飼い猫の弔辞と写真家の偏愛

2009/12/11, 15:23 | 固定リンク

12月11日 金曜日 雨 

 明日は「本気」ではないにしろ、初めて42キロを走るので、体内のグリコーゲンを満タンにしておかねば、後半のガス欠は確実にやってくる。三日ほど前から炭水化物を増やしておき、前日の晩飯で完了すると云うもの。カーボローディング。昨夜は所用で東京に出かけた。また飢餓状態がやってくる。そうなると、もうダメだ。何もできない。血糖値が下がると、身体が震える。面倒な身体になったなぁ、と思う。空腹のピークを過ぎると、喰えなくなる。だから慌てて「焼き肉屋」に駆け込んで、栄養を摂取。自分では気持ち悪くて調理できないレバーを喰って、鉄分補給。ご飯もおかわり。喰うと、エネルギーが身体中に充満するのを感じる。まったく本気で走るってことは、身体にいいのか、悪いのか微妙だね。最近は顔が小さくなったねぇ、と云われる。自分でもそう思う。甘いものに続いて、果物が無性に喰いたくなってきた。最近まで果物は生きていくのに必要ないと思っていたから、口にしなかった。総じて皮を剥くのが面倒くさい。ところがどっこい、ああリンゴ食いたいとか、美味しいご飯粒が喰いたいとか、チョコ喰いたいとか、思うのだ。ビール飲みたいと思う前に。人間の細胞は一年で入れかわると、いつか書いたけれど、齢45にして、それがモーレツなスピードで起きてるんだろうと思う。

 バーで知り合った、近所にお住まいの写真家の50歳を祝う展覧会に行った。住宅街の中にあるこじんまりしたギャラリー。威圧感がまったくないのが好きだ。オレには何人もの写真家の友人が居るのだが、それぞれの被写体への「偏愛」っぷりに呆れ、そして感銘を受ける。ある人物は世界中の雑木林を撮影する。雑木林なんて、どこでも同じじゃん、と思うが、絶対にそうではない、彼にとっては。ある人物と撮影旅行に出る。普段はウシみたいな人だ。でも、ファインダーを覗いている時は戦士みたいだ。断崖絶壁の端っこにフツーに立っている。総じてヘンで、そしてフツーだ。今日の彼の作品で好きだったもの。それはメキシコの壁をクローズアップして撮影した作品。壁とは人為的なものだ。でも何度も安物のペンキで塗り直され、経年変化がそれに加わると、作為が作為ではなくなってしまう。何とも不思議な世界になる。写真家は夢中になってそれを撮影する。黒い布をかぶって、蛇腹のでっかいカメラで。気がつくと、「何でこいつはこんなものを撮影してんだ」と黒山の人だかり。オレも写真家との旅の中で、何度も同じ光景を観たことがある。でも、彼らを駆り立てるその情熱がオレは好きだ。偏愛って言葉にするとネガティヴに聞こえるかもしれん。でも、それは本物の情熱だ、と思うのだ。
 今日、テレビにアラーキーが出ていて、自分の葬式の花代わりの「花の写真」は既に撮影済みだと。美しかった。弔辞は猫のチロに読ませるつもりなので、ニャーニャー練習させている、と。最高!

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by 山口 洋