5月1日 水曜日 雨
野暮用があって、大学時代の悪友に10年振りくらいに連絡した。奴もオレもロクな学生じゃなかったが、相も変わらず、一瞬にして「貴様とオレ」みたいな関係に戻れるのは気持ちいい。奴とは何かを極めた頂点で再会することになっていたので、全開の博多弁で冒頭からカマしてみる。
オレ「ひさしぶりやのー、オマエ、元気かちゃ?たまには連絡してこんか、このバカタレが。頂でオマエをずーっと待っとるけど、来やせんやないか」。
ヤツ「おーひさしぶりやのー。オマエ。たぶん待っとる頂が違うんちゃ」。
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閑話休題。
最近、一番ぐっと来た歌詞は、某氏が名曲を訳して歌ったサビのオチの部分。「ともだちとして」だった。オチすぎて、ずっと心に刺さったままだ。原曲とは微妙に違う。でも、僕にはオリジナルの100倍くらいの説得力を持って響いてくる。
その歌を生で聞いてから。
いろんな場面で僕はその言葉をリピートする。「ともだちとして」、「ともだちとして」、「ともだちとして」。
「ともだちとして」。どうあるべきなのか、ほんとうに考える。
「ともだちとして」。うまくいかないすべてのことを他人や世界のせいにするのが好きになれない。
「ともだちとして」。約束を守らない人とはともだちになれない。
「ともだちとして」。ムードで生きている人のために命をかけられない。
「ともだちとして」。自分の手を汚さない人が嫌いだ。
「ともだちとして」。ほんとうのことを話さないのは思いやりだって?それは殆どの場合、違うと思うね。
「ともだちとして」、「ともだちとして」、「ともだちとして」。
自分が一人のニンゲンとしてどうありたいか?—をいつも考える。できるだけ寛容でいたいなあとか、<友達だから、家族だから>なんていう関係上にのせる束縛はしたくないなとか、いつも本音でいよう、とか。それは、相手が友達であれ、誰であっても・ね (^ ^)
良いもんですよ。故郷の友人は。
自分も東京に暮らして、もう生まれ育った長崎よりも長く時間が過ぎているんですが、逢うといつでもリセットできる。東京を起点に世界中を飛び回るような仕事していても、帰れば、もう長崎弁で、本当の自分に戻るような気分ですね。
ともだちとして。難しいですね。
あまり自分のことを話したくない人に対して、自分で気づくまで「そっとしとく」のは一見やりのように見えて、実は愛がない感じもします。
気づくように促せたらよいのだろうけど。
歳を重ねるたびにいろんな人が生きてる実感と共に、自分と人の違いを感じています。
自分も完璧じゃないからって思うと、口が貝になったり。葛藤。
良いところ誉めて、だけどね、って。
それを重ねてきた友人はホントのともだちと呼べる気がします。
「みんなちがってみんないい」と素直に付き合えるとよいな。