日別アーカイブ: 2014年5月27日

故郷の恩。

5月27日 火曜日 晴れ 故郷、福岡に向かう飛行機の中でこれを書いています。かなり長くなるけど、読んでくれると嬉しいです。 僕が1979年にHEATWAVEを始めたとき、練習スタジオなんてものは存在しませんでした。バンドの名前をつけてみたはいいけれど、ドラムセットもない。中華料理屋でバイトをして、ようやくオレのマシンガン、エレクトリック・ギターとアンプを手に入れました。毎週末、僕はクソ重たいエレクトリック・ギターとアンプを往復2時間かけて、徒歩と電車でともだちの家まで運びます。最初のドラムセットはともだちの家の机。僕のアンプにはベースとヴォーカルマイクまで無理やりインプットされていて、そりゃあヒドイ音でした。そこはラーメン屋のすぐ近くで、演奏が盛り上がってくると窓に「ぴしっ」と音を立てて、何か末恐ろしい物体が飛んでくる。それはラーメン屋のオヤジが怒りと共に投げるニワトリの足でした。(実話) 僕らはようやくドラムセットを手に入れ、ともだちの家や農家の納屋など、練習場所を転々としました。髪の毛をおっ立てて納屋でパンキッシュな演奏をしてるんだけど、炎天下にクーラーもなく、息苦しくなって、納屋の窓を開けると田んぼでおばあさんが尻まくりして用を足している(シュールだったなぁ)、みたいな。(これも実話) そのうち、僕は通学途中の電車の車窓から「スタジオみつば」なる文字を発見します。あれ、このプレハブの建物はゲームセンターじゃなかったっけ?訪れてみると、スタジオとは名ばかりで、ゲームセンター内のついたてで仕切られたスペースでバンドが練習しているという、かなりシュールな光景。でも、僕らにしてみれば、周囲や尻まくりを気にせず、思い切り大きな音で演奏できる。ヴォーカルもちゃんと聴こえるし。これがスタジオのオーナーである元競輪選手、通称「みつばのおいちゃん」との出会いでした。 おいちゃんはまったく音楽に興味のない人でした。今考えると、それが良かった。僕らの音楽に口出しすることはありません。たいていスタジオのオーナーはミュージシャン崩れの人が多くて、面倒くさい。おいちゃんはいつも同じ体温で淡々と接してくれる。しかも隣はラーメン屋という博多感極まりないシチュエーション。競輪選手 → ラーメン屋 → ゲームセンター → 音楽スタジオ。音楽スタジオへの見事な最後のトラバーユも、ゲームセンターに来ていた大学生が「最近バンドが多くて、練習場所を探している」という、それだけの理由で始めたんだそうで。 その建物はプレハブでヒドい状態でしたが、防音も殆ど機能してないがゆえ、たくさんのバンドを耳をダンボにして聴くことができました。忘れもしない福岡市東区の雄たち、フルノイズ、おっしょい、ラストシーン、ルーズ、エトセトラ、エトセトラ。北九州にはルースターズが居て、僕の身近にはこれだけのイケてるバンドが居る。そのことが僕らをとても励ましたっつーか、負けられないっつーか、とにかく死にもの狂いで練習したのです。だって、これ以外に世界との接点、ないしね。 プレハブには当時3つのスタジオがありました。一番狭いところは4畳半くらい。そこは殆どセミプロとして活動していた「おっしょい」が機材を置きっぱなしにして使っていました。僕も散々彼らにはお世話になっていて、バイトを紹介してもらったり、バンドマンの悲哀を教えてもらったり。おっしょいの解散にあたり、そのスタジオは僕らが譲り受けることになりました。これで一年365日、どんな時でも練習できる。とても嬉しかったのを覚えています。とにもかくにも、ほぼ毎日、音を出すこと。これが僕らの礎になっていることは間違いありません。冗談抜きで、日本で一番練習したバンドだと思います。実際、その頃のHEATWAVEは鉄壁でした。 人気も出てきました。でも、バンドは金がかかる。ツアーをすると赤字で、それを埋めるために働くだけで精一杯。貧乏にも程がある。メンバー全員、最初は外車を乗り回してました(オレは奨学金をガソリン代にしてた)が、国産車になり、原チャリになり。しまいにゃ、原チャリを維持することさえ難しくなり。合言葉は「貧乏はオッケー、でも貧乏くさいのはダメ」。スタジオの壁にはシュノーケルと水中マスクがメンバー分備えられていて、お腹が減ると原チャリで密猟に出動。渡辺圭一が獲ったウニを僕が水中で集める、みたいな。実際、こうやって飢えをしのいだのです。(これまた実話) おいちゃんは僕らの無軌道な情熱をいつも同じ体温でサポートしてくれました。過度に喜びもしないし、叱責することもない。そのうち、僕らはスタジオ代(月額たった3万円だったのに)も払えなくなりました。それでもおいちゃんは「払え」とは云わない。申し訳なくて、僕らは年末の大掃除など、できることをやるようにしました。何だか、元競輪選手の父ちゃんと出来の悪い息子たち、みたいな不思議な関係でした。ツアーに出発するのもこのスタジオから。「行ってきんしゃい」みたいな。 このスタジオは行き場をなくした若者たちのたまり場で、学校で、青春の血と汗と涙を流した場所でした。ライヴの場所を除いて、唯一生きていることを実感できた場所というか。 僕らが東京に行くことが決まった時。未払いのスタジオ代は50万を超えていました。最後の福岡でのコンサート、700人くらいの観客が来てくれて超満員。終演後、スタッフに見せてもらった札束(殆ど1000円札だったけど)。そのお金でおいちゃんに借金を返し、スタッフ約30人と二日に渡って飲み続け、最後は温泉センターでお金を全部使い果たして、僕らは東京に旅立ったのです。トラックに乗って。その際においちゃんは僕らに新品のラジカセを餞別にくれました。泣けたなぁ。(実話) とにも、かくにも。おいちゃんが居てくれなければ、僕らは音楽を続けることができなかったのです。もはや感謝の域を超えてるのです。 あれから25年経ちました。 渡辺圭一から連絡があり、おいちゃんが高齢(83歳になります)のため、今月末でスタジオの閉鎖を考えている、と。僕らは考えました。おいちゃんに感謝を伝えたい。でも、派手なことが苦手。だから、今日昔の仲間たちが集まって、最後のセッションをすることにしました。 ———————————————– ここからは今日の出来事のあと、ホテルで書いています。今日、起きたことを文字にするのは止めることにしました。それはおいちゃんと僕らの心の中にしまっておくことにします。とっても美しい時間でした。どうやら、明日、西日本新聞の朝刊に載るらしいです。僕もそれを読むのを愉しみにしています。 おいちゃん、おばちゃん、ありがとう。

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