月別アーカイブ: 11月 2012

福島の想いを熊本の中学生たちに届ける

11月19日 月曜日 曇り 先だっての熊本県菊池郡大津北中学校の生徒たちの思い。地元のRKK熊本放送がニュースで特集を組んでくれた。とてもフラットな内容で素晴らしかったので、ファイルを頂いて、山の中から250MBをネット上にアップし(結構な苦行だった)、福島県相馬市と南相馬市の連中に個人的に届けた。(残念ながら、著作権などの関係で皆さんに公開することは出来ません。ごめん) それを観た連中がいたく感激して、遠く離れた中学生がこれだけ頑張ってくれてるんだから、何かを伝えたい、と。南相馬市の自立研修所「えんどう豆」で全校生徒、教職員、親御さん全員分のバッチを作ってもらい、プロジェクトのステッカーと合わせてパッキング。福島の人々直筆のメッセージ(残念ながら、時間がなくて500名全員分は書けなかったのだが)を添えて僕に託した。時間がないので、山の家でジリジリと荷物の到着を待っていたら、赤帽の軽トラックがやってきた日にゃ、ちょー嬉しかった。 こういうメッセンジャーなら、喜んでやりますとも。僕は麓でホッチキスを買って、直筆のメッセージをひとつひとつ袋に留めた。 さぁ、あの子たちに会いに行こう。どっきりで。いきなり現れた僕にびっくりしてたけど、喜んでくれて嬉しかったぜ。 福島の友だちへ。ちゃんと届けたからねー。校長先生も交えて、今後に繋がる話ができて嬉しかったっす。決まったら、アナウンスします。

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山便り

11月18日 日曜日 快晴

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太陽の子

11月16日 金曜日 晴れ   新しいアルバムを作るとき。タイトルが最初から見えていると、作業が速い。その言葉が導きだす、音楽の頂きを目指して進んでいけるからだ。「NO FEAR」とか「TOKYO CITY MAN」だとか。ところで、この一年間。岡本太郎さんに多大な影響を受けた。彼の意志にいつも鼓舞されてきた。で、もし、タイトルを「太陽の塔」にするなら、きちんと許諾を取らなきゃな、なんてことを漠然と考えていた。そこに来て、某氏が立ち上げた政党の名前が「太陽の党」だとさっき麓で知って、膝カックンを喰らったような気分になった。アーメン。僕はあの老人が好きだとか嫌いだとかについて、言及したくない。ただ、彼の心が何処を向いているのか。それだけは見極めて欲しいと切に思う。 ————————————————————————————  さぁ、太陽の子の話をしよう。これは愛についての話。  その人はほんとうに太陽の子だ。ダライ・ラマの如く、生まれたときから太陽の子。誰かの母体を借りて、500年に一度生まれてくる。生まれたら、産みの親から引き離される。物心がついたらすぐ、子宝に恵まれない人を助ける仕事が始まる。初めてゆっくりと二人きりで話を聞いた。太陽の子の物語は壮絶極まりないものだった。でも、内容はここには書かない。それが目的ではないから。壮絶な虐待や差別、そして裏切りを超えて、今はたくさんの子や孫、ひ孫に囲まれて暮らしている。  20年前に僕は太陽の子に会ったことがあるらしい。泥酔していたらしく、まったく覚えていない。そして「しっかり生きなさい」とビンタを張られたのだと。  数年前。僕がどうしようもない状態にあったとき。東北道を走っていたら、とつぜん太陽の子から電話がかかってきた。なぜ太陽の子が僕の電話番号を知っていたのか?そんな議論に意味はない。太陽の子はヴィジョンと共に生きる。すべて見透かされている。その後、家に帰り、僕はアニキにこう云われた。「ハ・シ・レ」。たった3文字。この二つの事象がなければ、僕はこの世に存在していなかっただろう。  雨が降る寒い日のこと。僕はいつものように走っていた。僕にはそれしか出来ることがなかった。太陽の子からは「雨の日は走るな」と口を酸っぱく云われていた。身体が冷えて、低体温症になった。ようやく家に辿りついたなら、電話が鳴った。まただ。「だから、走るなと云っただろ」。本気で怒られた。そのとき、太陽の子は2000キロ離れた場所に居た。つまりは、そういうことだ。  何故、太陽の子が僕を助けてくれるのか、まったく理解できなかった。云うまでもなく、何かをもらったことはあっても、金品を要求されたことなんて一度もない。太陽の子は「お前はこの世に必要な存在だからさ」と云った。それから僕はずっとその言葉の意味を噛みしめて生きている。  あるとき、太陽の子が僕の家に来てくれた。太陽の子は僕のベッドで寝てもらって、僕は一階のソファーで寝た。朝になって、階段を降りながら「おはよう」と云われた。涙が止まらなくなった。その言葉の中に、僕に欠けているすべての響きを受けとったからだと思う。一言で書くなら、それはとてつもなく大きな「愛」以外の何ものでもなかった。  その言葉は僕を変えた。エゴは創作する者にとって、大切なものでもあるけれど、不要なエゴがなくなっていくのを感じた。そして何もかも失って、何も失っていないことに気づいた。大切なものは、いつだって自分の心の中にあった。厳然として、確かにここに。  震災が起きて、迷いながらも自分が出来ることをやってきた。心の中にはいつも太陽の子の言葉があった。今回、山の家にはるばるやってきてくれた太陽の子に、先だっての中学生が歌う「満月の夕」の映像を見せた。太陽の子は泣いていた。何も云わなかったけれど、何を云いたかったのか、すぐに分かった。今まで「息子よ」と僕を呼んでいたのに、それからは「弟よ」に変わった。  滞在していた3日間。太陽の子は中学生が僕にくれた花束と野草と組み合わせることに夢中になっていた。必要な野草を探しながら、太陽の子はカラスや上の親(太陽の子はそう呼ぶのだけれど – mother earth – 宇宙 – つまりは神)と会話していた。行くべき道も、語るべき言葉も、紡ぐべき野草も、すべては与えられるのだと、太陽の子は語った。花束は次第に巨大になっていった。驚くべきことに、水を与えなかった。この家を離れるときに、ほんの少しだけ水を与えた。僕が家を去るときに、この花束をどうしたらいいのか尋ねた。太陽の子は「これは子供たちの愛が詰まっているから、かくかくしかじかの場所に置いて帰るように。けっして人が踏まない場所にね。そうすれば愛は循環して、必要な人にそれが届くのよ」と。  太陽の子は自らをシャーマンだと云う。でも、僕は太陽の子という響きが気に入ってる。だって、ほんとうにそうなんだからね。太陽系のすべてのエネルギーの源は太陽だからね。  滞在している間。僕は太陽の子の行動をずっと見ていた。ひとつひとつの所作に学ぶことがあったからだ。例えば食事。それは食事と云うよりは、「魂を頂いている行為」に等しかった。山の中なのに、太陽の子は魚を食べることにこだわった。麓に売っていたまずそうな鯵を丁寧に3枚におろし、普通は捨てる骨を丁寧に油で揚げて、残さず食べた。ちなみに僕も身の部分を食べてみたが、あの鯵とは思えないほど美味かった。太陽の子が注いだのは多分愛だ。遠く離れた場所からわざわざ生きたタコを持ってきてくれて、太陽の子はタコ解体ショーを始め(かなりグロかった)、タコの煮汁に内蔵と墨袋を入れ何杯も食べた。無理強いはされなかったが、とてもじゃないが僕は食べられなかった。  僕の山の家には「勝手にグレイブヤード」がある。都会の納骨堂じゃ、何だか味気ない。だから裏庭に、うちの親や犬や亡くなった多くの魂を眠らせている場所がある。そこに友だちがたくさんの植物や木を植えてくれた。そんな墓の方が僕は好きだ。そこの住人はどんどん増える。それが生きてることの意味。血縁だとか、そうじゃないとか、僕にはあまり関係のない話。そして「Prayer on the hill」、そこで祈る人の後ろ姿。  太陽の子はそこに眠る魂のために、セレモニーをやってくれた。「打ち紙」と云われるあの世界のお金を持って。僕はそんなものが存在することも知らなかった。大量の打ち紙を丁寧に燃やしていく。痺れるような寒さだったが、太陽の子は裸足で、そして目は真剣だった。寒さで僕の集中力が落ちてくると、一蹴される。死ぬってことは生きるってことで、その逆もまたそうなのだと、その姿は語っていた。  「死ぬことって怖くないでしょ?」。僕の問いかけに、静かに「そうさ」と太陽の子は応える。今の僕はその意味が分かる。間違って欲しくないけど、それは決してネガティヴな意味じゃない。今日を精一杯感謝とともに生きる。そういう意味だよ。分かってくれるよね?  僕はオカルトの話をしたいのではない。宗教の話をしたいのでもない。ただ、LIFEに起きる出来事はすべて必然で、偶然はなく、理由のない経験はないってことだ。失敗から学ぶことはたくさんある。どんな最悪な経験にも意味がある。そこには大きなメッセージが託されている。そこから人は必ず再生することができる。少なくとも、僕の経験はすべてそうだったし、これからもそうだろう。そして大切なのは愛だけだ。見返りを求めることのないほんとうの愛。誰かに注げば、忘れた頃に、それは大きくなって戻ってくることがある。それをまた自分のものにするのではなく、投げかえす。言葉にすれば、ただそれだけのこと。  「あなたはどうしようもない若者だったけれど、辛い経験を乗りこえて、まずは人を思いやれる立派な大人になった。上等さ。それが嬉しいさ」。そう云って、太陽の子は帰っていった。「麓で観たあのカニが欲しいのよ、10袋。このエキスを使って今妊娠している子を元気にしたいの」。がってんです。僕は麓にクルマを飛ばして、すべてのカニを買い占めた。9袋しかなかったけれど。相当な重さのカニを発砲スチロールの箱に入れて、太陽の子は飛行機に乗った。きっと今日もまた僕のような迷える羊が太陽の子を待っているのだろう。嗚呼。ほんとうに何と云ってよいのか。  でも僕はようやくLIFEに起きる不思議を愉しめるようになったよ。それはきっと自分が引き寄せたことだからね。求めなければ、それは得られる。  

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夢中になること

11月15日 木曜日 晴れ   引き続き山に居ます。たくさんの素晴らしい経験をしています。それを伝えるか、どうかは考えてみます。この世は科学で説明できることだけではありません。云々。  ようやく零度に下がった山並みを走ることができました。いつだって、自分の足で走ることは愉しいものです。 ———————————————————————————–  過日。たくさんの未来ある中学生と接してみて、感じたことがあるのです。「この学校で音楽やってる人居る?」。僕の問いに「吹奏楽部以外は居ないと思います」と。たぶん、あの学校にバンドはひとつもないのです。福島の子どもたちもそうだったけれど、多くの子供はサッカーに夢中です。Jリーグが地域に根ざし、地道にやってきたことが実を結んでいるのだと思います。若い選手が恐れることなく、海を渡って活躍するようになった。そのことが、子供たちに夢を与えているのだと思います。  一方、音楽はどうだったのか?僕らの時代は音楽は聞くものであり、世界とコミットするためのどこでもドアであり、自分がやってみるものでした。多くの子供たちがギターを弾いていました。でも、いつしかそれは子供たちにとって魅力のないものになってしまった。音楽関係者は自らのことだけではなく、そのことをもっと真剣に考えるべきだと思います。  生徒会長のコウヘイに「ライヴどうだった?」と聞いたなら、「僕もギターを弾きたくなりました」と。その応えがとても嬉しかった。  はてさて。心ある放送局RKK熊本放送。先日の中学校でのコンサートの模様をラジオでもオンエアしてくれるそうです。感謝。27日火曜日午後8時〜8時50分。「RKKラジオの時間」にて。聞いてね。

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山の秋

11月13日 火曜日 雨 夜はもう零度だよ。

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確かな未来と希望、熊本県大津北中学校にて

12月11日 日曜日 曇り あの日から1年と8ヶ月。僕は阿蘇にほど近い、熊本県大津町にある大津北中学校に居た。まったく、受けとったものが凄すぎて、何から書き始めればいいのか。でも、これだけは最初に伝えておきたい。 僕は本気の中学生たちに、確かに未来と希望を見た。ほんとうに見た。ダメなのは我々大人だ、ほんとだぜ。 彼らがここまで本気を見せてくれたのだから、僕もそれに応える。このblog史上最大に長くてクドいものになったとしても、許してくれ。そして、遠く離れた九州の中学生たちが、福島の人たちを本気で思いやっていることが伝わったなら、それを誰かに伝えてくれ。 —————————————————————————- 事の次第を手短かに。 今年、数ヶ月かけて、MY LIFE IS MY MESSAGE TOURを独りで全国37カ所廻った。それは福島県相馬市の今を伝えるためのものだった。熊本公演。この学校の先生と福島から避難してきているお母さんが見に来てくれた。お子さんはこの中学に通っていた。 先生とお母さんは僕のライヴで受けとったものを子供たちに伝えた。生徒会長であるコウヘイを中心に「相馬に何が出来るのか」話し合って、全校集会で僕を呼ぶことを決めた。それからは給食の時間に「満月の夕」が校内放送で流れ、その曲は全校生徒が知るところとなった。 コウヘイは僕に熱いメールを書いてきた。おそらく極度の緊張をしながら。僕は偉そうにこう書き戻した。「たぶん、このコンサートを実現させるのは、君たちにとって途方もないことだと思う。ひとつだけ約束して欲しいのだけれど、ぜったいに諦めないで欲しい。そして出来るだけ大人の力を借りずに、自分たちで力を尽くして欲しい」。まったく大人って云うことだけは偉そうだぜ。反省。 彼らはその約束を果たしたどころか、こちらが腰を抜かすくらいの情熱でそれに応えてくれた。僕も元不良の手前、彼らの前で涙を見せずに居るのが精一杯だった。 彼らは行ったこともない福島県相馬市のことを本気で思いやっていた。自分のこととして心を痛めていた。信じられる?自分が中学生だった頃に、そんなことが出来たとは到底思えない。 ——————————————————————————– だいたい。今日は日曜日だよ。なのに、どうして全校生徒、すべての教職員の皆さん、おまけに親御さんたちまでが揃っているのか。僕はこのプロジェクトを続けているうちに「休日に教職員を動かすのは無理なんですよね」という教育関係者の言葉を何度も聞いたことがある。 きっかけを作ったのは大人。でも、そこから先は中学生たちの情熱が大人を動かした。ここに立ち至るまで、どれほどの苦労があったのか?でも、彼らは諦めなかった。 ——————————————————————————— 会場である体育館には巨大なモザイクの絵が貼られていた。3年生たちが2週間かけて制作したのだと。相馬の野馬追と満月のコラボレーション。近寄って見てみる。それはビラやチラシで出来ていた。彼らはお金をかけずに、情熱でそれを成し遂げた。こみ上げてきたものをこらえるだけで精一杯だった。 彼らが発行している壁新聞には、被災地への想いが綴られていた。彼らだって、この夏の豪雨は大変だったのだ。阿蘇では多くの人が亡くなった。自分たちの街の被災と同じ想いで、福島のことが綴られていた。中学生だぜ。信じられるかい? 楽屋には女子中学生が作った食べ物が用意されていた。美味すぎて、痺れた。親御さんの年齢を聞いてみる。殆ど僕と同年齢。つまり、僕の息子や娘みたいなものなのだ。 ——————————————————————————— 嗚呼。書き出したらきりがない。あまりにクドいのもどうかと思うので、彼らの想いは写真でも語ってもらうことにしよう。 校長先生の挨拶で、コンサートが始まった。地元の太鼓の演奏が素晴らしかった。隣で見ていた先生が僕にこう云った。「あの子たち、授業中にぺちゃくちゃ喋ってばっかりなんですけど、あんな真剣な顔して演奏してるなんて知りませんでした」と。 続いて、全校生徒と各クラス、各部活動、全教職員、校長先生まで登場して「満月の夕」を歌うヴィデオが流された。これはヤバかった。直視すると涙が垂直に出そうだったが、観ない訳にはいかない。中学生がこれを創るのに、どれだけの労力を必要としたのだろう。この映像を相馬の子供たちが見たら、どれだけ力をもらえるのだろう?ほんとうにありがとう。 相馬からやってきたモリタが生徒会諸君と対談をした。彼もまた、中学生の情熱に度肝を抜かれていた。生徒たちは深刻な話も、自分たちのこととして受け止めてくれていた。それがほんとうに嬉しかった。 さぁ、いよいよ僕の出番だ。大人の本気を観てもらわないとね。これで燃えなきゃ、九州男じゃないぜ。いちおう先輩だし、オレ。でも、ここに多くを記すのを止めておこう。中学生たちの心に何かが届いたのなら、それでいい。そして受け止め方がそれぞれに違っていても、それがいい。ただひとつ、みんなで一緒に歌った「満月の夕」。素晴らしい体験だったよ。忘れられん。音楽を続けていて良かったよ。 ———————————————————————————- もはや、どうやって受けとったものを咀嚼していいのか不明。でもね、これだけは伝えておくよ。君たちの想いは確実に相馬市の子供たちに届ける。方法はこれから考える。君たちは僕ら大人に強烈なメッセージとエネルギーをくれた。君たちには何の責任もないのに、心を痛めさせてごめんな。こんな世界にしたのは僕ら大人のせいさ。だから、これからも毎日を精一杯生きる。この世が生きるに値する場所だってことを、人は信じるに足りる生き物だってことを証明する。そして、君たちが示してくれたのは、ほんものの希望で、そして未来だった。 心からありがとう。君たちのことは一生忘れん。小遣いためて、いつかライヴに来てくれ。僕もひょっこり遊びに行く。僕には子供が居ないんだけどさ、とつぜんたくさんの息子や娘が出来たみたいな気分だよ。 ———————————————————————————- 末尾ながら、子供たちを絶妙な距離感でサポートして下さった、教職員の皆さん、親御さんたち。ほんとうにありがとうございました。  

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山に還る

12月10日 土曜日 曇り   このまま、ここの家の子になって、人生をイチからやり直したかったが、オレは山に帰らねばならなかった。この夏、阿蘇に大雨が降ってたいへんなことになっていたが、オレはスケジュールがタイトでどうしようもなかったのだ。  最後の角を曲がったら、草の中に家が埋もれていた。その昔、ネヴァダにあるメディスンマン、ローリングサンダーの家を訪ねたことがある。彼は一切の殺生をしないので、草がボーボーなのだが、それすらも凌駕する雑草魂。ここまで来ると、何だか笑える。とりあえず道を作ることから始めた。クルマが通れるようにし、お亡くなりになったたくさんの虫の死骸と闘い、林業のゴンが運んでくれた薪に火をつけ、何とか暮らせるところまでは辿り着いた。でも、ヘンタイだとは思うけど、オレ好きなんだよね。労働しないと、何も始まらないってのが。

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爆走1200キロ、そして勝手に実家

12月9日 金曜日 曇り 関東某所から九州まで爆走1200キロ。 関門海峡を渡って、某山中にある勝手に実家(友達の家)に「ただいまー」と上がり込み、上げ膳据え膳で美味しいものを頂いて、撃沈。しかし、黙って座っているだけで、次から次に美味しいものが運ばれてくるってのは、まるで夢を見ているようである。せめて、布団くらい自分で敷いて貢献しようと、大広間の障子を開けたら、すでに完璧に整えられていた。大泣。

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山へ

11月8日 水曜日 晴れ 不肖、私、明日は1200キロ移動して、しばらくの間、凍える山中で労働と音楽にまみれます。覚えてる方もいらっしゃるでしょうが、いつぞやの中学生との約束(全校生徒の前で演奏して、相馬人とともに、福島県相馬市の現状を伝える)も果たしてきたいと思っています。報告を待たれい。

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人の心が奏でる音楽、福島県相馬市にて

11月5日 月曜日 曇り 濃厚な3日間を相馬で過ごして帰ってきました。言葉にできるかなぁ、難しいかもなぁ。でも伝えたいこと、たくさんあるしなぁ。自分の心にもう一度刻むためにも、時系列で書いてみます。 ————————————————— 初日 – 移動日。 相馬で仲井戸麗市さん(以下、敬意を込めてチャボさん)と演奏するのです。嬉しいです。僕らの活動に賛同してくれて、わざわざこの一本のライヴのために、本気で来てくれるのです。 ところで、今回のライヴの首謀者モリタが僕に断りもなく、自身のblogにこう書きました。「山口洋がグレッチを持ってきて、チャボさんとギターバトルを繰り拡げます、云々」。おいおい、そんな事云ってないっつーの。まだチャボさんと内容について話し合ってもいないのに。でも、モリタにとって、チャボさんの演奏を相馬で聴くこと、あるいは街の人々に聞いてもらうことは夢だったのです。妄想の暴走。 僕とてね、アコースティックギターとグレッチ。両方あれば、と思うけれど、相馬に関することは課外活動なので、何もかも独りでやるしかないのです。機材の運搬、運転、設置、演奏、撤収。 でも、チャボさんと都内でリハーサルをしてみて、モリタの妄想が正しかったことが分かりました。確かにグレッチがあった方が、音楽の神様が降りてくる可能性は上がるかも。うっしゃ、ならば運ぶぞ。おーっ。ツアーケースに入っているアンプだ何だかんだ。できるだけケースから出し、軽量化につとめ、アンプ2台、ギター4本、その他もろもろをクルマに積みました。あー、腰痛ぇ。 意気揚々と相馬に向かったはいいものの、時は金曜日の夕方。都内を抜けるだけで3,4時間、東北道は震災で痛んだ部分を集中工事していて、渋滞の嵐。東北道の黒豹にはほど遠く、到着に要した時間8時間。もう日付が変わる寸前。 それでも街のアニキと慕うSさんやモリタ、チャボさんの前乗りスタッフは待っていてくれて、人格破壊最終兵器、最高級バーボンをドバドバごちそうになって撃沈。 ————————————————— 二日目。チャボさんとライヴ。 冷たい木枯らしが相馬を吹き抜ける日。 プロジェクトの女子チームは働くスタッフのために、心を込めて弁当を作った。野郎どもは設営を終え、チャボさんたちを福島まで迎えに行く。そのクルマはどう観てもピカピカに洗車されて、車内はファブリーズされていた。北は北海道、南は九州から援軍が到着し、それぞれが黙々と働く。僕は人出の足りないPAチームのスピーカーのチューニングを手伝う。できることは何でもやる。それがプロジェクトのモットー。誰ひとり「私利私欲」が頭にある訳でなく、街の未来のために、現実を踏まえて働く。こうやって、愛は連鎖していく。この国のあちこちから持ち込まれた愛を観るにつけ、いろいろあったけれど、メゲずに続けてきて良かったなぁ、と思う。ひとつひとつ写真で紹介できなくて、申し訳ない。 相馬の人が6割、それ以外の場所から足を運んでくれた人たちが4割。会場は満員になった。 チャボさんと演奏するってことは、大きな愛情で包まれてるってところを通り越して、カンガルーの袋の中で自由に遊ばせてもらってるというか、絶対的な愛がある。自分が自分で居られるというか、どんなやんちゃも受け入れてくれるというか。あー、言葉にならん。もどかしい。ほんとうはもらってばかりじゃダメだと思うんだけどね。 選ばれたひとつひとつの曲に、想いがあって、全人格が音楽や言葉やグルーヴににじみ出ていて、音楽は人の心が奏でるってことを今更ながらに教えてもらった。チャボさんの音楽は彼のLIFE、そのものだった。素晴らしすぎて、形容不能。僕が若い頃に書いた曲をアカペラで歌ってくれるというプレゼントまでもらってしまった。これを読んでいるあなたが、何か信じられないことがあるのなら、是非チャボさんのライヴに行ってください。この世はまだ生きるに値する場所だよ。 一番嬉しかったことは。 あの日以来、僕はこの街で何度も演奏してきた。正直に云って、社会と人の心の闇は深すぎて、何度もプロジェクトを投げ出そうと思った。その度に、奇跡的な出会いとか、人の思いやりに支えられて、乗り越えられない試練はないと、思い直して今日までやってきた。 客席には晴れやかに笑い、アラレもなく泣き、(泣きながら笑ってる人がいた。ほんとだよ)音楽に心から呼応するたくさんの心があった。音楽には力があるんだと実感できた。ほんとうに、嬉しかった。 チャボさんと僕は満員の観客からスタンディングオベーションをもらった。チャボさんからは、その返礼の方法まで教えてもらった。まったくもう、何と云っていいのか。 チャボさん。ほんとうにありがとうございました。それぞれの立場で力を尽くしてくれたみなさん、ありがとう。そして、お客さん、あなたです。来てくれて、ありがとう。 生きててよかった。   ———————————————— 三日目。年末のイベントの画策。 12月23日に計画している今年最大のイベント「SMILE TOGETHER」の打ち合わせをお寺にて。厚意により、東北名物「芋煮」つき。素晴らしい。イベントを手伝ってくれる街の人々に趣旨を説明するのが、会の趣旨。オレは会を和ませようと、決死のギャクを繰り出したが、ことごとく滑った。 詳細は追ってお伝えするとして、相馬の子供たちとの祭典。NTT福島の厚意により、ネットで生中継されることになりました。全国からエネルギーを送ってください。観てね。 夜は街のアニキSさんに連れられて、70歳を過ぎた少年と愛に溢れた時間を過ごす。東北には凄い人がまだまだ居るのね。 ————————————————– 四日目。 家に戻る。疲労はあるけど、心は元気。みんな、ありがとう。オレ、ガンバル。 追伸 僕はあれから平均して月に二度くらい相馬に通ってる。でも、一度も身体に感じる地震を体験しなかった。今回、初めて相馬で震度3を経験した。街の人に云わせると、「こんなんぜんぜん平気っすよ」と。でもね、僕が体験してきたどの地震とも違っていた。3.11も僕はアメリカに居たから体験していない。長く、不気味でしつこい。ホテルがミシミシと軋む。「今日のと、3.11はどのくらい違うの?」と聞いたなら、「10倍くらいですね」と。 僕の本能がこう云う。気を抜くなんてとんでもない。同時に、地震、津波、余震、原発事故。彼らがどれだけの恐怖にさらされたのか、ほんの少しだけ分かった。 帰りしな。 福島県内のとあるレストランに行った。「食材はすべて県外のものを使っています」と書いてあった。いたたまれなかった。

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