日別アーカイブ: 2012年7月8日

暑苦しく生きること、茨城県水戸市にて

7月8日 日曜日 晴れ 僕の記憶が正しければ。いろんなライヴの会場であのクソがつくくらい暑苦しい今日の主催者どもが僕を待ち伏せしていて「水戸に来てください」っつーメッセージを何度も聞かされた気がするのだ。あまりに暑苦しい(褒めてます)から、僕はマネージャーに「水戸に行かないと、そのうち呪われそうな気がするから(褒めてます、アゲイン)、彼らとコンタクトを取ってくれ」と頼んだのが事の発端。 こうして、僕は人生で初めて茨城県水戸市にやってきた。いやはや、素晴らしい街だ。歴史も街の規模も納豆も。 ただし、僕は自分のアホさ加減を恥じ入ることになる。茨城県は震災や原発の被害をあまり受けていないと思っていた。ところがどっこい、話を聞けば聞くほど、福島の影に隠れて、被害が大きかったことを教えられ、愕然とする。それは福島と同じように複雑に進行中だ。どんなに被災地と連絡を取って、知ったような気になっていたとしても、何も知らないのだ。ほんとうに恥ずかしい。でも、知らないことは恥ずかしくない。知ろうとしないことが罪なのだ。 この地は全てにおいて微妙だ。震災や放射能の被害も受けていて、それはあまり全国的には知られていない。そして、何よりもこの県には原発を作っている有名な会社がある。この国は自国の原発事故を収拾できないのに、原発を輸出する。そしてこの県には東海村もある。こうして、現地の人たちからいろんな話を聞かされると、原発がレッキとした「差別」の図式そのものであることが浮き彫りになってくる。「芸術」と言われている類いのものがプロバガンダの材料として使われていたりもする。ほんとうに、まったく何と言うか。 東海村の村長さんから主催者と僕宛に手紙を頂いた。東海村はここから車で20分ほどの距離なのだと。そこに何があるか、みんな知ってるよね? 村長さんは自治体の長として、原発に真っ向から反対してきた。その姿勢に心から敬意を。おそらく忙しいにも程がある公務をぬって、僕らに励ましの手紙を送ってくれたのだ。これで燃えなくて、いつ燃える? 会場の下に車を停めたとき、2階にある40年の歴史を誇るJAZZ BAR、BLUE MOODSから野郎共がドタドタと駆け下りてきた。足音が既に暑苦しい。奴らの額にはねっとりと汗。オレは覚悟した。今宵はとんでもなく過剰な夜になる。暑苦しさにはオレも暑苦しさで応えよう。ううっ。嗚咽。 奴らはほんとうに過剰なくらいまっすぐで、ヘンタイで(ほんとだもん!!)、暑苦しくて、情熱に溢れていた。その情熱に引き込まれるように、決して広いとは言えないBLUE MOODSは熱気ムンムン。ありがとう、本日もSOLD OUT!!! 楽屋から半径50cmしかないステージに行くことですら、難儀な状況。オーディエンスもオレも薄い空気の中で、妙な一体感を感じ始めた。き、危険な状況だ。客席も波江町から避難してきている若者たちを含め、いろんな人たちが入り交じっている。相馬からモリタが応援に駆けつけ、更に暑苦しさはヒートアップ。じゃ、せっかくだから相馬の事を語ってくれとは頼んだが、彼はライヴ中にも関わらず、堀下さゆりの「SMILE」(相馬の子供たちが歌っているCD)から1曲流すという暴挙に出たため、号泣女子続出。もー、何だか良く分からない空間になってきた。しゃーない、行くところまで行ったれ。ライヴが終わる頃にはあまり体験したことのない妙な一体感が会場を包んでいた。まるで餃子と納豆とビフテキを一緒に喰ったような。嗚呼。 でもね。何だか表現する言葉が見つからないけど、みんなじっとりと汗をかいて、それでいて美しかったんだよね。多分、多くの人は「この世はそれでも生きるに値する場所で」「捨てたもんじゃない」と感じてくれたんじゃないか、と。実際、あまり経験したことのない類いの充実感がオレにはあったし、最後の一滴まで振り絞ったにも関わらず、あまり疲れていなかったし、打ち上げはここに書くのもはばかられるほど、ヒドい盛り上がりっぷりだったし。 野郎ども、そして足を運んでくれた人たち。過剰な水戸。最高だったよ。また行ってもいいかな?そして奴らはどーしても、オレを東海村で演奏させたいらしい。分かったよ。行くよ。約束するよ。今日、来ることが出来なかった志のある村長さんにもロックンロールの力を届けようじゃないか。 あんまり書きたくないけど、主催者のお前ら、最高だよ。汗臭いけど。そして来てくれた人たち。ビューティフルだったよ。ほんとうにありがとう。 過剰な主催者と、会場に来てくれた人たちから¥34,881がプロジェクトに託されました。ううっ。ほんとうにありがとう。嗚咽。 ——————————————————— ところで、みなさんに質問です。全国の皆さんから僕は直接お金を託されるのです。ありがたいです。美しく重いです。で、その中には大量の小銭があったりもするのです。できるだけ迅速にプロジェクトに届けたいので、帰ったその足で銀行に行くのですが、ATMでは一度に硬貨は80枚しか入りません。時には何千枚もの硬貨があったりするので、けっこう難儀な作業なのです。銀行が混んでると、後ろから微妙なプレッシャーも感じるし。そんな訳で、大量の小銭を送金する方法、知ってる方がいらっしゃったら是非ご教授くださいまし。 ——————————————————– Messages for Soma City 120708 Kさん 41歳 東京都中野区 1988年頃、ボクが高校生だったとき、この街水戸で広瀬隆さんの講演に参加しました。自分の家も東海第三原発から10キロなので、恐怖をつのらせました。だけど、ずっとその問題を見て見ぬふりしてきました。今夜水戸で山口さんの歌を聴きながら、この20数年のことを振り返りました。フクシマのこと、相馬のこと、原発の問題のこと。じっと当事者として考え続けたいと思います。本当は当事者なのに、それに目を反らす自分のような人間がいるからこの世から差別が消えないのだと思います。「僕は変わりたい」と、今夜のライヴをみながら心の底から思いました。 Hさん 37歳 愛知県 被災された男の子の言葉にハッとしました。震災は”日常の思い出を奪った”。思い出だけは残るものだと思っていました。ごめんね,,,,,。かえってきて下さい。心があったかくなり、強くなれる思い出。 Fさん 38歳 茨城県水戸市 相馬のこと、他人事だと思ったことは一度もありません。相馬で食べたおいしい魚、満点の星空は大切な思い出の一つです。一日も早くまた水戸から相馬へ電車で行ける日が来ますように。これからも、ずっと相馬のこと思い続けて いきます。今夜、山口さんの歌をきいて再度強く思いました。 Cさん 39歳 茨城県水戸市 本当にまだ何も終わっていません。茨城にも原発があり、福島の事、他人事とは全く思っていないけれど、何もできない自分がいて、考えると辛いです。少しずつ前に進んで行きましょう。これからです。まだまだ負けない、元気でいましょう!! Kさん 30歳 茨城県 両親が岩手県出身、夫が福島県南相馬出身であること、東北にたくさんの友人がいること,,, 今回の震災は本当に他人事でなく、それ故に震災被害を考えると、哀しい想いが強くどこか目を背けている自分がいました。でも、そんな困難な現実に直面しながたも一日一日を懸命に生きている福島、東北の方々から逆に元気をもらい、これでは行けない!!何かどんな小さなことでも行動に起こすことを心がけて日々過ごしていきたいと思います。 Hさん 42歳 茨城県水戸市 ウチの会社にも福島から避難して来た娘が居ます。きっと未来はいい日だよ。 … 続きを読む

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