68歳、我が道を往く。

2010/03/26, 01:27 | 固定リンク

3月26日 金曜日 曇り 

 学校では何も学べないことを学んだ。その代わり、ディランは僕の先生だった。「俺の後をついてくるな」と云うタイプの。歌はどうやって書けばいいのか、どうやって時代と向き合えばいいのか。どうやって転がり続ければいいのか。果ては僕の人生に絶大な影響を与えたネイティヴ・アメリカンのローリング・サンダーに繋がる道まで。ミュージシャンにとって大切なことは、すべて彼から「勝手に」学んだ。高校生の時分に、5分の歌が持つ計り知れない可能性を教えられたことは、その後の人生に決定的な影響を与えた。
 本当の事を云えば、今回の来日はパスしようと思っていた。レース前だし、ツアー中だし、会場はあまり好きではないし、もちろん買えないことはないが、ディラン先生にしてはチケットが高過ぎる。彼がこんな法外な値段を望んでいるとは到底思えないし。何だか釈然としなかった。で、俺は階段から落ちた。到底スタンディングの2時間に耐えられる身体ではない。でも、友人たちが用意してくれたのだった。二階席の一番前の席を。座りなら、何とかなるかもしれん。行ってみるか。
 「転がり続ける」とか「変化し続ける」とか「ネヴァー・エンディング」とか、エトセトラ。云うのは簡単。でも、それを68の齢まで「実践」できる人間が一体どれほど居るんだろう?正規にリリースされた彼の作品は多分、全部持っている。音楽がスポンテニアスなものであることくらい、身を以て知ってもいる。だがしかし。アレンジと云うより、彼の歌い回しは長い時を経て、殆ど原型をとどめておらず、曲によっては、終ったあと、「あぁ、あの曲だったのか」と理解できる有様。しばらく観ない間に、彼はギターではなく、何故かオルガンがいたくお気に入りのようで、彼が弾いていなかったら、殆ど許し難いようなフレーズを、最初から最後までレズリーを高速で回しっぱなしのまま、弾きながら歌うと云う暴挙(失礼、「光景」にしとこう)。1曲だけ、ギターを抱えて歌ってくれたが、何だかあまり似合っておらず、一体この人は何処まで変わり続ければ気が済むんだと、開いた口が塞がらなかった。な、何故にオルガンなのだ。機会があったら聞いてみたいが、きっと彼は「この楽器は魔法のような音がするのだ」とか云うんだろう。
 でも、実際のところ、自分がどう感じていたかと云えば、かつて経験したことのない奇妙な感動を覚えていた。殆ど死滅してしまったパンクロッカーよりも、彼の方がよっぽどパンクだと思ったのだ。その態度が、精神が、今、この時代を生きることが。アンコールになって、「タン」と云うスネア一発と共に「like a rolling stone」が始まって、無条件降伏。涙腺決壊。僕はノスタルジーに浸っていたのではない。「how does it feel? / to be without a home / with no direction home / like a complete unknown / like a rolling stone」。この脳髄まで刷り込まれた言葉が、2010年の歌として、言霊と共に心臓を撃ち抜いたのだった。訳するまでもなく、その言葉は今の僕にとって、順接、逆説、両方のひかり、そのものだった。随分前、渋谷公会堂で亡くなったどんと氏と一緒に、彼がこの歌を歌うのを聞いたことがある。その時はピンと来なかったのだけれど。この1曲だけで、充分に心を持っていかれたのだが、続いて始まった曲は聞いた事のないものだった。だがしかし。サビに来て分かった。それは「blowin' in the wind」だった。「友達よ、答えは風に舞っている」。確かに僕には日本語でそう聞こえた。参りました。降伏します。彼は確信がなければ、アンコールでファンサービスなんてしないだろう。つまり、それは彼からのメッセージだと受け取った。書かれてから、どれだけの時間が経過しても、それは有効なものだった。つまりはニンゲンの本質を描いていると云うことだ。アンコールのメンバー紹介を除いて、彼は一言も発しなかった。「サンキュー」さえ云わなかった。その潔さに打たれた。何だか、とんでもないエネルギーをもらった気がする。自分がやらなきゃいけないことを、徹頭徹尾、我が道を往く68歳から教えてもらった気がする。ありがとう。座ってるのも辛かったけれど、僕は自分の道を往きます。

by 山口 洋