循環する歌

2007/03/09, 16:39 | 固定リンク

3月9日 金曜日 晴れ 

 思い返せば、かつて甚だ地球環境に優しくない男だったとは思う。でも、国道246号線の渋滞の末尾に連なるとき、第三京浜から環八に連なる無数のテールランプを観たとき、化石燃料を自分の都合で浪費している自分にぞっとする。何か買い物をして、当たり前のようにレジ袋をもらう。国民ひとりあたりの平均が年に300枚だと。作るにも燃やすにもCO2が発生するのだと。山に暮らしていると、燃えないゴミはどうしようもない。だから、過剰包装ものはできるだけ買わないようにする。俺ひとりが生活して出た排水を河に戻すには(もちろん下水なんかないので)巨大な浄化槽が必要で、そこには微生物が居て、絶え間なく分解するためには撹拌が必要で、要するに電気が必要になる。CDが郵送されてくる際のクッションープチプチだって、いざ捨てようとすると、その処理に困る。飲み屋で何かを注文し過ぎて、残す。それは即ち生ゴミになる。発電の何割かは今や原子力が担い、永遠に分解できない物質は地方の地下深くに埋められる。何だか耐えられない。ヒステリックになる気はない。でも、一握りの富裕層が大多数の貧困層を牛耳っているという世界の図式の中では、無意味なCO2の生産と云う意味で、俺は決して貧困ではないと思うのだ。だから、自分にできることはやってみる。歌詞なら裏紙に書けるし、チャリンコは身体にもいいし、やれることは沢山ある。音楽や芸能が使い捨てになっている遠因に、このようなことなことがあるのではないか、と考えたりもする。循環する社会。例えば、仕事場の倉庫には使わなく(使えなく)なったコンピュータが何台もある。最初から循環を目指してそれらが作られていれば、多少価格が高くなったとしても、それでいいではないか。車だってそれでいいじゃん。同じように、音楽も歌い継がれて、循環していくものだと思う。目先の収入も大事だけれど、10年先を見越した音楽への取り組みってもんがあると思うし、作ってる側にも時流を形成してる責任ってものがあるはずだ。テレビがデジタル化されて、古いものが使えなくなる。巨大な需要は生まれる。でも、日本全国のテレビが同時に使えなくなるってことは、一体どれだけのゴミを生み出すんだろう?何年か前、亡くなった親戚の遺したものを整理したことがある。彼女はずっと病の床に居た。だから、沢山のビデオテープを持っていた。それを責める気はない。でも、彼女がこの世に居なくなった後、それらを有効に活用する手だては見つからなかった。結局自治体に頼んで捨てた。それはコンテナ一台分はあった。いろんな意味で切なかった。
 シンプルに暮らしてみようと思う。モノを手に入れる際、「ちょっと待った」と考えてみようと思う。「本当にそのギター必要かい?」と自分に聞いてみようと思う。だって、ギターなんてほぼ進化は止まってるよ。一人のライヴなんて、ヤイリの職人さんが作ってくれたたった1本で2時間こなせるんだぜ。そんな事云ってたら、ギターメーカー潰れるじゃんって、そうじゃないと思うよ。あの会社は作ったギターを永遠に面倒みてくれる。だから、それを愛用することによって、裾野が広がりゃ、長い目で見れば、それが一番いいんだって。多分。それはクールな考え方だと俺は思うんだけど。

 そんな事考えながら、循環する歌を書いています。あともう少し。だ、と思う。

by 山口 洋