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教育はなんのためにあるのか?

2月24日 土曜日 晴れ いつか書こうと思ってたこと。 自分の経験で言えば、学校ではなにも学べないことを学んだ。成績は下降する一方で、ありがちなドロップアウトの道として、芸術系の大学で絵を描いていたけど、教授が大学に腰掛けて、展覧会をやってるのを見て、んなもん芸術じゃねーと、18歳のオレは思った。 なんにせよ、落ちこぼれたら未来はない、みたいな教育がほんとうに酷かった。通ってた高校が中途半端な進学校ってところがタチの悪さに輪をかけた。ほとんど恐怖政治と言ってもいいと思う。 でも、オレには音楽があったから、それにしがみついた。ここから手を離したら終わりだ。運良く、ギターを教えてくれる場所なんかなかったから、自分で身につけた。Youtubeもメソッドもない時代。結果的にそれがよかった。回り道をしたとしても、そのプロセスそのものが「個性」を身につけるにはもっとも必要なことだったから。 中途半端な誰かに教えられると、その人物のコピーが量産される。趣味なら、それで何の問題もない。でも、その道で生きていこうとするなら、それじゃダメだ。優れた指導者は導きながら、個性を伸ばしてくれるはずだけど、そんな人物には出会わなかった。 それゆえ、すべて我流。ギターはもちろん、歌を書くことも、歌うことも、エンジニアをやることも。なので音楽家の共通言語である譜面はからっきし弱い。コード譜くらい追えないことはないけど、あれを追ってると、「追ってる」ことがすべてで、縛られて、インスピレーションが湧いてこない。 難しいポイントだけ自分の記号で書いて、あとは脳みそを空っぽにする。曲が体に入って、曲のコアとつながった感覚さえあれば、川が流れるように、ともに流れていけばいいだけ。だから、初見は無理だけど、一回聴けばだいたいのことは理解できる。もっといえば、知らない曲を演奏しているときが一番愉しい。 譜面は記録するメディアがなかった時代に、人に伝えるための手段がそれしかなかったってことなんであって。 クラシックの教育を激しく受けてしまった人に多いのは、それだけ読めて、弾けるんだったら、自分で曲を書きなさいよと勧めても、もう脳がそういう風に働かなくなってしまっていること。そりゃ、本人の問題でもあるけど、教育ってなんだろう?って。どうしてこんなに頭を硬化させてしまうのか? あなたは譜面通りに演奏するためのマシンではない。間違えてなにが悪いのかオレにはわからない。そもそも音楽に良し悪しなんてなくて、好きか嫌いかしかないのに。採点なんて不可能な芸術なはずなのに。 音楽は自由であるべきだと思う。応えは机の上にはない。神と呼ばれるものは音楽の中にいるよ。確実に。それと響き合うのに必要なのは、生き抜くためのプロセス。それを磨いていけば、稀にそこに到達できるようになる。楽器に向き合ってるだけじゃ、到底辿り着けない。ジミヘンが26にしてこう言ってた。「魂を国家に支配されるな」ってさ。そういうスピリットがないと! なんというか、楽な道なんてない。もう一度書くけど、いちばんたいせつなのは目的地ではなくプロセス。プロセスが適したもので、なおかつオリジナルであるなら、あなたは目的地に行けると思う。   最後に父親の話を書いておきたい。彼は数学者だった。オレに勉強しろと言ったことは一度もない。言われたことはただひとつ「勉強しなくていい。好きに生きろ。ただし、その責任は自分で取れ」。高校生の時、数3ってやつがほんとに1ミリもわからなくて、0点を取ったら、彼は「さすがオレの息子だ」って喜んでた。 彼が教えてくれたのは。「数学ってのは美しいんだ」と。みんなは公式を覚えて、それに当てはめて問題を解くのが数学だと思ってるけど、そうじゃない。公式を毎回自らが「定理」として導き出して、「真理」に到達できるところが美しいんだよ、と。だから彼は一切の公式を知らなかったらしい。 これだけ時間が経過してみると、親子がやってることはそんなに遠くないんだと思う。彼が自分の道を責任とともに歩けと言ってくれたこと。それこそが教育のほんとうの意味だったと今となっては思う。 この頃ね。親父が遺してくれたギターで苦手な和音に取り組んでる。あ、昨日も書いたか。とってもやりがいを感じてるよ。 光は音に変換できる。ほんとだよ。 なことも含め、全身で描きました。 山口洋初のエッセイ「Seize The Day 今を生きるための音楽」 ボックスセットとしてカモネギ書店で予約受付中! よろしくね!!    

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