吉祥寺にて。ツアー最終日。

2010/03/29, 06:21 | 固定リンク

3月29日 月曜日 曇り 

 東京。吉祥寺。楽しんでくれたかな?忙しい中、来てくれて、ありがとう。

 ツアーは今日で終了しました。本当にありがとう。フルマラソンを走って、ライヴをやって、そして眠れずに朝になりました。

 魚先生が居てくれて良かった。いつものように根拠はなかった。彼とツアーをしよう。直感がそう云った。笑わないで聞いて欲しいのだけれど、僕は空気の粒子が見えるようになってしまった。ひかりの粒もときどき見える。情熱を持てないことに、まったく夢中になれなくなり、分かれば分かるほど、何も分からなくなってしまった。道に迷ったなんてことではない。何も迷ってはいない。ただ、分かれば分かるほど、何も分からなくなったのだ。禅問答みたいでごめんね。でも、それが僕の実感。
 誤解のないように伝えておくと、僕は薬物を摂取しないし、ベジタリアンでもないし、特定の宗教を信仰してもいない。ただ、この一年の間に、何度もスピリチュアルな体験(この言葉遣いは好きじゃないけど、そうとしか書きようがない)をして、自分の価値観は大きく変化した。例えば、実態は不明だけれど、何度も音楽の神としか表現しようのないものに出会った。ついでに書くなら哀しみの神ってものも存在していた。時空をねじ曲げてしまうほどの、圧倒的な哀しみがこの世にはあることを知った。そして、走っているときに確かに「ひかり」を観た。出会ってしまったものは仕方がない。宇宙と繋がっていると云う確かな感覚もある。根拠はない。確かな感覚があるだけで。同時に世界と自分が「剥離」していくのも感じていた。決して孤立しているとは思わないけれど、剥がれているものは剥がれている。世界と折り合いをつける方法は「ひかり」しかなかった。安易にこの言葉は使えないけれど、それは「希望」と云う文字に置き換えてもいいかと思う。
 若い頃、圧倒的な「生への執着」があったはずなのだが、気がつくと、それもない。心配ご無用。僕は自ら命を絶ったりしない。「何が何でも生きてやる」みたいな部分がなくなっただけの話。だからと云って何も諦めてはいない。繰り返すけど、魚先生が居てくれて良かった。道中、彼とそんな話をした訳でもない。二人は無口だ。空白の時間が沢山ある。でも、それがまったく苦痛じゃない。彼がどう思ってるか知らないけど。ただ、音楽を通じて、ああ、この人には伝わってるわ。僕はそう感じたのだ。で、当然うまく行く日も行かない日もあるんだけれど、このようなコントロール不能な感情を中空に創造力を使って、風景にする。最初は雑念まみれ。僕らはニンゲンだからね。でも、スポッと音がして、はまるべきところに感情が収まったら、後は何も考えない。勝手に身体が動き、言葉がうなぎのように出てくる。そしてふたつのエネルギーは渦になり、ちびくろさんぼの最後のシーンみたいに、何が始まりで終わりなのか、どっちがどの音を出してるのか、やってる自分たちでさえ分からなくなる。ナルシズムじゃない。エネルギーを発しているのは自分たちだけれど、その実「無」なのだ。鉱石ラジオみたいなもので、電波をキャッチして、それを民に伝えるイタコのような感覚。

 今日は前置きが多くてすまんね。どうしてって、この手の話は誤解を産みやすい。その誤解はひどくやっかいなものになることがあるから。エクスキューズや、責任逃れのインフォームド・コンセントではなくて、ちょっと前に記したように、この一週間は自分にとって、大きなターニングポイントになると思っていたから、それを自分のためにも記しておきたいし、ひょっとしてこのような感覚を持っていて、誰にも話せず、苦しんでいる人が居るかもしれない。それは決して共有できる類いのものではないから、ややこしいんだけどね。先日ディランを観たとき、この瞳の深さは、圧倒的な孤独によって培われたに違いない、と僕は思ったから。

 僕らは「幼稚な時代」に生きていると思う。哀しいくらいに。別に僕が崇高だと云いたい訳じゃない。でも、例えば、テレビを観て、そう思わないかい?僕は耐えられない。僕には「耳」がある。耳の聞こえない人のために「字幕」は必要だと思う。でも、バラエティー番組に「字幕」は必要かな?過多だよ。吐きそうだ。僕らの時代は享受することに慣れすぎている。説明されることに慣れすぎている。他人と繋がることを求めすぎている。でも、それは何も繋がってはいないよ。ちょっと待ってくれ。僕は考えたい。考えさせてくれ。とにかく世界はうるさい。エンターテイメントも同じ。この世界を生きていると、弁当箱にぎゅうぎゅうに詰められたご飯粒を更に無理に詰め込まれているような息苦しさがある。ふくよかに、隙間をあけて盛ってくれ。苦しい。違う国に出てみようと思う。世界じゅうそうだったら、本当に嫌だけれど。そうじゃないことを祈りたい。

 息苦しいとき、走ってその感情をアースする。惑星は偉大だよ。それを受け取ってくれる。昨日42.195キロを走った疲労は確かにあった。けれど、それよりもアースされた感覚の方が大きくて、僕は元気だった。さぁ、朝陽がもうすぐ昇ってくる。しばらく旅に出ようか、とも思う。あてもなく。

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by 山口 洋