現地の声/messages from Soma City

1月21日 土曜日 雨 

 10日間ほど、コンピュータの前に張り付いていました。自分が書き残した大量の文字、写真、それらをまとめていました。一年分の思考を振り返ることは、決して楽ではありませんでしたが、無意味なことではありませんでした。現代に生きる僕らは忘れてしまうことが速すぎる。そう思うことがあります。忘却の彼方に追いやってしまわなければキャパを超える。それも確かにそうなのだけれど、忘れてはいけないことも厳然としてある。ひどい肩こりと共に。それが僕の実感です。

 それから、沢山の人間にインタビューを開始しました。言わずもがな、それは僕の専門職ではありません。けれど、周囲を見渡してみて、適任が僕しか居なかったのです。特に、被災した人たちには聞くのも、それを受け取るのも心が痛む作業です。僕からのインタビューの依頼を断れずに受諾し、書いているうちに、いろんな経験がフラッシュバックしてきて、随分辛い目に遭わせたなぁ、と申し訳なく思いました。けれど、これは貴重な大切な経験なのです。語られないまま、忘却することはあり得ない。未来に繋げなければ。だから、インタビュアーである僕はインタビュイーたちにこう伝えました。例えは甚だ悪いけど、「これはある種の解毒だと思う。だから、思い返すのは辛いと思うけど、文章がまとまってなくても全然構わないから、僕に向かって吐き出して欲しい」と。続々と集まっています。正直、書いた人も、受け取った僕も、しんどい作業です。でも、ここからでなければ未来は語れない。僕はそう思います。これらの本、大至急制作中です。昨日、お願いした「一年後の希望の写真」も合わせて、サポートをよろしくお願いします。こういった現実もふまえた上で、みんなで未来を描きましょう。

 今日は一番早く反応してくれたプロジェクト相馬本部長Mのインタビューをお届けします。貴重な言葉がたくさんあります。是非、読んでください。

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市民が語る3.11とこれから

MY LIFE IS MY MESSAGE / from SOMA CITY #1 森田文彦(モリタミュージック代表)

インタビュアー 山口洋
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森田文彦さん もうすぐ50歳。相馬市中村で代々続くCDショップ、モリタミュージックを経営。2012年元旦付けで、プロジェクトの相馬本部長に就任。報酬0円。

http://blog.livedoor.jp/happymoritamusic/

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—– 生まれも育ちも相馬である、森田さん。まずは相馬の素晴らしさを教えてください。

森田 実は震災前は相馬に対して、ここまで愛情はありませんでした。震災が起きて、周囲の人々に助けられ、励ましあって今日まで来れたことに、感謝以外の言葉が見つかりません。相馬の素晴らしさは、失って初めて気づきました。キレイな海、甘くて肉厚なホッキ貝をはじめとした豊富な魚介類。美味しい果物や野菜など、、、。もう食べられないかと思うと、食べたくなるものです。

—– 震災が起きたときはお店に居たんですか?

森田 そうです。CDが手裏剣のように飛んできました。いつまでも止まない揺れに、お店が倒壊するのではと思い、外へと飛び出しました。近くの建物が爆音とともに崩れてきました。揺れがおさまって、しばらくしたら海の方から「キィーン」という金属音が聞こえてきました。おそらく、それが津波の音です。もう同じ経験は二度としたくありません。

—– お店は何とか地震に耐えたけれど、森田さんの家は流されたんですね?

森田 そうです。全てを失いました。

—– 一連の経験は森田さんをどう変えましたか?

森田 僕自身、政治に対してまったく興味がありませんでした。恥ずかしながら、選挙に率先して行く人間でもなかったのです。でも、今回の原発事故で政治家や役人が取った態度は許されるものではありません。将来この国を背負う子供たちを全く守ろうとしない人間を軽蔑します。僕らは人の命は地球より重いと教えられて育ちました。けれど彼らは自分たちの事しか考えず、まず金ありきの対応に怒りを感じるようになりました。

—– 相馬が決定的に失ってしまったものは何でしょう?

森田 なにより自然でしょうね。自然と共存して生きてきた街ですから。放射能のおかげで、漁師は魚を獲れなくなり、農家は作物を作れなくなった。もう何十年も、同じ仕事しかしていなかった人間が、今さら他の仕事が出来るとは到底思えないのです。残念だけど、生きがいを失くした人は少なくない。それが現状です。

—– 毎日、定点(お店)にいらっしゃって、例えば原発4号機の危機について、人々はどのように感じているんでしょうか?差し支えのない範囲で教えてください。

森田 ここに居ると感じるのは温度差なんですよ。まったく原発事故や放射能に感心を示さない方。そして怯えている方。問題なのは正確な情報があまりにも少ないことなんです。情報が少ないから「大丈夫だ」とタカをくくっている人。一方では情報が少ないから不安だらけの人。でも、残念ながら無関心な人が多いのも事実です。子供を持つ親でもそうなのには驚きます。だから子供をもつお母さんが発行する「かえる新聞」をいわきで見つけて、これを相馬でも発刊できないかと思ったんです。見事に山口君は僕の思惑にひっかかりましたけどね(笑)。だって、昨年末の「収束宣言」はマスコミがあれだけ大きく報道したのに、4号機の話題なんてまったく地元に伝わって来ないんですよ。自分たちの身は自分たちで守るしかないんです。

—– 見事にハメられた僕ですが(笑)、僕もかえる新聞の普及には力入るんです。ところで、街が今一番必要としているものは何ですか?

森田 JRと高速道路ですね。電車がなくなって、こんなに不便だとは思いませんでした。今や、いわきや東京に行くのはちょっとした旅ですからね。高速道路は絶対に必要なんです。原発が倒壊や爆発。そんな状況になった時に、今の状況では逃げる術が少なすぎるんです。だから、未来への展望なんて描けません。4号機が倒壊したら、どこに逃げるかってことを考えることが先決なんです。

—– 街でCDショップを営まれている森田さんに、震災復興に音楽が果たした、あるいは果たせなかった役割について聞きたいんです。

森田 震災直後、音楽を聴きたいなんて欲求はまるでありませんでした。音楽なんて災害が起これば無用なものだと思いました。こんな仕事やめようと本気で考えました。お店も散らかったままで、片付ける気力もありませんでした。でも、お店には居たんです。アテもなく、毎日沢山のCDたちを見つめていました。「何やってんだ俺?」って。
そんな時に、殆どのお坊さんが避難して、津波で亡くなられたご遺体がお経もあげてもらえず荼毘にふされてると聞いて、尼さんでシンガーソングライターでもある「やなせなな」さんのアルバムをお店で流し始めたんです。お経をかける訳にもいかないから、彼女は尼さんだし。亡くなられた方のために何かをしたかったんです。
でも、やっぱりロックは聴けなかったんです。心が受け付けませんでした。
4月に入って、坂本サトルくんから電話が入りました。「聴かなくても良いから、相馬で僕とバー101のオーナーである塩沼さんに歌を届けたい」と。それで101でLIVEを開催しました。告知はブログだけだったんですが、30名くらいの相馬の方が来てくれました。その時にGIP(東北のイベンター)の社長やARABAKI ROCK FESをやっている菅君も一緒に来てくれて、ARABAKIのTシャツや支援物資を持ってきてくれました。数日後にはAKEBOSHI君が、ひょこっと顔を出してくれたんです。あれには本当に驚きました。音楽という前にミュージシャンの友人達に救われた事が大きかったんです。仕事だけじゃなく「友」としての付き合いをしてくれてたんだなぁって。そう思ったら、「僕はこの仕事以外、何もできないよなぁ」と思って、お店を片付けはじめたんです。そんな時期に、誰かに「お前は死んだと思われてるから電話してやれ」と言われ、青森の楽屋に居た山口君に電話をしたのが全ての始まりでした。
全てが、僕を音楽へと呼び戻してくれました。感謝しています。

多くの方々が津波で全てを流されました。僕もその一人です。当然、CDやカセットテープも流されました。その中には、津波の犠牲になられた家族が大好きだった歌も含まれています。御遺族にしてみれば、想い出の中に「音楽」も一緒に刻まれているから、その歌が欲しいと問い合わせが今でも来るんです。でも、この音楽業界大不況の煽りで、昔の曲は廃盤となってしまってるんです。僕も何とかしたいと探すんですが、CD化もされていない曲もあるんです。お客さんに「やはり、ありませんでした」と伝えるのが、今一番辛いことです。
でもプロジェクトで美空ひばりさんのフィルムコンサートを開催し、お年寄りが涙しながら観てくれた姿は感動的でしたし、先日の養護学校とリアム・オ・メンリィとのイベントで生徒だけではなく、先生までもが笑顔で会場を後にした姿を一生忘れる事はないと思います。今、ようやく音楽の素晴らしさを感じています。山口君をはじめとして、多くのミュージシャン達に僕は救われました。この仕事をしていて本当に良かったと、震災を通じて感じています。「絆」って、こういう事なんですね。

—– 僕もね、音楽やってて良かったと、昨年ほど思った年はありません。ところで、「MY LIFE IS MY MESSAGE」との関わりを教えてください。

森田 このプロジェクトがなければ僕は必死に仕事していたと思います。そうすることでしか、この状況を乗り越えられないと思っていましたから。山口君から「俺は、相馬をピンポイントでサポートする」と言われて、なに言ってんだ?と思っていましたけど・・・これだけアホで熱い男だとは思いませんでした。彼の伝染病が、いま僕達に伝染しているような感じです。感謝しています。こんな経験は、今しか出来ない事ですから。自分自身と向き合う事もできましたし。このプロジェクトを通して、少しでも相馬市民の方々に恩返しできればと思ってやっています。

—– 希望ある未来を創るために必要だと感じていることを教えてください。最後に全国のみなさんに伝えたいことを。

森田 とにかく子どもだけは全員避難させて欲しいんです。相馬に希望ある未来を考えるのは、原発が廃炉になってからだと思います。数年後には、子供たちは何かしらの病にかかるだろうし、さまざまな状況が予測できてしまうんです。その事を考えただけで、胸が痛いんです。ほんとうに、私利私欲しか考えない方々はこの国の中枢から去って頂きたいんです。そして今以上に高齢化が進むこの国で、ある程度「我慢」は必要だと思います。そのためには、政治家や役人が、自ら身を削る覚悟のある人物でなければ、国民はついて行けません。未来を考えられるのは、そこから先の話だと思います。

僕自身、原発なんて無視して生活していた人間でした。こんなにも恐ろしい物だとは知りませんでした。権力を持った人間の愚かさを痛いほど知らされました。原発は絶対に不要なものです。贅沢と危険を天秤にかけて考えてみて下さい。今、どれほどの人間が苦しんでいるでしょう?皆さんに相馬市や南相馬市に来て頂いた理由は、現実を知って欲しいからです。マスコミが報道してくれない本当の苦悩を、、、。それは、皆さんにもある日突然、襲いかかる可能性があるんです。これ以上同じ思いを、他の地域の方にして欲しくないのです。だからこそ、参考になる今のこの街を見て欲しいのです。ひとりひとりが意識をもって、次の世代に良いバトンタッチが出来る環境を作って行きましょう。今までノホホンと日本で生活してきた僕たちが喝を入れられたのだと思っています。こんな危険な原発、そして危険な政治家をみんなの力で無くさなければ、子供たちに申し訳ないんです。頑張りましょう。

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