月別アーカイブ: 7月 2011

お知らせ

7月31日 日曜日 晴れ  加藤和也君が、明日の「夕刊フジ」に先日の相馬でのこと、書いてくれたそうです。ありがとね。

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escape from an artist

7月30日 土曜日 曇り 僕は自分で「アーティスト」なんて単語は滅多に使わない。何故なら、辞書を引いてみればいい。こんな単語、使う方が頭がイカれてる。ただし、職人だとは思うけどね。 何かの都合で「君はアーティストだから」と云われると、腹の底からムカつくことがある。多くの場合、それは相手が本気で生きていない方便として使われ、刃がこちらに向かってくるからだ。クソくらえだ。本当は、誰もがそれぞれのlifeにおける「アーティスト」だ。そのことを忘れて欲しくない。誰もが、望めば、どんな状況であれ、自らの創造性を発揮できる世の中に僕らは生きているし、今だからこそ、それを発揮して欲しい。それが僕のメッセージだ。 ガーランド・ジェフリーズの新譜をともだちが届けてくれた。ジャケットで彼はキング牧師とマルコムXの通りが交わる場所に立っている。素晴らしいね、この一貫した態度。彼が81年に出した名盤のタイトルは「escape artist」。今となっては、この言葉には普遍の響きがある。言葉を換えようか?それは覚悟と責任と確かな夢を持つってことだよ。 escape from fear escape from rape escape from confinement escape from if you’re hooked on drugs escape from refinement escape from thieves and thugs escape from your loneliness escape from your past escape from Brooklyn … 続きを読む

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ミキシング

7月29日 金曜日 曇り 「海さくら」が終わってから、またスタジオにこもる日々です。何だか、とんでもない熱量が記録されていて、目覚めてすぐに、このエネルギーに向き合うのは疲れます。でも、ビバ・ニンゲン。そんな音とエネルギーの塊のアルバムを急ぎ、制作中です。 昨日から僕の周囲は読者が送ってくれたこのお方の発言に励まされています。素晴らしい。今、本気で未来のことを思うなら、このような態度になるのは当然だと思います。時間がある方は是非、観てください。 それから「my life is my message」の収支報告です。福島県相馬市のイベントで使ったお金の詳細です。これからは月に一度、みなさんに報告していきたいと思っています。ごらんのように、このプロジェクト、なかなかボンビーになってしまいましたが、引き続きどうぞよろしくお願いします。ピンポイントで支援したいけれど、どうやっていいのか分からない。そのような方は是非、我々のライヴに来て、お金を使ってください。我々が責任持って、被災地が今必要としているものに、お金を投下させて頂きます。 http://www.kk.iij4u.or.jp/~tero/life11.html

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2years

7月28日 木曜日 曇り 二年か。僕には一週間くらいのことに感じるけど。君の葬列の日。じっとりと着慣れないスーツが汗ばんで、セミがうるさかったのを覚えてる。黒柳徹子さんがやたらと凛としてたのもね。彼女は本物だったよ。その魂が。そんなことも教えられた。 多分だけれど、世の中は君が望んだようには変わらなかった。つーか、悪化しかしなかった。でも、それをどうするかってことは、生きてる僕らの役目だと思う。 この前、相馬の市長がこう云ったんだ。震災によって両親を失った子供たちに最後まで教育を施すのが、行政の役目だって。もはや、彼が自民党でも、何でもいいんだ。そんなのクソくらえだ。彼が本気かどうか、問題なのはそれだけだ。僕はね、君が遺した子供に対する気持ちと同じように、ひどく納得した。彼らが大学を出るまで5億円かかるんだと。だから、何だよって思う。5億円、途方もないとは思う。でも、不可能じゃない。不可能と思った瞬間に、僕らにもう未来はない。僕はそう思うぜ。だから、やってみることにした。世界はあんたたちを見殺しにはしないってね。何とかしよーじゃねーか、その5億円。そんなこと云って、3000円しか集められない自分かもしれないけどね。目標はデカい方がいい。僕はそんな舟に乗ることにしたよ。どうか、見守っていてください。

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blood brothers

7月26日 火曜日 晴れ 亡父、誕生日。忙しさにかまけて忘れるとこだったぜ。ある日突然居なくなって、30年近く経過して、彼が死んだ年齢とほぼ同じになってみると、何だか兄弟のような気もしてくる。ただし、存在はすごく近いところに、いつも感じている。

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新しい道

7月25日 月曜日 晴れ イベントを終えて、燃えカスになっているところに、姉と慕っている人物がCEO(ちょっと・えらい・おばさん)をつとめる会社に呼び出され、打ち合わせ。ひとつの山をようやく超えたところなのに、また新しい山かよー、と思いつつも、素晴らしいアイデアなので、また登ろうとしてしまう僕らなのであった。アホだ。アホすぎる。今度は国を超えたところにあるから、ハードルは高いけれど、人の想いに国境なんてあるはずもなく。具体的なことが伝えられるようになったら、アナウンスします。 終電に乗り遅れ、帰宅難民になった僕はCEO殿の家に泊めてもらいました。人の暮らしの匂いがする家っていいなぁ。 みなさんの気持ちによって、僕らが相馬に用意したガイガーカウンターのうち、一台はこの女性に届けました。お礼のメールを頂きました。以下、抜粋。 —————————————————— 来てくださって、 ありがとうございました。 イベントも、 支援の品物も、 本当に本当にうれしいです。 でも、それにも増して、 想ってくれること、 そして、こうして来てくださること、が。 とてつもなくうれしいです。 ぐわんぐわん揺れて 海が押し寄せて飲み込まれたあの日、 7.5mの津波が到達、と一報が伝えられたあの日から、 相馬は、私たちの知らない町になって。 あったものがなくなり なかったものが空から降ってきて どうしていいかわからないのに 全国、世界中から集まる視線に ちっさくなってしまう 東北人。 放射能だらけなのに 近くに来てくれる、 変わりモノさんたちの 屈託のない笑顔や二日酔いに癒されるのです^^ またぜひ、相馬へ。 手を、 差し伸べてくださってありがとうございます。 これからも相馬を よろしくお願い致します。 ————————————————————- 彼女は「なかったのに空から降ってきたもの」と向き合いながら、笑顔で相馬の街で暮らしています。是非、彼女のblog、訪れてみてください。みなさんの気持ちをダイレクトに伝えてくれると嬉しいです。 http://napia.seesaa.net/ ————————————————————————— 「My life is … 続きを読む

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総括原価方式と核兵器の保有

7月24日 晴れ 観てください。 続いて、うちのスタッフから相馬でじじばばに歌ったひばりさんの「りんご追分」がアップされていると連絡がありました。まったく、油断も隙もないなぁ。でも、今回は目的が目的なので、いっか。 さきほどレコード店を営む相馬人Mより、以下のメールが。 さきほど、ばあさんが「美空ひばりのときギター弾いて歌ってたお兄ちゃんの歌くれる?」って 「アントニオ古賀より上手かった」と言ってた。 そして「満月の夕」が聴きたいからって「LONG LONG WAY」とひばりさんの全曲集CDを買ってくれた。 「あの、お兄ちゃんにお礼が言いたい」と言うので、さっき電話したんだけど出なかったので、ばあ~さんが「ありがとう、うんと元気になったわ」って伝えてと言われたのでご報告まで。 ありがとう。 ばあさん、こちらこそ、ありがとう。また会おうね。

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響きあうこと

7月23日 土曜日 晴れ 「海さくら」のプレ・イベント。神奈川県藤沢市にて。 本日は僕がプロデューサーってことになってます。僕の仕事は簡単なものです。まずは一緒に演奏してくれる三宅伸治(伸ちゃん)さん、リクオに「今、歌いたい」曲を歌ってもらうこと。彼らがそこにintoできるように、響きあうこと。ただ、それだけです。ときどき、このような立場にあるときの僕には「何で自分を全面に出さないんだ」と云う批判が寄せられますが、それは心外です。誰かを立てているのではなく、響き合っているのです。そこに無上の歓びを感じるのです。それが僕にとっての音楽です。 リクオにはMC、飲酒、盛り上げ禁止と云う無茶ブリをしましたが、軽々と突破してくれました。ありがとう。伸ちゃんは、こんなに長い間知っているのに、演奏したのは初めてなのです。その理由がステージに立っていてじわじわと分かってきました。それは二人の秘密なんで、ここには書かないけれど。彼の歌には嘘がなかった。震災後に書かれた曲「生きよう」。あれだけまっすぐに、あれだけ簡単な言葉で、あれだけのデカい声で、前を向いて歌うこと。そこに確かに師匠を受け継ぎ、乗り越えようとする姿を感じて、ぐっと来ました。 観てくれた人は分かると思うけど、「海さくら」。いまどき珍しいくらいにまっすぐなイベントです。本番は9月に江ノ島で行われます。是非、来てください。ありがとう。

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福島県相馬市にて、day2本番

7月22日 金曜日 晴れ 多くのことは無意味にたくさん貼られた写真が語ってくれるだろう。これらはその真実のごく一部だけれど。今回はオフィシャルカメラマンとして、松本康男さんが手弁当で参加してくれた。後にどういう形でか不明だけれど、使ったお金と合わせて、みなさんにきちんと報告させてください。本当にありがとう。 僕は相馬という町がひどく愛おしい。失礼を承知で書くなら、震災後訪れて、僕は自分がまっすぐ立っていることが不可能な状態に陥った。ずっと微熱が続いているような、理解不能な状態。そして、激しいツアーを終えて、家に戻り、ギックリ腰になって、一週間寝込んだ。つまり、受け止めなければならないものが僕のキャパシティーを遥かに超えていたのだろう。 僕は相馬の友人たちの表情が忘れられなかった。いつも笑顔だった彼らが時空が歪んだような顔をしていたからだ。決定的にあのような表情にしたのは、間違いなく放射能だった。僕は自分の無知さを恥じて、イチから学び直した。何故、世の中はこんなことになってしまったのか。何のことはない、世間の大半の人たちと同じように、僕もガッツリ、スポイルされて、真実を観ないように飼われていただけの話だった。何度でも書くけれど、あの電気を使っていたのは関東に住んでいる我々で、彼らではなかった。それは逃げようがなく、自分の問題だった。彼らの果てのない犠牲の上に、自分はのうのうと生きていられるのか、応えは否に決まっている。どんなに時間がかかったとしても、ここで学んで、本気でシフトしなければ、未来は子供たちに遺せないことになる。そんな世界を創るために、僕は生きてきたのではない。どんなに不良中年だったとしても、それだけは心からノーだ。ただ、それだけだ。東電がとか政府が、とか云う前に、ただただ、絶対的にノーなのだ。本能として。遠藤ミチロウさんが書かれた言葉が一番僕には響いた。「これは戦争なのだ」。僕らの世代が経験する初めての、かつて誰も経験したことがないタイプの戦争だ、と。そこに勝敗がつけられないものだったとしても、簡単に負ける訳にはいかない。 このイベントを通じて、僕は自分を育んでくれた故郷と同じように、相馬への愛としかいいようのない想いは増していった。相馬人Mとは恋人みたいに毎日連絡しあっていた。自分の名誉のために書いておくと、オスと呼ばれる種類の人間とこれだけ密に連絡を取ったことはない。 会場に足を運んでくれたじじばばは、自分の祖父母や両親のように見えた。自分にこれだけの数の愛を注げる人たちが居ることが嬉しかった。僕にはもうそんな人間は居ないのだと思っていたけれど、まったく間違っていた。とつぜん、両手に余るくらいのギフトをもらった気持ちだった。町は再起を賭けた伝統の祭りの最中ってこともあって、震災後とはまったく違っていた。芽吹き始めた何かを確実に受け取って、グっと来た。そして、このクソ忌々しい放射能さえなければ。 市長に会った。ひどく頭のキレる人だった。もうこの際、政党なんてどうでもいい。僕にとって大切なことは組織より、本当に町のことを考えているかどうか、だ。彼は津波で両親を失った「震災孤児(何と云う言葉だ)」を大学を出すまでサポートしたい。命を賭けて避難を呼びかけ、自らは亡くなってしまった消防団員の遺族をサポートしたい。すべて、納得するに余りあるものだった。じじばばは大切。そして未来を創る子供たちも同じように大切。この町を深く愛するようになって、更に目標が深くクリアに見えてきた。 僕はアイルランドの某町のように、故郷がひとつ増えたような気がしている。「出身は?」と聞かれて、間違えて「はい。福島県相馬市です」と云ってしまいそうな。正直なところ、いろんなものをもらっているもは僕らの方だったと思う。金には換えられないものを。ディテールは写真に任せる。伝えたいことはひとつだけ。 一緒に未来を創ろう。本当にありがとう。 誰にって、みんなにです。あなたにです。 追伸 今回の反省をいくつか。 まずは宣伝期間が短かすぎて、ハンディキャップを抱えた人たちが来たくても来ることが出来なかった。彼らには介助してくれる人たち、移動手段が必要だったのです。そこまで頭が廻りませんでした。次は必ず。 同じ理由で、市の関係者にたくさん無駄な尽力をお願いすることになりました。 次はもう少し確実な計画を練り、じじばばと、孫たちが一緒に来て楽しめるような空間を目指します。  

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福島県相馬市にて、day1

7月21日 木曜日 晴れ 未曾有の災害を前に、自分がどう行動したらいいのかなんて、まるで分からなかった。それゆえに「未曾有」だったのかと、今となっては思う。 だから、冷静に自分の直感に耳を澄まして、死ぬときに後悔しないことを頭に入れ、ひとつひとつ行動を繰り返していたら、この日を迎えていた。それが正直な僕の実感。正しいのか、正しくないのかなんて未だに分からないし、やり遂げた実感なんてある訳がないし、巨大な渦に飲み込まれているようで、それに足下をすくわれないように必死に立っていたと云うのが本当のところかもしれない。 相馬を再訪するにあたって、津波の被害が酷かった原釜にどうしても行っておきたかった。あの場所はあの時の長田と同じように、一生忘れることのできない風景だから。果たして、そこには再生への人間の力があった。あれをどうやってここまで片付けたのか。本当に途方もない作業だったと思う。片付けた人たちは何度心が折れそうになったことだろう。見事なまでに何もなくなった原釜には、眼をこらしてみると、各家にスーパーのカゴのようなものが置かれ、ボロボロに朽ち果てた家族の写真、何かのトロフィー、そんなものがまだ置かれていた。何という愛だろう、と胸が苦しくなった。僕は再び覚悟を決めた。来てよかった。僕らが出来ることは、ほんとうに小さなことだ。でも、心を込めてやり抜くことは自分のlifeにとって、とても大切なことだ、と。 僕らがそこで何をしていたかは、この辟易するくらいの大量の写真を観てもらえば分かると思う。関わった誰もがすぐに呼応してくれ、誰もが心を込めて働いてくれていた。本当にありがとう。金銭のためにではなく、団結して働いている姿は美しかった。僕らはこの日の仕事を終えて、裏返るまで飲むことにした。誰もそんなことを云わなかったけれど、飲まないとやってられなかったのだと思う。少なくとも、僕はそうだった。 厳しい、あるいは絶望的な状況の中から、いつも素晴らしい音楽は生まれてくる。それはアイロニックなことだけれど、それが音楽の力だと思う。ただし、今回に限ってはまだそれは誰も生み出せていない。文筆家は勝手な言い方で申し訳ないけれど、更に生み出せていない。多分、それは肉体性の欠如を差し示していて、この災害の規模の大きさ、そして根深さ表している。眼に見えない敵 = 放射線との闘い。これがどれだけ困難なものなのか、それはこの場所に立っていれば良く分かる。眼に見えないと云うことは、本当に闘いづらい。僕は野菜を運びながらそれを可視化する方法を必死になって考えていた。嗚呼。

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