とか心に残るものにしようとフントーする姿を見て、孫の世代も育つ。死が決して不自然なものではないこと、いつかは自分にもやってくること。だから、毎日をおろそかにしないこと。命を祖末にしないこと。エトセトラ。訪問看護士さんと家族全員に見守られて、おばあさんが旅立つ。その部屋に居るすべての人の表情はとても美しいものだった。何だか、とても考えさせられる。
 

by 山口 洋