未来を創ること、イベントを終えて#2

12月29日 土曜日 曇り

(前回からの続き)

元より、僕という個人はあらゆる組織に適応できないタイプの人間です。僕が能動的にこの世で属していると云えるのは、4人組のバンドだけで、それさえうまくやれないのなら、ほんとうに社会不適格者だと自認しています。

僕のモットーは「人は一人だけれど、独りではない」。つまり独立した「個」どうしが連帯することは可能だと信じて今まで生きてきました。

だから、このプロジェクトは出入り自由。立場の上下はありません。それぞれが「自分の問題」として街の復興に取り組んでいます。

ちょうど一年くらい前、相馬出身のシンガー、堀下さゆりが1307人の相馬の子供たちと作り上げたアルバム「スマイル」のコンサートを実現したい、との街の希望を聞きました。僕らにサポートしているという意識はまったくありません。街の希望を実現することに、それぞれが自分の事として全力で取り組もう。その一点に於いて連帯しています。

ところが、「スマイル」に参加しているのは、生徒たちであるがゆえ、学校や教育委員会、役所と云った組織と関わらざるを得なくなる。組織とうまくやれない僕らが組織と関わる。ここに構造的矛盾が生じます。

でも、それは僕らが越えなければならないミッションだと受け取りました。そんな問題くらいクリアしなければ。

実現のためにはどのような難題も受け入れよう、と。事実、たくさんのリクエストがありました。移動のためにバスを出して欲しい、保険をかけて欲しい、途中で帰りたい子供は帰してやって欲しい、時間は守ってほしい、これを運んで欲しい、あれを運んで欲しい、添乗員をつけて欲しい、エトセトラ、エトセトラ。書けば、キリがありません。中途から、そのような折衝に長けた人物がかなりの部分で雑務を引き受けてくれました。その人物が居なければ、ここまでたどり着けなかったでしょう。また、学校という現場で、ひとつひとつの事象を伝達していたのは他でもない堀下です。

途中から僕の頭の中にはでっかい「?」が浮かぶようになりました。後に、僕が一番信頼している街の人物が「明確に」言葉にしてくれましたが、僕らに向いているのは「出入り自由」の一切の強制がない「盆踊り」みたいなものです。先祖が還ってくる。それを踊りで迎える。お囃子が鳴り響いて、人々がわらわらと集まってくる。露天が並び、それぞれに人々は時間を過ごす。大人が居て、子供も居る。そこでは酔客が喧嘩をするかもしれない。でも、それはそれで、誰かが止めるだろうし、そもそも人や街とはそんなものじゃないですか。亡き人を思いやり、我々の生はたくさんの死の上に成り立っていることを感謝する。

相馬と云う街にHWの音楽が鳴り響く。震災前には考えられなかったことです。第一義的には子供たちに「大人の本気」を観て欲しかった。でも、子供たちと同じくらい観て欲しかった街の人たちは遠慮して、来ることをためらった。つまり、僕らは僕らの手によって「閉鎖的」な状況を作ってしまったのです。猛省すべきです。僕らは何処を見つめて歩いていけばいいのか。それは「組織」や「ルール」ではなく、ほんとうの意味での「街の未来」であるはずなのです。

「音楽祭」という言葉の中に「祭」という言葉が入っているのに、その出入り自由な感じが失われていったのです。「音楽祭」実現のために、クリアしなければならない組織のルールの数々。それをひとつひとつクリアしていくうちに、僕らは自分たちの良さを失っていきました。たとえば、それは人を信じること。どんなに過酷な状況であれ、主催した僕らが「楽しい」と感じられるものがなければ、伝わるものは半減します。

一例です。「イベント中に地震が起きたら、誰が責任を取るのか?」。もちろん、逃げるための導線は考えておきます。でも僕はこう云いたい。この街に居る以上、地震が起きる可能性はじゅうぶんに考えられるわけで、それに対して出来る最大の備えはするけれど、地震そのものを僕らが防げるはずもなく、その責任を問われたら、何もできない。だいいち、使われた会場は震災後、避難所として使われていた建物です。ってことは街の中では安全な場所じゃないすか。それ以上に僕らに出来ることは何もない。

そこには、責任から逃れようとする体質があります。僕らは「やる」と云った以上、責任は取ります。組織とそうでない人間たちが垣根を超えて「一緒に」作っているという感覚は最後までなかった。それはほんとうに楽しくなかった。金だって、人員だって、何より大切な「愛」だって、絶対に何とかしてみせる。でも、それは最後まで感じられなかった。その「大人の事情」を敏感な子供たちが感じ取るのです。ほんとうに、哀しい。組織に居ようと、そうでなかろうと、同じ人間じゃないですか。

一言だけ云わせて欲しいのです。組織の皆さんの給料が何処から出て、何のために働いているのか。その原点だけは忘れないで欲しい、と。こんなくだらない垣根を越えられずに、いったいこの街の何処に未来を描けるのですか?むろん、僕らの至らない部分は猛省します。でも、ほんとうに心から、街のことを考えている人がどれだけ居るのか、胸に手を当てて、考えて欲しいのです。

マスコミの人たちは、報道には「主観」がつきものであるという危険性を今一度認識してください。あなたの「主観」が報道されることによって、多くの視聴者には「事実」として伝わるのです。もっと全体を観てください。限られた時間やスペースの中で、「全体」をどう切り取って伝えるのか、自身の仕事に「責任」と「誇り」と「勇気」を持って取り組んでください。お願いします。

最後に一番僕がショックを受けたことを書きます。

プロジェクトの連中が、イベント終了後に子供たちに感想を聞きました。その中に「あ・り・が・と・う」という文字がひとつも見当たらなかったのです。もちろん「感謝」の気持ちを還流させることができなかった僕らに問題があります。でも、その上で僕は云いたい。

自分の責任を逃れ、自分のことしか考えない大人たちを子供は見ているのです。そのつぶらな瞳で。感謝できない子供にしているのは、僕ら大人です。そんな街に未来がありますか?これでいいんですか?ほんとうに。

イベントが終わるまでに見ざるを得なかった、数々の大人たちの哀しい行動を、僕はここには書きません。ほんとうに、あまりに哀しくなるからです。でも、この文章を読んで、思い当たる人が居たら、そっと胸に手をあてて、明日から自分の行動について考えてくれませんか?

被災された人たちに、原発に苦しめられている人たちに、こんなことを書いて、ほんとうに心が苦しいです。でも、これは相馬だけの問題ではないと僕は思います。ひょっとすると、この国じゅうが手遅れなのかもしれません。

でも、僕らは諦めません。きっと「街の人間ではない連中が何を云ってるんだ」という反感を持つ方もいらっしゃるでしょう。でも、関わってくれている連中はほんとうに「自分の事」として考え、そして行動しています。あれだけの数の子供たちを見て、「何とかせんといかん」と思っています。未だ外で満足に遊べないこと。避難したいのにできない状況の人たちのことを忘れたことはありません。

プロジェクトのプロデューサーに声をかけてくれた少年が居たそうです。相馬でもいちばん線量が高い地区の子供です。彼は僕らの顔を覚えてくれていました。

「おじさんたち、思いっきりサッカーさせてやるからな、って云ったじゃん」と。

僕はこの子の言葉がいちばん刺さりました。むろん、僕らは嘘をつきません。いや、つけません。今回のイベントでもたらされたすべてのことを糧にして、この子との約束を必ず果たします。

読んでくださったことに感謝します。関わってくださったみなさん、来てくれたガキんちょたち。ほんとうに、ありがとう。

一緒に未来を作ろう。どうか、よいお年を。

HEATWAVE 山口洋(49)

撮影、すべて松本康男。敢えて、キャプションは書きません。何かを感じて頂けたら、と。

撮影、すべて松本康男。敢えて、キャプションは書きません。何かを感じて頂けたら、と。

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未来を創ること、イベントを終えて#2 への12件のコメント

  1. テル より:

    子供たちから『ありがとう』の言葉がなかったとしても、
    楽しんでくれていたのならば、それが感謝の態度だと捉えてもいいんじゃないでしょうか。
    僕も、逃げない大人・親になります。

  2. うっちゃん より:

    私も組織側の人間ですが、一級河川のような一部の人たちの言動や行動に幻滅することは多々あります。私は、現業職で体も家庭も難ありの泥の川のような人間でギャップも感じますし、自営業、自由業の人の逞しさには、及ばぬ所もあります。それでも、お年寄りや子供らに支持されると嬉しくなります。見てる人は見てます。感じてる人は感じてます。明日に伝えることが私たちの一切です。

  3. てら より:

    被災地の”組織”の人たちも被災者な筈です。
    余所者であれば全ての被災者に平等に愛を注ぐべきかと思います。

  4. s より:

    ありがとうの「言葉」がなかったのはすごく繊細で難しい問題だと思います。両目があって、優しい目で見ると一緒にやった連帯感から気づいていないのかもしれないし、もう片方の厳しい目で見ると(現地に行ったこともない私が書くと語弊があるかもですが)、子ども達の状況から、誰かに何かをしてもらう(これも人として当然の事を勇気ある人がやってくれてるので語弊があるかもしれません)事に無意識に受け身になってしまっているのかなと。
    子育て格闘中の立場からいつも考えるのは「やらされる」のではなく自ら「やる」ように導かなければという事で、もしかしたら相馬の子ども達だけの問題ではないような気がします。
    大人の責任です。
    いずれにせよ、子ども達が大人になった初めて、心から「ありがとう」と思えると信じています。
    幼い頃、本気で叱ってくれた怖い先生の思い出のように。。。
    そう子ども達が気づけるよう、大人が努力していきたいです。
    「スマイル」が見れて良かったです。

  5. om より:

    NTTの中継みて、完全な外野からの正直な感想
    山口さんをはじめ、賢明に携わってこられたかたを批判するつもりはありませんが…

    スポンサー名を繰り返したり、音楽祭なのに突然沸いて来た宣伝劇団、ヒートウェーブのライブにも違和感。

    なによりも、主役の子どもたちは心から楽しんでいたのだろうか。正直やらされてる感はあった。

  6. カルカン より:

    仏教には「無功徳」という言葉があるそうです。
    正確な意味は知りません。以下に書くことは、その字面から勝手に感じたことです。

    「無功徳」というのは、「快楽」を感じないことだと思うんです。
    「嬉しさ」とか「感謝の念」というのは、自分で自分に与える「ご褒美=快楽」だと思います。
    だから、無功徳の人というのは、自分の全存在を賭した願いが叶っても、「嬉しい」とは感じないんじゃないか・・・。
    そう思うんです。

    しかし、人が「よりよく在りたい」、「理不尽を退けたい」と想う原動力は、「快楽」です。

    人が幸せになってくれる・・・それが「嬉しい」。だから世界を改善しようとする。
    他者に対して「感謝の念」を感じる・・・だから自分も何かをお返ししたい。

    ここまでの意味を持つのが「快楽」という言葉です。

    『私たちはなぜ、奉仕したがるのでしょうか?』
    『私たちの社会は、快楽に支配されています』
    ・・・ともに、ジッドゥ・クリシュナムルティ

    僕は「スーパー悲観主義者」だけが到達出来る「ウルトラ超絶楽観主義者」だと
    自負しています(笑)

    だから、こんな風にも考えてしまうんですよ。

    子供たちは、もしかしたら、
    「快楽」を越えた目で大人たちを見ているのではないか・・・と。

    それはそれで、とても哀しいことではありますが。

  7. 陸の王者 より:

    難しい問題が数えきれないほどあったかと思いますが、本当の答えは山口さんが言っている通り五年後あるいは十年後に出ると思います。ヒートウェイブのロックンロールをかき鳴らし、その鼓動を体の奥のどこかに記憶してくれている子が何人かでもいてくれれば、そしてそれが彼ら(彼女たち)の力になるのなら、それでいいと思います。

  8. toshie, tokyo より:

    大人の言うことをきく子供のうちに、大人が実際に「ありがとう」言って見せたり、子供に「ありがとう」を言うように促したりして、日常的に子供の身に付けてさせておかないと、おそらくは、10年経っても言えないです。
    やがて、子供も年を取って、どこへ行くのも大人が付き添って守っていられない年になります。だんだんと自分で判断して生きていく。そこで、「ありがとう」を言えなくて辛い想いをするのは子供です。

    子供を守るとは、そういうことだと私は思います。

    • toshie, tokyo より:

      お詫び
      上に書き込んだよう実感して若い人の話を聞くことがよくあります。
      でも、実際に相馬や南相馬に生活していない東京者が言うべきではないことを避けようとして、結局、自分ですら身動きの取れないような、思いやりのない文章を書き込んでしまいました。恥ずかしいです。申し訳ありませんでした。

  9. ながわ より:

    遅くなりましたがお誕生日おめでとうございます。

    相馬のこと、書きづらいことを書いてくれてありがとうございます。
    おとなの皆さん、善意で解釈すれば、今まで散々嫌な目にあって、疲れて
    及び腰になってるのかも。だから「リスク、責任」ばかり考えてしまう人も
    いると思います。「行動したいけど動けない」人もいると思います。

    相馬の真の復興にはそういう「おとなたち」が前に進めるような支援が必要
    なのかも知れません。「自分で考え自分で動ける」そんな支援が。
    子供の支援は勿論大事ですが、一方で大人に対するケアも必要なのかも。
    (えらそうに外野の気楽な意見。スミマセン)

    このイベント、ネットで見てて楽しかったけど終わった瞬間、「相馬このあと
    どうなるんだろう?」と考えるとモヤモヤした気分が起こりました。
    そのモヤモヤは今も消えません。そして消しちゃいけないと思います。
    相馬に行く機会があれば、この日記を念頭に色んな人と話したいと思います。

  10. Froggy II より:

    幸か不幸か、私も組織とは相性のわるい人間です。
    だから「大人の事情」っていう言葉が都合のいい言い訳にしか聞こえない。
    人の行動はほとんどすべて自己責任だと思う。誰かのせいにしてたら家から一歩も出られない。理解に苦しむこと、不条理なこと、哀しいことがあるたびに考えさせられるのは、誰もが「自分は正しい」って思ってること。それぞれの正義感を押し付け合ってグチャグチャになる。世の中ではそんなことが日々繰り返されている。

    freedom=自由の語源はfriendだと聞く。つまり「自分(あるいは組織)とうまくやってるうちは自由にしてていいよ」ということで、そこには何かによって抑圧された、または支配する何かの存在がある。でも liberty は束縛のない「個」の自由。私はどんな状況においてもlibertyでありたいと思う、libertyで生きやすい社会を望む。でも、そのためには自己責任が必要不可欠だし、当たり前のことだと思う。
    とにかく何が大切かって、組織とか何とかよりも…
    「一人の人間として、どうありたいか」 ってことじゃないかしら。
    肩書、組織での位置づけなんて関係ないのよ。

    子どもたちの「ありがとう」については、その言葉がなかったことは確かにさみしい。でも最終的に感謝の言葉がなくってもいい、と自分は思います。自分が好きで動いたことなんだから。感謝の気持ちがうまく表現できない子もいる、ずっと後から「あのとき楽しかったな、有難かった」と、時間をかけて気づくこともあるから。
    大人だってそうだもの。「愛」の形もみんな違うし、自分が思うほど他人が思いを注いでくれるのかなんて、誰にも一生わからない。人はある意味、すべてにおいて世界に片思いなんだと私は思っています。望む結果が得られなくても、自分が選択した人、言葉、行動を信じてこれからもやり続けていくしかない。

    すごく大切な事実を伝えてくださって有難うございます。
    この内容は自分にとっても学ぶべきことがたくさんあります。

  11. co より:

    鳥肌立てて
    地団駄踏んで
    瘡蓋剥いで
    お前の骨をタワシでゴシゴシ擦れ

    この歌詞の裏腹と言う曲が僕とヒートウェイブのはじまりです。
    いまでも辛い時、我慢する時、無理矢理でも前を向かなければならない時、
    自然と口ずさんいます。
    只のお気に入りの楽曲が、度々の人生の岐路の道しるべの気力を奮い立たせる時の
    テーマソングになるとは思いませんでした。
    伝える側を受けて側が理解する事には時間が掛かる事もあるのだと思います。
    でもきっと伝わっている。彼らもきっとありがとうと思う日が来るのだと
    本気で思います。

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