心臓に突き刺さるまで

2008/09/10, 19:46 | 固定リンク

9月10日 水曜日 晴れ 

 俺が大好きな曲に「あんたの夢が心臓に突き刺さるまで」という一節がある。果たして、そのように生きているのか、っちゅー問いを己に投げかけてみる。応えは否(ノン)。確かに、音楽をやる前にやらねばならぬことが多すぎた。やらねば前に進めなかった。それも事実。けれど、本物のニンゲン、あるいは男として、「インディペンダント」な存在として、必要なスキルを手に入れるために、避けては通れなかった道だとも思えてきた。
 以前にも書いたと思うが、まごうことなき中年にさしかかって、妙に「青春」しているようなフツフツと湧きあがってくる、この感情は何なのだろう?と。「見る前に跳べ」とか「書を捨て、街へ出よう」とか、ずっと前に鼓舞された言葉は数知れず。けれど、酸いも甘いも乗り越えて、再びやってくる中年の思春期のようなもの(以前、佐野さんが俺に同じ言葉を語ってたけど)が確かに胸の中にあるのだ。それは初期衝動とは違う初期衝動(意味不明)で、冒険へと自分を駆り立てる。今一度、あらためて、自分で規定してしまわない限り、不可能はないことのように思える。

 何ヶ月か前、やんごとなき理由で、産まれてから今日に至るまで、詳細に振り返った。いや、振り返らねばならなかった。それは筆舌に尽くし難いほど、しんどい作業だった。だから、「自分を振り返った方がいいよ」なんて言葉は他人には云えない。けれど、その作業のおかげで、確実に見えてきたことがある。固くなるけど、何のために自分の生はあるのか?哺乳類として「種」を残すためなら、俺は完全に失格だ。子供が居ないから。けれど、人にはそれぞれの「役目」ってもんがある。俺の考えでは、それが「ない」ニンゲンなんて居ない。だから、行こうと思う。漕ぎ出そうと思う。自分の夢が心臓に突き刺さるまで。

 ショーンの映画には溢れる情熱があった。答なんて何処にもなかった。清々しかった。でも、答がないから「応え」なのだ。そんなもの、一生かかっても手に入れることは出来ないだろう。

by 山口 洋