山口洋の10年。

3月9日 火曜日 曇り

僕がMY LIFE IS MY MESSAGEに参加したのには二つの理由があります。

1. 誘われたから。

誘った人間2人にこう云いました。「オレは0か100しかできないから、オレを誘うってことはどういうことか覚悟してほしい」、と。やるなら本気だし、やらないなら徹頭徹尾やらない、と。そしていつしか2人はいなくなり、オレひとりになった頃にはたくさんの仲間たちが支えてくれるようになっていました。来る者は拒まず、去るものは追わず。いろんなことがありすぎて、書けません。何が正しいのか、未だにわからないけれど、向き合わないよりはマシだと今でも思っています。

いちばん言われたくない人物に「誠実に生きろや!」と言われたことが、逆説的にものすごいエネルギーになっています。あれほどの屈辱は味わったことがない。でも、決して怒りとか恨みとか、そんなエネルギーではありません。その人物の傲慢さは赦せるけれど、ともだちでいるのは難しい。それだけのことです。ものすごくネガティヴなことは力に変えることができます。それが人間のできるいちばん素晴らしいことじゃないかと思います。

2. あの原発で作られた電気を使っていたのがオレだったから。

どうして僕が使った、たかが電気のせいで、人々は故郷を追われなければいけないのか。そのシステムと自分への怒り。それがエネルギーでした。

あれだけのことを巻き起こしておきながら、原発を輸出し、復興の名目で「おもてなし」を合言葉に五輪の開催が決まったとき、自分史上最大の怒りとともに絶望感を覚えました。いま、なしくずしで「人類がコロナを乗り越えた証として」五輪を開催しようとしていることも。

そんなことを簡単に許容する人間になるくらいなら、生きてる価値がない、と。自分に対して思います。間違えて欲しくないのは決してその考えを人に強要なんてしません。

そしてコ。

コに唯一いいことがあるなら。差別しないこと。

大統領であれ、セレブであれ、かかってしまうこと。そう考えてないと、さすがにやってられないっす。

リクエストはWALK ON THE WILD SIDEを。

高校二年のあの日から、ずっと胸の中で鳴り響いているからです。

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未来をつむぐために。

みなさんの”それぞれの10年”をメッセージにして、僕に送ってくれませんか。それを僕が3/13の宴会場のステージで代読し、曲を演奏したいと思います。人の数だけ、同じ時、でも違った10年があると思うのです。”それぞれの10年”が語られることで、未来がおぼろげに浮かんでくる気がするのです。

力を貸してください!

3月13日土曜日に行われる“東日本大震災復興10年「甦る」感謝の集い”、当日の模様は僕のインスタグラムのアカウントで中継する予定です。中継と言っても、いつものように、iPhone8ひとつで、ワンオペですが。詳細は追ってお伝えします。

―――

“それぞれの10年”はこのblogのコメント欄にどうぞ。木曜日いっぱいまで受けつけてます。

1. 名前(ニックネームで構いません)
2. だいたいの年齢、性別、お住まいの地域
3. ライヴで聞きたいHWの曲
4. “それぞれの10年”、その曲を聞きたい理由、メッセージ、質問、アイデアなど遠慮なくどうぞ!

 

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弱小NO REGRETS社、全スタッフでDVDセットの制作を開始しました。

今日は郵送パッケージ制作です。これに宛名シールが貼られ、山口洋の直筆サインが入って出荷されます。つまり山口洋から郵便が来た体(てい)の郵便アート。ほんとにハンコで押されているので、同じものはありましぇん。

ハンコを複数作るべきだったと。時すでに遅し。笑。

インクは3色あります。これでわずか500部。先は長いっす。

ひとつひとつ違います。カスレも味だと許してください。


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山口洋の10年。 への14件のコメント

  1. ヒマール より:

    1. ヒマール
    2. 50代、夫婦、山口県岩国市
    3. オリオンへの道
    4.地震からまだそれほど日もたたないのに、避難所には1個のパンを待つ人たちもまだ大勢いると報道されているのに、買い占めに走り計画停電に文句を言う東京に暮らしていることがほんとうに嫌でした。震災が起きたあとまで被災地に負担をかけ続ける東京。その負担を減らしたい、たった2人でも東京の人口を減らそう、本気でそう思って東京を離れ、実家のある山口県へ引っ越しました。「福島の人たちも引っ越して、新しい生活を始めればいい」、そのときはそう思っていました。

    岩国で店を始めて、近所の人と顔見知りになり、ともだちができ、店に来てくれるお客さんともおしゃべりする関係が築けてきて、初めて、福島の人たちの気持ちに思いが至りました。自分とたいせつな人たちが暮らす場所、そこを愛おしく思う気持ち、何が起きてもその場所「故郷」をを離れたくないと思う気持ち、そんな気持ちを実感するようになったのです。
    なにもわかっていなくて、気づくのが遅くて、ほんとうにすみませんでした。

    故郷へ帰りたいと願う人たちがいつか帰れることを、そして、新しい場所で暮らし始めた人たちにもうひとつ故郷ができることを祈って、「オリオンへの道」をリクエストします。どうぞよろしくお願いします。

  2. そばや より:

    1.そばや
    2.50代 男 宮城県
    3.プレシャス
    4.震災から10年、あの日は農協の金融窓口で被災し、その後子供達を帰し、JRからの依頼でトンネル内で緊急停車した新幹線の乗客764人の避避難所の対応に追われ、徹夜の作業。12日の午後に盛岡、青森、秋田方面へのチャーターバスを皆で見送り、ようやく我に帰った。そこからは長かったが。
    上咽頭ガンで放射線治療をし、妻子とも別れ、俺はどん底だと思ってたが、世の中がどん底になってしまった…そんな不謹慎なことを思ったりした。
    それでも、当時4歳だった息子は14歳になり、昨年初めて二人でキャッチボールをした。しかし、俺は腰椎圧迫骨折。下手くそ野球部員と骨折オヤジ。山羊座でO型の一人っ子との相手はまだまだ続く…。未来はわからない方がいい。先入観や思い込みは持たないで、素手で受け止めてやるよ。10年先の二人ために。あ、やっぱり、グローブもつけます…。

  3. 裕史 より:

    1. 裕史(ひろし)
    2. 50歳、男、静岡市
    3. Life goes on
    4. 僕はこの10年でうつ病になりました。(いきなりネガティブな話ですみません)
    はっきりとした原因やきっかけは思い当たらず、ある日布団から出られなくなり、何も考えられなくなって会社を休職しました。うまく表現できませんが、自分が普通で、日本全国民が本当はナニカの病気なんじゃないかと思ったりもしました。でも今では、オレうつ病だけど低空飛行でギリギリなんとかなってるよ、と笑えるようになり、うつを自覚できて良かったと思っています。
    こんな僕でもMY LIFE IS MY MESSAGEの活動を見聞きして、強く思うようになったことがあります。それは、嘘はつきたくないこと。誠実でいたいこと(僕の知ってる人で一番誠実なのは洋さんだと思います)。そして平等に思いやりを持っていたいことです。でも思ったようには全然出来ていませんが。
    なんか取り留めのない話ですみません。東北の事も書きたかったのですがうまく言葉にできませんでした。
    リクエスト曲はLife goes onです。布団から出られない日も、この曲の歌詞は僕をギリギリ繋ぎ止めてくれました。
    洋さんの歌が、誰かの日々に響いてることをファンの皆は知っています。いつもありがとうございます。

  4. くらぴん より:

    1.くらぴん
    2.47歳 男 東京都
    3.ゆきてかえらず
    4.震災から10年 思えば、2011年から2013年 ひーひー言いながら、知り合いの飲み屋のマスターが、福島出身だったので、チャリティーイベントをやっていました。
    とんでもない数の批判を受けながらも、やらない善より、やる偽善だと思い、なんとか自我を保ちながらやってました。
    その後、沢山の災害や、我々が直面した数々の困難。それにも自分なりに、出来ることをと向き合ってきたつもりです。
    そして、昨年からのコロナ… 人を集めることも出来ず。 ライブハウスや、飲食店を含む、友達たちの城が崩壊する現実。
    しかし、苦しんでいる人達を見て見ぬふりをし、偶像崇拝のように、大多数が、望んでいないオリンピックへ邁進する、政府と東京都。
    この国、いや、この世界は、いったい、誰のものなの? ここに暮らす人のためのものではないの? と思い。
    言葉になりません。 もう、どうでも良いやって思って時に、洋さんが、My life is My messageのライブで言っていた、

    『自分で不可能だと思わない限り、不可能なんてない!』という言葉を思い出し、とても励まされています。

    絶望することは、簡単ですが、諦めないことは、とても困難なことだと思います。 
    でも、諦めない先に、何か光があると信じて、これからの日々、自分に出来ることをして、過ごして行きたいと思います。
    上手く表現できませんが、震災からの10年は、この繰り返しだったように思います。

    乱文長文、失礼しました。

  5. しんご より:

    1. しんご
    2. 61歳 男 東京
    3. 灯り
    4. 私は、天と約束をして、酒もタバコも肉も断ち、世の中が少しでも明るく、平和で自由で平等になると良いなと祈りながら、大好きなドラムを叩く事を仕事にしてました。
    当然、依頼が来れば、仕事としてドラムを叩き、必要なくなれば、日雇いの身。
    一打一打が命がけであり、そして真剣勝負な世界。でも天と交わした約束は、自分の中軸であり、そこだけは外せない。
    そんな私の前に現れた彼は歌った。
    あえて天に触れようとする者は、もうこの世に。。。
    僕は君を憎む為に産まれてきた訳じゃ無い。
    ご覧あの街の。。。。。
    そんな彼の詩の中にある葛藤が、痛くて、切なくて、真実だった。

    打ち上げの席で、彼は酒に酔い、そして私の所へやって来て、
    何故、あなたがココに居るのか分からない。
    と言った。
    私は、すぐさま、席を立ち、ホテルに帰った。

    人生、様々。

    でも『灯り』

    好きです。

    怒りの門も好きです。

    やさしい人よ
    も好きです。

    明日の為に靴を磨こう
    も好きです。

    でも、何時か山の頂で、巡り合う日が来る事を、今も待っている私です。

    • 青森のロマンティック・ダンディ より:

      「何故、あなたがココに居るのか分からない」
      ひどいこと言うなあ。
      私も昔同じようなことを言われた経験があるので気持ちわかります(それも教師に、笑)。
      ・・・でも少しして、これってもしかして、あるテレビ番組で、立川談志がテツアンドトモに言った言葉と同じ意味だったのでは?と思いました。
      20年くらい前、新人のお笑い芸人コンテストみたいな番組で、当時人気が出始めのテツアンドトモが自分たちの芸を披露し、そのあとで審査員の談志師匠が放った言葉「お前ら、こんな所に出てくるんじゃねーよ」に会場は凍りつき、テレビを見ていた私も目が点になった。でもその後で談志が「いや、いい意味でだよ」と付け加えたので、皆ホッとして和やかな雰囲気にもどったのでした。つまり「君らの芸はもう完成されていて一人前なのだから、こんな新人向けの番組に出る必要はないんだよ」という意味だったのでした。

      もしかしたら、冒頭の言葉を発した方も、「あなたのようなベテランミュージシャンが、なぜ僕らのようなキャリアの浅いバンドにいるのかわからない、もっとすごいミュージシャンと組むことができるだろうに」くらいの意味だったのかもしれません。いや、真相はその本人でなければわかりませんが。
      最後になりましたが、「棘-the song of Hiroshima」における、ギターとドラムが互いに呼応して盛り上がっていく後半は、ヒートウェイヴ史上屈指の名演だとずっと思っています。山の頂での再開、私も見てみたいです!!

  6. Masako より:

    1. Masako
    2. 50代、女子、静岡県西部。
    3. それでも世界は美しい
    4. この10年。海に近い町は防潮堤がそびえ立ち、風景は一変してしまいました。自分たちを守ると言う名目のために。そして、自分自身との戦い。仕事も家の管理も近隣のお付き合いも気疲れが。生活することにやっとリズムが出来、再び音楽に出会ったことで、愉しみを見つけることが出来ました。
    震災のことは、言葉には出来ませんが、福島を応援したいけれど、どうしたら?そんな事もあって、MY LIFE IS MY MESSAGEの初めてのツアーに参戦しました。初めは何も知らず、音楽で、応援出来るのであればと思ったのがきっかけです。あの日、最後列から観た、山口洋さんとCHABOさんの演奏。「新・相馬盆唄」「満月の夕」を聴いたとき、心が震えました。
    そしてチャリティライヴで相馬に行けたこと。こうやって旅をして、東北を応援しよう。
    今は世界中が大変な時。みんなが互いに思いやり、出来ることをして環境を守り、何よりも前に進むこと。これからの未来を担う若者たちに少しでもよい世界を残さなければ。そして伝えていくことが大切なんだと思います。
    今年の3月11日はキャンドルナイトが開催されます。先日チャリティライヴにも行きました。こんな状況でも開催されています。どちらも10年続けられているそうです。MY LIFE IS MY MESSAGEもそのひとつですね。

  7. Kotoha より:

    あの日。翌日の午前中に近くのショッピングセンターへ行き、まだ専用の箱も用意されていないのでサービスカウンターの方に義援金を手渡ししました。自分が何をしたらいいのか分からず、そんなことしかできなかった。
    それからも特別な事はできなかったのですが、大きなプランターをいくつか買ってその年からベランダでゴーヤを育てました。少しでも夏のクーラーを使わずに過ごせるように、緑のカーテン。
    私が住んでいるエリアは海抜4m。地盤の高さの認識もありませんでしたが、区内のあちこちに海抜表示板が設置されました。マンションでは防災訓練が行われるようになり、エレベーター内には防災備蓄キャビネットを設置。なんの備えもしていなかった自宅の防災グッズも一つ一つ買い足してきました。
    遠くの私達も意識が変わりました。あすは我が身と。毎年少しずつですが、みんなあの日から学ばせていただいたことです。
    今回の集いの告知をしてもらった先週のインスタライヴの後、たまたま見ていた冊子の記事に〝山形県長井市〟の文字を見付けました。『産直米の産地でもあり、2014年野川小水力発電所から電力購入をスタート。原発に頼らない再生可能エネルギーの輪が広がっています』とのこと。この集いが無ければ、きっとこの大事なことにも意識が向かなかったと思います。
    1. Kotoha
    2. 40代、女、東京
    3. 『灯り』
    4. この10年私の日々も精一杯でした。自分のことだけ、目の前のことだけに向き合って必死だった日々。山口さんから教えてもらった言葉で言えば、おかげで〝空〟でした。なので、今があります。そしてこれからは、できた余裕は誰かのために。
    今は、それぞれの場所での生活の灯り、心の灯り。一つ一つが大切な命です。この曲を長井市の集いでみなさんと聴きたいです。

  8. タカノシンジ より:

    1.タカノシンジ
    2.50代 男 福島県南相馬市
    3.君を連れてゆく

    あの日、あの年から10年目を迎えます。自宅は津波の被害を免れたものの、緊急時避難準備区域に指定され、家族が避難でバラバラになりました。人がいなくなった市内は、ガレキが放置され、野犬がうろつき、商店やスーパーは一斉にシャッターを下ろし、走るクルマは、自衛隊車両とパトカー…。報道の役割があるはずのマスコミも一斉に逃げ出し、放射能が降り注いだ町は、真実が伝えられず、自分たちは国に捨てられたと感じていました。そんな絶望感マックスの中、あの年の12月にプロジェクトMY LIFE IS MY MASSAGEと出会いました。それまでの国からのメッセージは何一つ心に刺さらなかったのに、プロジェクトのメンバーや、全国から相馬に集まってくれたみんなが発する言葉は自分の心に真っ直ぐ刺さりました。もう一度、未来を描ける気持ちになりました。それから、吸い寄せられるように、当時立ち上がったばかりの「そうまかえる新聞」のメンバーに入れてもらい、相馬市と南相馬市の「今」を発信してきました。その後、これらのことをきっかけに全国のたくさんの仲間とネットワークができました。それは、今も自分のかけがえのない宝物です。

    MY LIFE IS MY MESSAGEが教えてくれたことは、人と人のつながりが奇跡を起こし、人と人とのつながりがなければ奇跡は起きないということです。何千年という人の歴史を振り返ったとき、すべてのことはたった数人の出会いから始まったのだと思います。自然発生的に人が集まって集落ができ、田畑を耕す人、狩りや漁を行う人、道を作る人、それぞれが得意なこと分担しながら、やがて学校や病院などができて
    町ができていく…。きっとそれが自然なことであり、自分たちのDNAの根っこに
    その潜在能力が残っていると思っています。一方、福島第一原発周辺の避難区域は、すべてがゼロになり、国は「復興」の名のもとに、今、躍起になってインフラやハコモノを作っていますが力を入れるところが違うような気がしてなりません。

    そうまかえる新聞は、現在次号を編集中ですが、メンバーと話し合い、これを最終号にする予定です。震災から10年目が経過する節目で、急激に何かが変わるわけではありませんが、自分たちも、腰を据えて地元の人たちと手を携えて新しい町を作ることにエネルギーを注ぐべき段階に来ていると感じているためです。もし、MY LIFE MY MESSAGEのプロジェクトがなかったら自分たちは今もそのような気持ちに持っていけなかったかもしれません。このプロジェクトを通じて全国の皆さんから受け取ったたくさんの思いを胸に、自分たちは次のステップに進みます。本当にありがとうございました!

  9. かまを より:

    宮城には学生時代に5年ほど住んでいた事もあり、震災後の4月上旬にボランティアで何かできる事はないかとテントと食料を車に積んで石巻に行った事を思い出しております。

    行ったはいいけど、初日はあまり仕事がなく山のように積まれた衣類の整理などしていました。ほとんどが古着で整理というよりは処分していたと言ってよいかもしれません。すこし複雑な気分になりました。
    2日目は被災した方からの依頼を受けて指定の住所まで行きました。半壊の建物にしゃがんでいる家主からの依頼はなんと「泥の中からレコードを掘り出してほしい」でした。きけば2階が住居で1階でロックバーを経営していたとの事です。しかし驚きました。私はレコードが大好きで、コレクターといえばそうなのかもしれません。とにかくレコード。CDには興味がありません。そして下北沢のとあるロックバーでアルバイトをした事もありましたから、もうこれは天啓だ!と思い無我夢中でレコードを掘り出しました。出てくるレコードは60年代から80年代のロック、パンクもあればレゲエもありました。かなりの枚数を掘り出したと思います。レコードやロックが好きなんだと家主に話すと、欲しいのがあったら持っていって良いというので、ペンタングルの日本盤をもらいました。水を含んではいましたがほとんど泥をかぶっておらずジャケットと帯が残っているものでした。
    後日レコードは洗浄されて、家主の店も場所を変えて再オープンしました。私も伺いました。頂いたペンタングルの日本盤はやっぱり石巻の店にあった方が良いと思い、返す事にしました。徹底的に盤のクリーニングとジャケットの修復をしましたが、やはりチリパチは残ります。このノイズは10年経った今も消えてはいないでしょう。

    あれから10年経ってしまうのが信じられません。ほんとうについこの前のような気がするのです。なんとなくこの心境に近いHWの曲は「千の夜」でしょうか。リクエストしてもネット環境がいまだ貧弱ゆえに見れませんが、「千の夜」を歌っていただければ幸いです。

  10. KUMIKO より:

    明日がくることが当たり前じゃないと思えた日。
    大きな被害に遭われた地域の皆様が
    どんな10年の歳月を過ごされてきたのかは、
    想像を絶することだと思っています。
    それは経験した人にしかわからないものだと。
    なので安易に私には言葉にできないですが、

    言い表せない程に耐えてきた感情を
    音楽で解放出来ます様にと願っています。
    泣けない人のために音楽があって良かったと思います。
    悲しみも喜びも。
    ライヴ楽しみにしています。

    1. KUMIKO
    2. 50代 女性 埼玉県
    3. 愛と希望と忍耐
    4.
    あの日から10年。
    自然がもたらす恩恵について強く意識するようになりました。
    人間が優先される事への懺悔のような気持ちは大災害が起こる度に強くなる。
    私は空を見上げる事が多くなりました。
    毎日、自然の恵みへの感謝を祈りのように念じています。

    YouTube拝見しました。
    長井市は家庭の生ゴミなどを堆肥化し畑に還元して農産物を再び消費する循環型社会を実行している街なのですね。
    自然を保護し、資源を再利用して循環させる。
    次世代に繋いでいく素晴らしい事業だと感じます。

    この街は古き良きものを新しいエネルギーに変えていく力強さと明るい未来が想像出来ますね。
    日本の原風景のひとつである水車も小水力発電のひとつだった様に「新しい小水力発電」も田園の景観に溶け込むものだと思えます。
    理想はこんな街で暮らしたい。
    訪れたい場所がまた一つ増えました。
    教えて下さり有難うございました。

    リクエストですが、愛と希望と忍耐の歌詞
    「諦めるのは 死んでからにする
    ロックンロールの魔法は永遠さ
    いつの日か君は 誰かの未来になる」
    壁にぶつかる度に励まされる曲です。
    お願い致します。

    あと質問です。
    山口さんは大型バイクの免許を取得するにあたり長井市を選んだ動機を教えて下さい。もしや自然エネルギーや循環型社会に取り組んでる事を存じ上げてたのかな?
    きっと導かれているような必然だった様に思えますね。

  11. ヨコチン より:

    1.ヨコチン
    2.岩手県盛岡市、♂、50歳
    3.Winter Sun
    4.最近この曲しかリクエストしてませんが、リフレインがどうしても頭から離れないのです。

    英語には、10年間という意味の”decade”という単語があるくらいなので、10年は一区切りとして考えるのに丁度いいスパンなのかも知れませんね。

    僕はどちらかと言うとリアルに被災した側の人間で、こうして改めて振り返ってみてもこの10年は明らかに「震災後」の10年でした。
    この機会にそんな日々や自分が今置かれた状況を改めて見つめ直すとその変化はごくパーソナルなもので、人の目に触れる場所にそれを開陳して何らかのメッセージにする事は出来そうにありません。そんな日々は現在進行形だからなのかな、作文は割と得意な方なんですけどね。

    若い頃、洋さんのように、多くの人と関わる生活をしようと一大決心をして試みた事が
    あったのですが見事に挫折、、それからは無理せず、少なからずいる自分の半径1mの輪に入ってくる人と丁寧に向き合うという生き方をしています。その方が性に合っているし結果も残せそうな気がしています。

    動画に出てくる浪江町ゆかりの人たち、みないい顔をしていますね。属性で何かを語る事は好きじゃ無いんだけど、あれが東北人の顔です。

    一言で東北、と言っても、その中には様々な地方が含まれます。太平洋側と日本海側とザクっと分けても、面積が広いので距離も相当離れているし、訛りや文化、気候、江戸時代の藩(明治維新の時に、幕府側と維新側どちらについたか、と言う違いも含む)までまるで違います←そういう事が現代でも根深く残っているのが田舎なんです。
    そんな土地に地域やコミュニティごと移住して暮らしている方たちがいる事を僕は知りませんでした。それがどんな困難を伴った事なのか、想像するに余りあります。同じ東北人として余計に。

    MLIMMの活動が、そんな人たちの心の支えになっていた由、素晴らしい事だと思います。

  12. かつらぎ より:

    談志師匠説に1票^ ^

  13. 堺のヒロシ より:

    1. 堺のヒロシ
    2. 56歳、オス猫、大阪府堺市在住
    3. 灯り
    4. この世にひとつしかないパッケージ❣️
    楽しみがまた増えました。楽しみにしてます。

    阪神淡路大震災のあと、東日本、熊本…大きな地震や自然災害がここ10年で幾度となく。。。
    大災害が起きるたびに心痛み、己の無力にうちひしがれます。MLIMMに関わらせていただくことでなんとか心の健康を保てたのかもしれません。
    その間、わたくしの仕事も多岐に渡り、スーパーの店員から、いまや保険募集人へ。人生何が起こるやらわかりません。新しい仕事に就くたびに、『意味のない経験などない』という言葉に励まされ、ここまでやってきました。何度でも出会いと別れを繰り返し…いつか見た夢を目指す…。満月の夕は、常に私の背中を押してくれる応援歌。3/13には、おそらく歌われるであろうと勝手に思っております、。
    なので、わたしがリクエストしたいのは、ヒートウェイヴとの出会いの曲、[灯り]です。
    あのとき、金沢にあの魔界がなかったら、あのハコでこの曲を聴かされていなかったら、いまの自分は存在しなかった。あの地下へと続く階段を、勇気をふりしぼり降りていった自分へのご褒美に?どうぞよろしくお願いします。
    (=^ェ^=)♪

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