その本、1Q84

2009/06/19, 15:56 | 固定リンク

6月19日 金曜日 晴れ 

 その本を初めて「生」で観たのは、忘れもしない6月3日。神宮前にある美容院の待ち合いコーナー。僕はある大切な用事のために、きれいな身なりにしておく必要があった。どうして手に入れることさえ難しいこの本が上下巻揃って、この場所に、と思ったが、パラパラとめくってみて、これは今の僕には必要な本だ、といつもの直感がそう云った。どのみち、僕は作者のファンで、何が出版されても買って読んできた訳だけれど、これは特別だ、妙に逼迫した気持ちでそう思った。
 やがて、髪を切る場所に案内され、鏡を隔てて僕の目の前に座っている人物を観たとき、心臓が止まりそうになった。その人は写真でしか観たことがないんだけれど、何の根拠もなく、僕の人生に於いて、重要な鍵を握っているに違いない人だと勝手に思ってきたからだ。何故、会ったこともない人物が「その人」だと直感したか、と問われるなら、写真で観るよりも、聞かされてきた話よりも、深い憂いと、それがゆえなのか、今までに見た事のないほどの美しい目をたたえていたからだった。僕は深く魅了された。そして、「time has come」と思ったけれど、その人にとっては、ご自身の大切な時間なのかもしれない。すぐに声を掛けることをためらった。目の前には鏡がある。けれど、足下は抜けていて、僕の汚れたバックスキンのブーツの先、20cmほどの距離にその人の足が見えていた。その人の様子は右側にある鏡によってうかがい知ることができた。運悪く、僕は度付きのピーター・フォンダみたいなサングラスしか持っていなかった。室内でサングラス。かなり怪しい。けれど、その人の事を知るには、そのサングラスをかけるしかなかった。時間にして、2,3分だっただろうか。その間、まるで高校時代に悪事を働いて、捕まり、審判を待っていたときのように、心臓は高鳴っていた。
 そしてシャンプー台に案内された。僕には「痒いところ」などまったくなかった。早く、さっきの場所に戻してくれ。そう願いながら、戻るときには、僕の髪の状態が何であれ、たとえ頭にタオルを巻かれて怪しい姿であったとしても、声を掛けてみよう。そう決心した。そして、戻るとき。その人はもうそこには居なかった。忽然と居なかった。僕は偶然を必然に変えるチャンスを逃したのだ。自分の「怖れ」によって。あれはいったい何だったんだろう。未だに考えている。きっとそれは今後の僕の人生が証明することなのだろうけれど、重要な場面だったことは間違いない。そして過去は変えることができないし、会わなきゃいけない人は未来にしか居ない。(続く)

by 山口 洋