1月24日 木曜日 曇り/雪
久しぶりに雪が降っています。
突然ですが、ウイリアム・ブレイクの「songs of experience」って知ってますか?山の中で、一心不乱に「無」になっていると(ヘンな表現ですが、そうとしか云いようがない精神状態なのです)、とつぜん頭の中に音楽が流れだしたり、今の日本人(僕も含む)に欠けているメンタリティーに気がついたり、ブレイクの詩が流れてきたりするのです。それはまったく無作為なので、自分にとっては今切実に必要なもので、本質的なことなんだろう、と思います。大切な時間です。
確かにときどき僕は新しいものを生みだしたのかも「かも」しれません。でも、こうやって無作為の中で、ふっと湧いてくるものを「edit」して、人に届けるのが自分の役目かもしれない、とも思います。出典を明らかにした上で、フレーズをサンプリングするのではなく、スピリットをサンプリングすると、云うか。たとえば、ブレイクのその詩は今こそ有効だと、山が僕に教えてくれるのです。
前述のbowlに行きました。理由は、えっと、直感です。
実のところ、修学旅行の前日のガキみたいに、昨夜は緊張してよく眠れませんでした。結果、思考が辿りついた場所はシンプルで、単独行ゆえ、人様に迷惑をかけることなく、怪我をせずに生きて帰ってくること(大げさだけど、僕にとってそのくらいの覚悟は要るのです)。その上で、チャレンジできるならば、逃げることなく、山の神に感謝しながら、昨年できなかったことを達成してくること。
頼みの雪上車が運休していたり(その分自力で登るはめになりました)、途中で酸素不足のため頭痛に襲われたりしましたが、今年の僕の目には、壁は垂直には見えませんでした。いくつになっても、人には伸びしろがあるってことを山に教えてもらいました。愉しかったか、と聞かれると、正直なところ、20%は怖かったです。でも、今年はチキンになることなく、雄大かつ危険な世界を存分に「滑らせて」もらい、帰ってきました。得難い経験でした。プレシャス。
大事なことは、そこを滑ったことよりも、副産物のように「無」のなかで何かがもたらされることです。こうでもしないと湧いてこない発想は確かにあります。日常から切り離さないと見えない日常があります。そして、このような馬鹿げたことを安易に人に勧める気はありません。
ある脚本家の言葉ですが、登るのであれば、海抜ゼロからでなければ登ったとは云えないし、今日の行動だって、バスに乗って、エトセトラ。本当に危険であれば、閉鎖されるのだし。文明の恩恵は充分に受けている訳です。
その上で、自分がマイノリティーだと嘆くのではなく、絶望的に遠い他人に、通じる言葉、そしてメロディーを探しています。それは相手や自分に迎合して可能になるとは思いません。
麓に辿りついて飲んだコーヒーの美味かったこと。多分、3日ぶんくらいのエネルギーを使いました。ヘトヘトです。
それではまた。Life goes on !
登った者にしか見れない景色~世界~がある
そこからどんな歌が紡ぎだされるのか楽しみにしています☆
ヘトヘトなのにblog更新するなんてスゴイ。読めて嬉しい、感謝です。
「無」は死に近いものなのか、それとも、もっとも「生」に近いものなのか…。
以前、知人と岡倉天心の「茶の本」について話していたとき、タゴールの詩を教えてもらいました。(タゴールは岡倉と友達だったそう)
『 死がお前の戸口を叩く日、お前は彼に何を差し出すのか?
私は、我が生命に満ちた、いのちという器を差し出します。
私は決して死という客を、空手では帰しません。』 タゴール
知人は
「俺という器の中に満たされた命を死に差し出す。死は俺をもぎ取るんじゃない、
俺の命が、死をもてなすんだ・ってこと、タゴールは言いたかったんだと思う」と。
変な言い方ですが、一人の時間は孤独。
孤独はいつもより自分の「命」にフォーカスさせてくれるから、私にとっては大切な鏡です。
この頃の山口さんのスキーblogは自然の厳しさや危険、ともすると死と隣あわせだったりもするけれど、ものすごく愉しそうで<生きてる感>がビシバシ伝わってきて、読んでるこちらも元気をもらいます。
タゴールの詩のように誰にだっていつかはやって来る死を、山口さんの命が尊敬をもって もてなしている感じがして「なんだか粋だな」って思うのです。
追伸:ウィリアム・ブレイクの詩、読んでみました。「煙突掃除の男の子」っていうのが良かった。