伝えておきたいこと

1月17日 月曜日 晴れ

毎年、この日がくるたびに。

あの歌が流れていましたよ、とか。いろいろ。

もちろん、想うことは山のようにあります。でも、この日だけではなく、決して忘れることのない風景なので、この日こそ静かにしておきたいという気持ちもあります。

とはいえ、あまりにいろんなことを尋ねられるし、間違って伝わってることもあるし、僕からみたあの日のことをきっちり伝えておきたくて、連載していたwebメディアに数年前、渾身の力で描きました。

webなら後世まで残ると信じていた僕が甘かった。

そのメディアは某メジャー会社が運営していたのですが、方針転換により廃止、削除の憂き目に。

さっき、散歩しながら思ったのです。自分のblogに載せておけばいいじゃん。笑。

僕が生きている限り、この記事は削除しないので、いつでもここを参照してください。著作権は僕にあります。リンク、転載も自由にどうぞ。体験の公共財だと思っていただければ。

この記事がアップされたとき、クレームもありました。知っている(見聞きした)事実と異なる、と。あんたはアホか。これは僕が経験した、僕の記憶なんであって、それが100%正しいなんて言っていない。ただ、180%の誠実さをもって描いた。それがわからんのか!言いたいのはそれだけです。

忘れていいことと、そうでないこと。

それは毎日のことだと思っています。

forgive me, I’m sorry, thank you, I love you.

 

 

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満月の夕 (前編)

こんな存在の歌になるなんて、思ってもいなかった。

リリースしたら、歌はもう自分のものではなくなる。ふ化したあと、大海へと漕ぎだす鮭の稚魚のように。成長して戻ってくる歌なんて、ほんのわずか。人々のこころという未知の大海を泳いでいく歌たちが、どんな旅をしているのか、僕は知らない。どれだけ歌を書いても、それだけは分からない。

「満月の夕」は僕にとって、そんな稚魚のひとつだった。違うことがあるとするなら、独りで書いたのではないということだけ。リリース後しばらくして、いろんな人たちがカヴァーしてくれるようになってからも、この歌をクローズアップされることが苦手だった。忘れることができない、あの焼け野原の風景に向きあうことは、正直しんどかった。それゆえ特別な理由がない限り、この歌について語らなかったし、歌うこともなかった。

けれど、この歌は作者の手に負えない存在になっていった。ある種の公共財のように。人々によって歌い継がれ、南米で、北米で、イラクで、沖縄で、日本や世界のあちこちで歌われていると聞いた。苦難に陥っている人々を励ましていると聞いた。

こうなると、稚魚の思いもよらぬ成長によって、こちらが教えられるという不思議な現象が起きはじめる。あまりにも多くの人のこころを経由しているから、こちらは太刀打ちできず、取り扱いに困ったりもする。

たとえば、とある場所で、とあるヴァージョンが流れていたので、「それ友人と書いたんです」と云ったら誰も信じてくれない。たとえば、この歌を映画で使ってくれた監督にパーティーで会ったので、お礼を云いに行ったら、初対面なのに首を締められ「お前か!あれはな!いい歌だ!大事にしろ!」と云われたりもする。

作家として最高の栄誉があるとするなら、たとえば100年後にこの歌が歌われていることだ。傷ついた誰かのこころに寄り添っていることだ。だから、誰が書いたか、なんてことは本質的にはどうでもいいのだけれど、一度だけ、パブリックな場所で、きちんといきさつを記しておきたい。というより、僕自身がこの歌に向きあっておきたい。歌い継いでくれた人々に感謝を込めて。

あれから22年の時が流れた。事実とは少し違うことがあるかもしれない。でも、僕はドリーマー。過去だって創造することがある。それは捏造ではない。お許し願えれば、と思う。

前置きが長くなった。話を始める。

1994年冬。バブルの終焉とともに、バンドブームは「バンド焼け野原」と姿を変えていた。そのブームもまたバブルそのもので、個性と実力のないバンドはほとんどが淘汰されていった。そして、焦土の中、いくつかの骨のあるバンドが生き残っていた。そのひとつが中川敬が在籍していた関西のソウル・フラワー・ユニオン。彼はじゅうぶんに興味をそそる希有な存在で、焦土の中にギラギラと背筋を伸ばして立っていた。

僕はその頃、半分は日本に居なかった。この国が息苦しくて、世界のあちこちを旅していた。中川はそれに批判的だった。「もっと現実と足下、見た方がええで」。いい組み合わせかも、と僕は思った。

真剣に向き合ったなら、化学反応が起きるか、良くない爆発が起きるかどっちかだろう。僕もじゅうぶんに面倒くさかったし、いちばん面倒くさそうな男と組んでみることにした。互いに若かったし、刺激にも飢えていた。

関西にある中川の家に僕は出向いた。土産代わりにラフなメロディーを抱えて。それはいつか友部正人さんに投げかけたくてキープしていたものだった。中川は三線、僕はギターという形で共作が始まる。くだんのメロディーを中川に投げかけると、「あかん!手癖や」。そして彼は隣の部屋に消え、数分でメロディーを作り変えて戻ってくる。それを受けて僕も作り変える。やりとりは数回に及んだと思う。

やがて、僕らはメロディーをループして演奏し始めた。こういうとき、三線とギターという組み合わせは都合がいい。中川がメロディーを、僕はコードを弾く。そうやってAメロとイントロとブリッジ部分が出来あがった。時間にしてわずか20分くらいのことだったと思う。濃密だった。2人の個性が凝縮されたメロディーとコードができた。そして、このAメロにはサビが不可欠だと意見が一致した。

続きはそれぞれが書き上げて、連絡しあうことになった。僕らは確かに腹が減っていた。中川と鍋をつついて、僕は東京に戻った。歌詞はまったくついておらず、どんな歌になるのか、まるで決まっていなかった。

そして忘れもしない、1995年1月17日。あの震災が起きる。

満月の夕(後編)

空港のロビーで22年前のことを振り返っている。

何かとてつもないことを経験したとき、人はトラウマになることを避けるため、脳が記憶することを拒否したりするのだろうか?あの日々は、強烈な体験として脳に記録されていて、決して忘れることができないのに、妙に現実感がなく、時系列もディテールも曖昧だ。

ただし、少しプライベートな話を書かなければ、この歌に関する正確性が更に失われる。だから、気恥ずかしいけれど、書いてみることにする。これもまた、今まで語りたくなかった理由のひとつなのだけれど。

1995年1月17日。

僕は神戸出身のガールフレンドと東京で暮らしていた。だから、2人で受けた、あの朝の衝撃を言葉にするのは難しい。修羅場に強いはずなのに、なにも覚えていないのだ。あの朝のことを。おそらく、激しい動揺を彼女に悟られないようにふるまったのだろう。長田区と須磨区の境目にあった彼女の実家にどうやって連絡し、無事を確認したのかもまったく記憶にない。

僕らはのほほんと暮らしてきたのだ。戦後の高度成長時代に育ち、貧困にあえいだことはないし、戦火をくぐったこともない。そんな僕らには、テレビに映しだされる光景が超ド級の衝撃だったのだ。彼女の家族の安否という、リアルに自分たちが関わる現実として。家屋や高速道路やビルが無惨に倒壊し、あちこちから火の手が上がり、人々は泣き叫んでいる。

助けなければ。僕はテレビを観ていただけの立場からあの歌を書いたことになっているが、実は違う。かなり早い時期に、僕は神戸に入ったはずだ。交通機関はまだ殆ど回復しておらず、中川とその仲間たちに、車で三宮あたりまで連れていってもらったはずだ。

大阪から神戸に近づくにつれ、状況は衝撃的に悪くなっていく。後にNEWS23に出演したとき、故筑紫哲也さんに伝えた言葉だけれど、僕らの世代が教科書でしか見たことのない風景が拡がっていく。彼女の実家は道一本を挟んで長田区。そこはあたり一面が焼け野原だった。

生死を分けるもの、運命というあまりにもむごく、気まぐれなイタズラ。三宮から彼女の実家まで歩いたのだろうか。テレビが切り取る風景と、自分の目で見たそれはあまりにも違っていた。むごすぎてリアリティーがなかった。焼け野原にある、ひとつひとつの事象、例えば焼けたコップひとつ、とか。突き刺さってくる。僕は自分の目で見たものしか信じられなくなった。救出というミッションがなければ、自分を保てたかどうかも甚だ怪しい。

中川と仲間たちは傷ついた街で演奏することを始めた。それは特筆に値する行動だった。電気が通っていないからマイクもない。そんな状況で彼らは焼け跡という人々の暮らしと同じ高さのステージに立っていた。僕にはそこで歌う勇気はなかった。自分の歌が誰かを励ますとは到底思えなかったし、行動はできるだけ一人でしたかったからだ。

多くの日本人と同じように、僕も自分が出来ることを探した。僕はミュージシャンになる前にテント屋でアルバイトをしていた。小さなものからサーカス並みの巨大なものまで。だからテントの設営には自信があった。マネージャーとともにクイとハンマーとロープを持ち込んで、ボランティアセンターのテントを張り直し、補強した。僕が手がけたテントはビクともしなかったと、後に感謝されたけれど、できたことはそれだけだ。

一方、中川たちは傷ついた人々を励ますため、古い歌などのレパートリーを増やし、前にも増して、活動の幅を拡げていた。

震災からひと月くらい経った頃だろうか。僕はくだんのAメロにサビをつけたので、中川に電話した。すると彼はこう言ったのだ。「あの曲な、サビつけて、もう神戸で歌ってるで !」。これは共作における明確なルール違反だ。サビはお互いが作って連絡しあうことになっていたのだから。いい気分ではなかったが、彼らがどんな想いで、被災した街で演奏しているのか、僕なりに理解していたから、その気持ちを飲み込んでこう云ったはずだ。「その歌を何でもいいから録音して送ってくれ」、と。

送られてきたテープを聞いて感嘆した。素晴らしかった。それは「満月の夕」と題されていて、あの現場を深く経験したものでなければ書けない歌だった。僕が作ったサビより遥かに素晴らしかった。ただし、この歌詞は僕には歌えない。僕が感じたリアリティーとはかなり違うものだったから。

あのとき、二種類の日本人が居た。行動した者と、テレビを観ていただけの者。正確には僕はその中間くらいの存在になるが、後者の立場から歌を書こうと思った。誤解を怖れずに書けば、被災した人たちだけが傷ついたのではない。何もできないと自分の無力さを責めている人たちがたくさん居ることも僕は知っていた。

同じ曲に歌詞が異なるヴァージョンが存在する曲なんて聞いたことがない。けれど、そこは半ば強引に中川にねじ込んだ。もともとルール違反を犯したのは向こうなのだから。

仕事部屋でHEATWAVEバージョンの「満月の夕」の演奏を聴きながら、歌詞を書いていた。そこにガールフレンドが入ってきて、こう言った。「この曲はほんとうに素晴らしい。たくさんの人を励ますはずだから、どうしても完成させて欲しい」。彼女が僕の音楽に何か意見したのは後にも先にもこれ一回きり。それだけでも書いた意味があると、今でも思っている。僕が描いた光景はテレビが切りとった風景ではない。自分の目が見たもので、傷ついた彼女にも届けたかったのだ。再生の歌として。

二つのヴァージョンはそれぞれのレコード会社からシングルとして発売された。共作の証として、互いのヴァージョンにゲスト参加したが、セールスは決して芳しくなかった。互いに6000枚ほどだったはずで、このシングルを最後にHEATWAVEはソニーから戦力外通告を受けた。

しばらくの時間を置いて、いろんな人がこの歌を歌ってくれるようになっていった。始めは中川のヴァージョンが多かった。そして時間の経過とともに、僕のヴァージョンをカヴァーする人が増えていった気がする。中にはふたつのヴァージョンをミックスして歌ってくれたものもある。

もちろんレコード会社のプロモーションによって、この曲が伝えられた部分はある。けれど、この歌は有名、無名に関わらず、数多くのシンガーによって歌い継がれ広まっていったのだ。そのことがとても、とても、嬉しい。

とあるフェスの帰り道。この歌をたいせつに歌ってくれている男が、彼にとってこの歌がどんな意味を持つのか、初めて僕に語ってくれた。ひどくこころを動かされた。求めてくれる人が居る限り、歌い続けようと。そのとき、こころに決めた。あれから20年以上経っていたから、遅すぎるのかもしれない。でも、僕はそれでいいと思うのだ。こう思えるようになるには、20年を超える時間が必要だった。あの歌はもう誰のものでもない。歌ってくれたすべての人たちのものだ。これからも人のこころを旅してくれればそれでいい。

ひとつの歌に関する長いストーリーを読んでくれて、ありがとう。たくさんのシンガーがそれぞれに想いを込めて、伝導してくれたことに感謝を。「満月の夕」はこの世界が信じるに値する場所だということを僕に教えてくれた。

Seize the Day / 今を生きる。

満月の夕

風が吹く 港の方から
焼けあとを包むように おどす風
悲しくて すべてを笑う 乾く冬のゆうべ

夕暮れが悲しみの街を包む
見渡す眺めに 言葉もなく
いくあてのない怒りだけが
胸をあつくする

声のない叫びは煙となり
風に吹かれ 空へと舞い上がる
言葉にいったい何の意味がある
乾く冬のゆうべ

ヤサホーヤ 歌が聞こえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕

絶え間なく 突き動かされて
誰もが時代に走らされた
すべてをなくした人は何処へ
行けばいいのだろう

それでも人はまた汗を流し
何度でも出会いと別れを繰り返し
過ぎた日々の痛みを胸に
いつかみた夢を目指すだろう

ヤサホーヤ 歌が聞こえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕

ヤサホーヤ 歌が聞こえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
解き放て 命で笑え 満月の夕

 

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伝えておきたいこと への5件のコメント

  1. かつらぎ より:

    神戸は、六甲山と港と風の街だから、
    この歌詞は、神戸っ子の心にしみるのですよ。
    当時は、いくつもフェリーセンターがありました。
    飛行場みたいに、埋立地にに乗り場がならんでいたのです。
    長田区と同じく、子どもの頃住んでいた大切な東灘区の青木や深江も、焼け野原になりました。漏れ出ていたガスの匂いも、この唄を聴くと思い出します。この言葉を届けて歌い継いでくれてありがとうございます。

  2. き~んさん より:

    今まで何回読んでも涙が溢れます。掲載ありがとうございます。

  3. 猪野直也 より:

    thank you, love you.

  4. ナカムラ より:

    満月の夕の背景を知ることで、また想いは強くなるのだけど、
    そもそも持っている歌のエネルギーがすばらしい。

    僕自身が初めてこの歌を聴いたのは、記憶が正しければ、その年1995年の天神にあったイムズ(過去形になりますが・・)でのアコースティック・イン・GAYAだったと思います。歌には力がある。山口さんの声とメロディーと歌詞、ライヴのあと、帰りには大きなエネルギーを蓄えた気分でした。

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