日別アーカイブ: 2011年7月22日

福島県相馬市にて、day2本番

7月22日 金曜日 晴れ 多くのことは無意味にたくさん貼られた写真が語ってくれるだろう。これらはその真実のごく一部だけれど。今回はオフィシャルカメラマンとして、松本康男さんが手弁当で参加してくれた。後にどういう形でか不明だけれど、使ったお金と合わせて、みなさんにきちんと報告させてください。本当にありがとう。 僕は相馬という町がひどく愛おしい。失礼を承知で書くなら、震災後訪れて、僕は自分がまっすぐ立っていることが不可能な状態に陥った。ずっと微熱が続いているような、理解不能な状態。そして、激しいツアーを終えて、家に戻り、ギックリ腰になって、一週間寝込んだ。つまり、受け止めなければならないものが僕のキャパシティーを遥かに超えていたのだろう。 僕は相馬の友人たちの表情が忘れられなかった。いつも笑顔だった彼らが時空が歪んだような顔をしていたからだ。決定的にあのような表情にしたのは、間違いなく放射能だった。僕は自分の無知さを恥じて、イチから学び直した。何故、世の中はこんなことになってしまったのか。何のことはない、世間の大半の人たちと同じように、僕もガッツリ、スポイルされて、真実を観ないように飼われていただけの話だった。何度でも書くけれど、あの電気を使っていたのは関東に住んでいる我々で、彼らではなかった。それは逃げようがなく、自分の問題だった。彼らの果てのない犠牲の上に、自分はのうのうと生きていられるのか、応えは否に決まっている。どんなに時間がかかったとしても、ここで学んで、本気でシフトしなければ、未来は子供たちに遺せないことになる。そんな世界を創るために、僕は生きてきたのではない。どんなに不良中年だったとしても、それだけは心からノーだ。ただ、それだけだ。東電がとか政府が、とか云う前に、ただただ、絶対的にノーなのだ。本能として。遠藤ミチロウさんが書かれた言葉が一番僕には響いた。「これは戦争なのだ」。僕らの世代が経験する初めての、かつて誰も経験したことがないタイプの戦争だ、と。そこに勝敗がつけられないものだったとしても、簡単に負ける訳にはいかない。 このイベントを通じて、僕は自分を育んでくれた故郷と同じように、相馬への愛としかいいようのない想いは増していった。相馬人Mとは恋人みたいに毎日連絡しあっていた。自分の名誉のために書いておくと、オスと呼ばれる種類の人間とこれだけ密に連絡を取ったことはない。 会場に足を運んでくれたじじばばは、自分の祖父母や両親のように見えた。自分にこれだけの数の愛を注げる人たちが居ることが嬉しかった。僕にはもうそんな人間は居ないのだと思っていたけれど、まったく間違っていた。とつぜん、両手に余るくらいのギフトをもらった気持ちだった。町は再起を賭けた伝統の祭りの最中ってこともあって、震災後とはまったく違っていた。芽吹き始めた何かを確実に受け取って、グっと来た。そして、このクソ忌々しい放射能さえなければ。 市長に会った。ひどく頭のキレる人だった。もうこの際、政党なんてどうでもいい。僕にとって大切なことは組織より、本当に町のことを考えているかどうか、だ。彼は津波で両親を失った「震災孤児(何と云う言葉だ)」を大学を出すまでサポートしたい。命を賭けて避難を呼びかけ、自らは亡くなってしまった消防団員の遺族をサポートしたい。すべて、納得するに余りあるものだった。じじばばは大切。そして未来を創る子供たちも同じように大切。この町を深く愛するようになって、更に目標が深くクリアに見えてきた。 僕はアイルランドの某町のように、故郷がひとつ増えたような気がしている。「出身は?」と聞かれて、間違えて「はい。福島県相馬市です」と云ってしまいそうな。正直なところ、いろんなものをもらっているもは僕らの方だったと思う。金には換えられないものを。ディテールは写真に任せる。伝えたいことはひとつだけ。 一緒に未来を創ろう。本当にありがとう。 誰にって、みんなにです。あなたにです。 追伸 今回の反省をいくつか。 まずは宣伝期間が短かすぎて、ハンディキャップを抱えた人たちが来たくても来ることが出来なかった。彼らには介助してくれる人たち、移動手段が必要だったのです。そこまで頭が廻りませんでした。次は必ず。 同じ理由で、市の関係者にたくさん無駄な尽力をお願いすることになりました。 次はもう少し確実な計画を練り、じじばばと、孫たちが一緒に来て楽しめるような空間を目指します。  

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