思考の速さと、魂の古さ

2009/05/04, 16:41 | 固定リンク

5月4日 月曜日 晴れ 
 
 「Live at Cafe Milton」。たくさんの人々が手にしてくれてるそうです。本当にありがとう。引き続き、どうぞよろしく。

 殆ど引っ越しのような日々。窓から心地よい五月の風が吹き込んでくる。母親の命日に限って、九州でライヴがあるのは、何かそこに訳があるんだろう、と考える。
 
 「思考の速さと、魂の古さ」。僕は一旦考え出すと、猛烈に脳味噌が回転を始める。多分、手がつけられないほどに。レッドゾーンギリギリまで回転する。でも、当たり前の話だけれど、それを長い間持続することは出来ない。それは長所であって、ものすごい短所でもある。そして同時に二つのことが出来ない。何かをしながら、時間をかけて、もうひとつの大事なことを考察するってことが出来ない。ひとつ目の前に問題があれば、それが解決するまで、猛烈な回転と停止を繰り返し、ときどきオーバーヒートして、脳味噌そのものが焼き付くことがある。同じバンドには魚みたいな、穏やかに熟考するタイプの人間がいて、僕がスーパー高速回転を始めたらなら、「やれやれ、また始まった」みたいな感じで、距離を置いて放っておいてくれる。そして、僕の無駄な熱が冷めた頃、「これはさー、こうした方がいいんじゃないの」と絶妙な提案をしてくれる。そんな風に周囲の人間に迷惑をかけながら、支えられてきて、今まではそれで良かったのかもしれないけれど、既に持っている良さも残しながら、ゆるやかな思考にも対応できる自分でいたいと、心から思っている。
 「速い思考」の根幹には直感がある。そして「ゆるやかな思考」の中には、深い考察に基づく「揺るぎなさ - 穏やかだけれど本当の強さ」がある。今まで僕が無数に引き起こしてきたトラブルの源には、こんな理由もあったのだ、と今となっては思う。魚と僕の今のバランスは絶妙になってきた。最初にやるべき事を話し合い、互いが別の部屋で思考を重ねる。ふたつの部屋で流れている時間のスピードはぜんぜん違う。僕の部屋ではモーレツに速く、彼の部屋ではゆっくりと、でも確実に時は流れる。お互いが何処かに到達したとき、そのアイデアをすり合わせて、ひとつのものを創る。僕が「主観」にのめり込んでいるときは、彼が「客観」を担当し、その逆もまた可能だ。おそらく、理想的な話をすれば、「主観」と「客観」は鍛錬の末に、同じものになっていくのだと感じているし、その時に浮かび上がってくる作品は、とてもシンプルなものになるのだろう。そういう「根拠のない自信」が二人にあるから、この関係を維持していられるんだと思う。そしてリズムセクションは「肉体的」にそれをドライヴさせる。エレクトリック・ギターは熟考する隙を与えない。そうやって、大人のロックンロールが出来上がるんだろう、と。

 僕が焦がれる人物は、みんな「古い魂」を持っている。簡単に書くなら、生まれ変わった回数が多いとでも云えばいいのだろうか。盲目的に輪廻を信じている訳じゃないけど、でもそれはあるとも思っている。彼らはえてして、「ゆるやかな考察」をすることができて、揺るぎのない強さを持っている。些細なことには動じないのだ。それは彼らの目に書いてある。親父が死んで27年も経過して、あるところに出現し、僕のことを「あいつは小学生なんだ」と語った意味は多分そこにある。音楽を始めたとき、それは「抗う」ための道具だった。実際「抗って」いなければ、やってられなかった。心の奥底にあるパンクな精神。それは一生消えないと思う。ならば、もういいではないか。晩年のジョー・ストラマーには「穏やかな強さ」があった。彼は何処の馬の骨か分からないようなトンガったバンドのメンバーを受け入れ、奔放にふるまわせた上にまとめあげ、そして僕には「お前の火を絶やすな」と云った。でっかい人だった。

 僕らはやむなく「抗う」ことからスタートしたけれど、トシを重ねて、「全体的な視野 - ホリスティック・ビュー」をも経験と鍛錬によって合わせもち、喜びや哀しみを大切な人間とシェアすることができる。何よりも、自分と違う資質の人間の考え方を尊重することができる。そんな人間関係にたどり着くために、「若い魂」の僕は、ゆるやかにも生きなければ。でっかい魂を育てなければ。そんな時、友人からメールが来た。「昔のあんたは刃を剥くことでしか、愛を表現できなかったんだよ。そこからも充分愛を感じることは出来たよ、しんどかったけどね」、と。彼は僕がどうしようもない暴れん坊だった頃から、ライヴを見てくれている。「僕は若いあんたがドラムに蹴りを入れていた頃から、あんたの屈折した愛を感じてたよ」と。その頃、僕はバンドのメンバーに「恐怖政治」を強いていたんだと思う。弱さゆえ。バンドのリーダーたるもの、その位の激しさが必要な時もある。特に若い頃は。でも、自由を求めて音楽をやっているのに、メンバーを恐怖政治でコントロールするのは間違っている。こんなに悲劇的なことはない。僕は今、池畑潤二のドラムセットに蹴りを入れようなんて、考えたこともない。そんな恐ろしいこと。どっちかと云うと、言葉を間違えたら、僕の眉間にスティックが矢のように飛んでくるかも、と思っているだけで。それが僕を鍛える。確かに、その間には信頼とリスペクトと情熱がある。
 ロックンロールは変わらないんだ、と云ったロッカーが居たけど、僕は逆だ。変わり続けることができる。新しい「信頼」はいつだって創ることができる。自分が諦めずに変わり続けることができるなら。そう思いながら、ゆるやかに「殆ど引っ越し」をしている。

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by 山口 洋