レングス

2007/02/27, 17:58 | 固定リンク

2月27日 火曜日 晴れ 

 個人的には、だけれど、ジェリー・ガルシア・バンドがディランの「Simple twist of fate」みたいな曲を10分以上延々と演奏しているのを聞いてるのが好きだ。インプロヴァイズされたものの中には、程よい緊張とほころびがある。そこに自分の日々を重ねるのは悪くない。だから、再び個人的には、だけれど、ドナルド・フェイゲンの素晴らしく構築された音楽を聞いていると息苦しくなることがある。ジョナサン・リッチマンの音楽はある程度構築されていて、曲は短いけれど、オケがスカスカだ。だから、そこに身を委ねる隙間がある。「Land of music」はその微妙なラインをよくよく考えて作ったつもりだし、都会でも田舎でも世界中どこでも響くようにと思っていたが、まだちょっとクドいかもという反省はある。何にせよ、どんな場所であれ、自分の内なる宇宙に入っていくための、あるいはそこから外界に出ていくためのサウンドトラックになればと願ってはいる。

 博識な人物から教えられたことで、この時代、着うた(やったことないから、それがどんなものなのか俺は知らないけど)と云うものがシングルの役目を果たしつつあるのだと。約1分以上の音楽はユーザーに受け入れられないのだと。あはは、そうですか。そういう時代なのかもしれんね。
 そう考えて、自分の作ったものを振り返ると、Aメロに辿り着くまでに、「助走」のようなイントロが曲によっては2段階あるので、平均して歌に入るまで40秒くらいを要する。90年代に作ったものなんて、イントロ3分、みたいな曲もある。あはは、だめじゃん。それでも、大抵ミックスの際に、イントロはエディットしてるのだ。バッサリと不要だと思える部分はカットしてる。
 随分前にサントラを合計3枚分作った。その際に学んだことは、それらの音楽はどれだけ早く聞き手にその「主眼」を届けるかってことだった。だから、曲は短い。
 今誰かに曲を書く時、豪勢なデモは作らない。イントロはほぼない。1分は無理だけれど、1分20秒で「主眼」に達することを心がけてる。でも、自分のライヴじゃ、曲によっては同じコードを繰り返して、延々と循環しながらインプロヴァイズされた演奏をする。つまり、両極にあるように思える「レングス」についての思考は同じことだと思えるようになった。30秒で伝えられない者に10分の演奏は出来ない。その触れ幅の中で、考えていけば、「レングス」とはある意味「流行」のようなものであって、ある程度意識したなら、主眼に重きを置いていればいいんじゃないか、と思うのだ。
 なんて事を考えつつ、詩作は混迷を深めたまま。裏庭には使えないことばの屍が溜まっていくだけ。でもね、そこからきっと浮かび上がってくるんだと思う。平たい言葉が。それは無駄な作業じゃないと思って、今日もコンピュータに向かってる。アーメン。

追伸
 キーラの新作にギターを弾いてくれ、とファイルが届く。曲とそこに込められた思いを勝手に受け取って、「分かった、やってみるよ」と返事を書く。書いたあとで、「えっと、これって契約どうすりゃいいんだ?」と思うのだが、着うたの一方で、こうやって海を超えてやり取り出来るっちゅーテクノロジーの恩恵も受けてんだなぁ、と。1分20秒からアイルランドの暴走族についての曲から、自分の音楽まで。もうborderって言葉も死語かもしれんね。

by 山口 洋