7月9日 土曜日 晴れ
誤解を恐れずに書けば、内臓を引っ掻き回されたような気持ち悪さがある。それは世界というよりは社会に対してのもので、そこに自分も属せざるを得ないことから発生してくるものだと。
浮世人にでもならない限り、そこから離脱するわけにもいかず。スルーすることも可能だけれど、それがいいことだとも思えず、前に進むために書くことにする。
同じ気持ち悪さを感じたことがある。それは僕が南青山に棲んでいたときで、家から数百メートル先、報道陣の目前でオウムの村井という人物が刺殺されたときのこと。あのときのオウムはなにがなんでも悪。1000000%悪という空気に満ちていた。それは個人的に耐え難いものだった。お前はそんなに正しいのか?たいせつはことは彼らを凶行に走らせた、その動機の解明なのであって、そこには少なからず自分も含めて、時代が絡んでいるのに。ただ単にオウムに憎悪を向けることで、自分の感情を処理してしまう単細胞さが許せなかった。いつだって、それは自分の問題なはずなのに。
我々がやるべきことは、二度と同じことを繰り返さないために、なぜあの寵児的モンスターが生まれてしまったのか。そのことを自らの反省を含めて解明しなければ、それこそ死者は浮かばれない。けれど、モンスターをなるはやで死刑にして、それですべてを終わらせた国民、そして政府に僕はかなり絶望を感じた。もう真相は二度とわからない。
それが気持ち悪さの正体。
昨日、暗殺された人物がやってきたことのほとんどを僕は評価しない。たとえば彼が原発がアンダーコントロールだと言ったとき、ほんとうに身体じゅうの血が沸騰するのを感じた。けれど、だからと言って殺されていいわけがない。書くまでもなく、彼のこれからの人生も僕らと等しく尊重されるべきで、なんとか助かってほしい、死なないでほしいとこころから思った。
もし死ぬようなことがあれば、美化されて見えなくなるものがある。そんな意味でも生きてほしかった。
社会党の委員長、長崎県の知事。かつて首長たちに向けられた怒りは書き方はどうかと思うがイデオロギーという意味においてわかりやすかった。社会的背景も。でも今回はおそらく個人的な恨みであること(宗教的背景は警察が公表しないだろう)。自作した凶器(!)によって凶弾に倒れなければならなかったこと。なおかつ、どう見ても、警備がずさんだったこと。いろんな意味で時代を感じるし、複合的に事象が重なって不幸が起きたとしか思えない。
気持ち悪さを抱えたまま。夜は街に行く用事があった。街は若者で溢れていて、どこの飲み屋も満杯。響き渡る笑い声。道にまで人が溢れている。彼らのその気持ちを否定する気にもならない。じゅうぶんに青春はコロナによって虐げられた。感染者が増えるのも仕方ないさ。でも、報道と目の前の光景のギャップに、令和の闇を感じたのも事実。
遺体には「ご」がつくらしい。僕はテレビは見ないけれど、すでに彼の功績が語られ始めた。
彼の死を悼みます。こんな死に方があっていいわけがない。
そして、我々がやるべきことは明日「投票」という誰も傷つけない弾を未来にむかって自分の意思で撃つことだと思うのです。
じつに熱量があり心を揺さぶられる名文です。
正直なところ、昨日の事件から、まだ心が動揺しています。
いろんな想いや考えが交錯して、うまくまとまらない。
でも、山口さんのブログを読んで、共感する部分も、多くありました。
私も、明日、私たちに与えられた大切な一票を未来に向かって投じて来ます。
私の心のもやもやを洋さんが文で表現していただいたと思います。ありがとうございました。昨日期日前投票に行ってきました。少しでも良い世の中に貢献できればと願ってます。
全くもって同じ気持ちです。