愚がつくほどの一生懸命

2009/01/23, 23:23 | 固定リンク

1月23日 金曜日 曇り 

 このところ、ずっと自分の内なる声を聞いていた。いや、正確には、聞こうとしていた。頭蓋の裏側にスクリーンがあって、そこにはトラウマの映画が映し出されていた。いつだったか、この風景を歌詞にしたことがあるけれど、それは僕の実体験でもある。それは言葉にするほど美しい風景でも何でもないのだけれど(実際のところは非常にしんどい)、語られたものは、確かに自分の言葉でもある。自分の中の宇宙。そこを彷徨うには静かな環境がいい。だから、ほとんど仕事場から一歩も外に出なかった。

 そんな訳で、電車に乗っただけでもびっくりした。車内広告のケバケバしさにも度肝を抜かれた。浦島太朗みたいな気分だ。おまけに俺が目指した場所は原宿だったのだ。目眩がした。

 僕は川村カオリが歌っているのを観たことがなかった。彼女は病と共に生きている。そのライヴは彼女の20年のキャリアを駆け足で表現するような内容だったのだが、一番響いてきたのは新しい歌だった。それは彼女が「今」を生きているからだ、と僕は思う。

 帰りしな。音楽評論家の五十嵐正さんが送ってくれた自著「スプリングスティーンの歌うアメリカ」を読んでいた。正直に告白するなら、80年代のある一時期、スプリングスティーンは僕にとってダサさの代名詞だった。飛び散る汗、暑苦しい形相。彼の音楽を聞くと、無理矢理体臭を嗅がされたような気分になった。ところが時代と共に。彼の音楽は圧倒的なリアリティーを伴って迫ってくるようになった。アルバム「ネブラスカ」に収録された「ハイウェイ・パトロールマン」をショーン・ペンが映画化した「インディアン・ランナー」を高田馬場にある早稲田松竹で観て、僕は席を立つことが出来なかった。そこに描かれたどうしようもない弟が、その頃の自分そのものだったからだ。たった5分の曲の中に、二時間の映画にしても余りあるだけの内容が描かれていたのだった。
 先日、あれだけ好きだったストーンズの新作映画にまったく興奮しない自分に驚いた。これは一体どういう事なんだろう、と。ずっと考えていた。その謎を解くヒントのようなものが、この本には記されていた。いわく、「俺の責任は現実について書くこと」だと。なるほど。

 若い頃、僕は世間を斜めから観ていたのだと思う。その頃、「一生懸命」は格好悪かった。そうして年を取り、現実を真正面から受け止めねばならなくなったとき、「愚」がつくくらい「一生懸命」であることがどれほど難しいのか、身をもって知った。先日も書いたのだが、「人は追い込まれて、初めて生き始める」のだと僕も思う。

 僕の大切な友人であるマサルが先月亡くなった。ひどい癌で寝てばかりいる彼に何か土産でも、と見舞いに行く度に彼にリクエストを問うたなら、「スプリングスティーンのDVD、頼むわ。熱いやつな」と。毎度のように彼は云うのだった。僕は3回に分けて、バルセロナ、NY、ダブリンのライヴDVDを運んだのだが、彼は目を輝かせて「ヒロシ、これ燃えるぜ」と語るのだった。その音楽は家族の次の次くらいにマサルを奮い立たせていたのだと思う。

 「一生懸命」に「今」を生きて、「新しい価値観」を探し続けること。それを二人のシンガーと本から教えてもらった。ありがとう。

by 山口 洋