不完全の美

2010/03/06, 16:05 | 固定リンク

3月6日 土曜日 雨 

 雨の土曜日。確かに「情けない週末」。

 車のipodから、珍しくスティービー・ワンダーの古い作品が流れていた。この時期の彼の音楽は、殆ど神がかっていて、ミュージシャンとしてジェラシーを超えても余るだけの凄さがある。特に驚きを禁じ得ないのが、彼自身が演奏する「ドラム」。歌心、リズム感、文句なし。どんなに素晴らしいドラマーでも、このリズムは刻めない。ところで、ある曲で「ん?」と引っかかった。彼にしては珍しくピッチ(音程)が良くない箇所があったからだ。繰り返し、聞いてみると、確かに少しだけハズれているけれど、それが何とも云えない「感情の揺らぎ」として聞き手に伝わってくる。たまたまハズれたのか、それとも確信犯なのか、オレには分からない。けれど、それも含めて、ぐっと来るところが素晴らしい。
 用があって、コンビニに立ち寄った。そこには典型的な「j-pop」と呼ばれる音楽が流れていた。鉄壁のオケ、サビになると必ず裏返るヴォーカル、エトセトラ。さっきまでスティービー・ワンダーを聞いていたからだろうが、圧倒的な「違和感」を感じた。音楽が「四角い」のだ。一番の理由はヴォーカルのピッチだと思う。このヴォーカルのピッチは「完璧に」修正されている。今の技術ではそれが可能だ。それが気持ち悪い。オレは歌手としては、甚だピッチが悪い部類に入る。レコーディングの現場で、自分のピッチの悪さに自己嫌悪に陥ったことが何度もある。けれど、それが「味」、または「表現のニュアンス」として聞こえる場面と、音楽的に「気持ち悪く」聞こえる場面とがある。その違いは「感覚」でしかないのだけれど。美空ひばりさんの歌を耳を澄まして聞いてみる。彼女のピッチの揺らぎはほぼ人間業ではない。決して「ジャスト」の音程ではないことが多い。それをコントロールするだけの技量が、結果的に圧倒的な説得力となって、聞き手に迫ってくる。1オクターブを12の音で区切ったのは西洋人の都合であって、実はその間には無数の音が存在している。楽譜化不能。人間の歌はフレットレスなのだ。ギターだって、ちゃんとチューニングしたからと云って、完璧な音程の和音が出ている訳ではない。甚だ不完全な楽器なのだ。それゆえ、弾く人の個性が出て、聞き手に伝わっていく。
 とあるミュージシャンをプロデュースしていたとき。オレも禁断の「ピッチの修正」をやらねばならなかったことがある。エンジニアと二人きり。深夜のスタジオで重箱の隅をつつくように、細かい作業を積み重ねた。ところがどっこい。一度ピッチをいじり始めたら、いろんなところが気になって仕方がない。際限もなくピッチ修正の「袋小路」に入ってしまい、そこから出られなくなる。整形手術を試みた人物が、次から次にいろんな箇所が気になっていき、最後には「人間の表情」を失ってしまうのと同じだ。確かに、ぱっと見るには奇麗になったのかもしれない。けれど、その人は大切な「個性」まで失ってしまうことがある。
 このような音楽が街に溢れ、育っていった子供たちが可哀想だと思う。カラオケに行き、ピッチとリズムで機械に点数を出される。これはオレのネタなのだけれど、友人にカラオケに連れていかれ、自分の曲を歌ったら、「46点」だった。そんなことに意味はない、とオレは思う。「オレはお前と同じがいい」ではなく、「オレとお前は絶対に違う」と思って生きてきた。全然違っていていいと思うのだ。不完全な美がある。それが好きだし、伝えていこうと思う。思い返してみると、グラム・パーソンズ、マーク・ベノ、ロニー・レイン、エトセトラ。好きなシンガーはヘナチョコな人が多い。けれど、それは他の追随を許さない圧倒的にヘナチョコな個性だし、その人の生き方がにじみ出ているから、好きなんだとオレは思う。

by 山口 洋