日別アーカイブ: 2012年12月27日

原点に戻ること – イベントを終えて#1

12月27日 木曜日 晴れ これから数日かけて、12/23に行われた相馬市でのイベントのことを書きます。表現はどうかと思いつつ、これを語ることは「ベント」に近い感触があります。吐き出さなければ、僕らが窒息するという意味ではなく、現地の心の闇や、どうにもならない現実は既に飽和状態に陥っているのに、全国的に云えば、もはや終わったことのように物事が進んでいく、そして闇はとんでもなく深い、という意味で。また放射能という怪物がこの状態を作りだした、あるいはあぶり出したと云う意味において。 知ってしまったことを、知らなかったと僕は云えません。 ただビューティフルにイベントが終わった訳ではないことを、応援してくれた人々に伝えなければならないのが残念です。もちろん言葉は選びます。そして、誰がを傷つけたくて、書いている訳ではないことだけは理解してくれると嬉しいです。 —————————————————————————— まずはビューティフルな眺めから。 北海道から九州まで、全国の気持ちがそこに還流していました。確かにそこに愛はあったのです。僕は今年の前半に数ヶ月かけて、全国を廻りました。そこから還流したものが街に届いていて、街の人々や子供たちが目につく形で掲示、あるいは食材であれば調理され、人々の心に伝達されました。 何と云っても、出演してくれた子供たちの表情が素晴らしかった。大人数の前で歌うことは彼らにとって冒険だったと思います。それでも堀下さゆりの並はずれた努力と情熱のもと、プレッシャーを乗り越えて、エネルギーを街に送ってくれました。 照明が暗転して、HWは容赦なくロックンロールの嵐を吹かせました。耳を塞いでいる子供も居ましたが、この音楽はどんな時も、僕らが信じてきたものなのです。5年後に「あれはいったい何だったんだろう?」。そう思ってくれる子が一人でもいれば、それでいいのです。 最後に出演してくれた「なりキり座」。アニメ、「ワンピース」に基づく劇を披露してくれました。僕はステージ脇でずっと観ていましたが、方法は違っても、ステージに賭ける気持ちは僕らとまったく同じです。本気と書いて、マジ。 恥ずかしながら、僕はその大人気アニメをまったく知りませんでした(なりキり座のメンバー、スタッフから全68巻プレゼントされたので、今読んでます)。でも、夢を忘れず、仲間を信じて、冒険の海へ繰り出していくストーリーだと知ったとき、堀下の持つ力、HWの持つ力、劇団(アニメ)の持つ力。要するに3種類の「大人の本気」を子供たちが観てくれて、そこに参加してくれることで、将来へのヒントを見いだしてくれるのではないか、と夢想したのです。簡単に書けば、どんな状況であれ、未来は自らの手で切り拓くものだということに気づいてくれるきっかけになれば、と。 美しかった光景は他にもたくさんあります。多くは80人まで増えたスタッフに関することです。でも、それは個別に伝えますから、ここには書きません。ひとことだけ。本当にありがとう。みなさんは無償の愛を見事に還流させてくれました。 ——————————————————————————– あの日から、何度もこの街でイベントをやってきました。対象はじじばばだったり、ハンディキャップを抱えた人たちだったり、音楽ファンだったり、子供たちだったり、いろいろです。 街が復興すればイベントも不要なのです。逆に云えば、何をやったとしても、街が復興しない限り「達成感」なんてある訳がありません。 ただし、これまではある種の「充実感」だけはあったのです。終わった直後だけは。もちろん今回、誰が手を抜いた訳じゃありません。構想約1年、実働7ヶ月、今までのイベントの中で、一番ややこしくて、面倒で、難題をたくさん抱えていました。人出も金も想いも努力も足りません。そのひとつひとつをみんなの情熱で乗り越えてきました。辞めたいと云った人間には「君じゃなくて誰がやれるんだ」と云いました。主要なメンバーを集めて「撤退するなら今しかない」と云ったこともあります。情熱だけではどうにもならないこともたくさんありました。ガッツで引っ張ることには何の意味もないのです。これは街の人たちが街のために催すイベントであると同時に、ようやく街の人々が全国に想いを還流させるイベントでもあるのです。ハードルは高かったのです。これまで以上にみんなが全力を尽くした「はず」なのに、、、。多かれ少なかれ、イベント終了後、関わった人たちのそれぞれの心の中に、ほぼ同じ想いがあることだけは分かりました。 僕は今まで街の不利益になるようなことは一切口外してきませんでした。でも、それ自体が不利益をもたらしている部分もあります。僕は今回、それを伝えることを選びます。でなければ、未来は更に遠くなります。もう一度書きます。誰かを傷つけることが目的ではありません。 僕は自分が分からなくなったとき、いつも原点に戻ります。僕にとってのプロジェクトの原点とは「福島で作られた電気を僕が使っていた」ってことです。それを作っていた原発が爆発して、人々が苦しんでいるってことは今も以前も「僕の問題」なのです。ただ、それだけです。ヒジョーに個人的で、かつ社会と嫌なくらい濃密に関わっている「僕の問題」なのです。そこから逃げることは、自分のLIFEを放棄するのと同じことなのです。あくまでも、僕にとっては。 ある脚本家がこのような話をしていました。 「富士山に登ったという人の殆どが5合目から登っている。でも、そこは標高2400メートルで、実は1000メートル弱くらいしか登ってない。ほんとうに登るってことは駿河湾に足をつけてから登るってことだと思う」と。 彼が云いたかったのはこういうことです。裾野は広大です。5合目からの円周はそれに比べて当然狭い。海抜ゼロから登ること(富士山は比喩で、LIFEのことっすよ、云うまでもなく)で、周囲の風景の変化を知り、成り立ちを知り、広大さ、巨大さ、困難さを知ることになる。それが登山(LIFE)の意味じゃないか、と。 今回のイベントをやるにあたって、僕は海抜0メートル(行動の原点)に何度も戻らなければなりませんでした。で、なければ分からなくなるのです。何もかもが。巨大な闇は僕のような一匹狼が手に負える相手ではないのです。だから、原点に戻り、もう一度自分の気持ちを確かめ、そして仲間と共にまた登るのです。自分の本能と直感を信じ、ワンピースのように仲間を信じて。 今日はここまで。(つづく)  

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