日別アーカイブ: 2011年3月29日

ふるさとの伝承

3月29日 火曜日 晴れ たかが、ライヴ一本やっただけなのに、燃えカスになっていた。亜脱臼再発。ふと心配になって、青森に電話したなら、首謀者サイトー・ヒロシも同じく燃えカスになっていた。またまた心配になって、長崎から派遣されたクドウ・ヒロシに連絡したなら、帰り道にコケて頭を打って気絶していた。アホだ。確かにヒロシ3が全力を尽くしたことだけは確かなようだが、我々にはまだ燃えカスになるだけの余裕があるし、やるべきことは山積している。 縁あって、毎月スタジオ・ジブリが発行している小雑誌「熱風」が送られてくる。今回はNHKが「ふるさとの伝承」と題して、1995年から99年にかけて放映したドキュメンタリーをスタジオ・ジブリがDVD化した、その特集だった。 この番組に収録された「日本人」は柳田國男や小沢昭一がかつて記した、「失われし日本人」の世界そのままに、神と共に生き、踊り、笑い、樹や海と一体になり生活する、無骨で、たくましく、そして心優しい日本人なのだと。僕はまだ観ていないけれど、きっとこの難局を乗り切るヒントがここにある。 僕が育った「博多」についての記述を読んでみる。博多んもんが「のぼせ」る祭。山笠についてのものだ。 「たとえば、前の年に亡くなった、山笠に貢献した人のお宅に向かい、皆で「祝いめでた」を歌うシーン。そこで博多の男たちが歌うのは、亡くなった人が実力者だったからではなく、「気合いのある人」だったからだ。だからこそ、同等の「気合い」をもって返さなければならないし、その表明が祝い唄なのである。 つまり博多において共同体のメンバーを結びつける原理は、「気合い」と気合いのある人への「尊敬」だと言うことができる。それはある意味ではオープンな共同体だとも言えるが、気合いや強い一体感、尊敬といった精神主義が基盤となっているため、そのノリにそもそも共感できないという点ではクローズドな共同体だ」。 この文章を読んで、自分のメンタリティーの特殊性について、これだけ明確に「文章化」されていることに衝撃を受けた。ピンチになると、必ず陥る思考がこれなのである。それは良いことであり、そして自分にとってはたまらなくやっかいな感情でもある。でも、どうにもならないのだ。僕が都会育ちの洒落者のボンボンと相容れなかった理由は多分ここにある。いつだって、「ド」がつくくらいの根性と気合いで乗り切るしかなかったのは事実で、育ちは拭いきれるものではないからだ。良く、こう言われるのだ。「熱い人ですね」。僕だってクールに生きたいと思ったことがある。でも、どうにもならないのだ。だから、こう言うしかない。「熱くて悪かったな。でも、今、熱くならなくて、いつなるんだよ」。昔と違うことがあるのなら、多少の客観性があり、静かに身体の芯が熱いと言うことだけで、空回り度が少しだけ減っているだけなのかもしれん。ホイールスピンはエネルギーの無駄使い。できるだけ効率的に接地していた方が良いに決まっている。 大切なことは、自分の脳味噌で考え、判断し、行動することだ。身体がままならないので、帰国して初めて、ゆっくりとテレビを観た。もういい。フツフツと何かがこみ上げてくるのを感じる。僕は自分の目で観たものしか信じない。どうにもならない過度の気合いを、いいヴァイブレーションに変えてみよう。さぁ、走るぜ。

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