12月13日 火曜日 雨
振り返ってみれば、民謡が昔から好きだったのか、と。特にアイリッシュを聞いていると訳もなく高揚したり、慰められたり、こころの深いところに到達する音楽というか。どうして、そうなのか、のちになって検証していくうちに、その意味が改めてわかってくる。そんな感じでした。
学校ではなにも学べなかったけれど、その民族の歴史を実地で実体験として知っていくこと。それこそが本当の学びだったと今となっては思うのです。すごく大雑把な言い方をすれば、アイリッシュは受けた憎しみをさらなる憎しみに転化しなかったこと。たいていの場合、音楽や酒や文学やジョークに転化させた。そのハートの持ちように惹かれてきたってことがわかるのです。
コはなんのインスピレーションも与えてくれず、僕の場合、インストとしての音楽は生み出せたけれど、特に言葉の発露がまったくなくなってしまった。危機感を覚えたけれど、湧いてこないものは仕方ない。
そこで目を向けたのは日本の民謡でした。人のこころを長い時間をかけて旅をして、100年を超えて生き残ってきたものにはきっとなにかがあるに違いない。
まずは自分で深掘りをすることによって、そのスピリットを体内に取り込んでみたい。演奏することによって血肉になるに違いない。そうなったら、再びギター一本を持って世界に出ていって名だたるミュージシャンと隙間だらけのシンプルな演奏をしてみたい。そこにほんとうは素晴らしかったこの国のスピリットが炙り出しのように浮かんでくるのではないか、と考えたのです。
安里屋ユンタはイケてる姐さんの歌。三線は使わず、スライドギターでnowhereに表現する漠然としたイメージがあったのです。で、リズムギターをまずは録って、近所のスタジオでドラムを録ってきて、国勢不明のものを創りました。
こきりこ節はずっと好きだったのです。表現するにあたってはLED ZEPPELINのイメージが。理由は不明。もちろんジョン・ボーナムみたいには叩けないんだけどね。笑。
取り組んでいるうちに、体の中にスピリットが入ってくる感覚がありました。それは自分にとっては意味があることだったなぁ。
もうひとつ。これらの音楽をアナログのシングルでリリースしていくという実験。これを機会に同輩のファンがアナログに新しく回帰してくれれば、と。若い世代はアナログの豊かさに気づいてくれればなぁ、と。実験ゆえ、あえてサブスクもCDでもリリースしない選択をしました。
プレス先もいろいろ探して、なぜかチェコ。
さて。ツアー先の福岡から帰ってきたので、これから通販を整備します。ぜひぜひゲットしてくださいまし。
>受けた憎しみをさらなる憎しみに転化しなかったこと
自分はヒ◯シさんとちがって学校でマジメに勉強してましたが、それらが何ひとつ役に立たないこともわかっていた十代の頃、自分の崩壊しそうな精神をギリギリ支えてくれたのは、無学で理不尽な苦労だらけの人生だったけれど、いつも哀しみと慈しみのこもった光る眼差しで柔らかく微笑んでくれた、一人の老人の存在でした。
初めてヒロシさんに触れた時、たしかに「懐かしい」感じがしたのです。
それは、”受けた憎しみをさらなる憎しみに転化しなかった”スピリットの繋がりだったのだと、今合点がいきました。
コは、人格も持たない見えない存在。だからその理不尽な攻撃に対して、こころが反応しようがないし、表現すべき「言葉」が生じなかったというのは、理に適ったことだったのかもしれませんね。
人類の歴史に疫病はつきもので、それは往々にして時代の大きな変わり目にもなりました。
そういう苦難の歴史の中で人々に寄り添い続けてきた各地の民謡を、今アナログレコードでリリースされるというのは、ヒロシさんの直感のなせる技かもしれませんが、至極理に適ってもいて、それは何か普遍的な流れに後押しされての、必然的なことだったのではと思います。
今この時にリリースしてくださって、ありがとうございます。
民謡を聴いているとその土地の風景が見えてきます。労働歌を歌いながら海で網を引いてみたいなどともたまに思います(そういう所はまだ日本にあるのでしょうか?)
リハーサルのアーカイブありがとうございます。アナログ盤楽しみにしています。
福岡のライブ、ほんとうに行けて良かった。感無量。
世界で起きていることを考えるとほんとうにそう思います。
ゲットしました。民謡を山口洋監修で
アナログドーナツ盤で聴く日が来るとは思いもよりませんでした。
でも、とってもしっくり。なんか、安里屋ユンタ、こきりこ節、という良い映画を見た様なそんな気分です。ありがとうございました。
始めて、クリオネ魚さんのCDも購入しました。とっても良かったです。
NRキャップも、気に入ってます!