日別アーカイブ: 2016年2月6日

day #024 ジギー・スターダストとダイヤモンド・ダスト

2月5日 金曜日 晴れ 昨日とうって変わって、今日は真面目な話を書こうか、と。難しく考えなくていいけど、まぁ、そんなつもりで受け止めてくれたら、嬉しい、かな。山の中で、ずっと考えてたことだから。 —————————————- きっかけは、デビット・ボウイの不在が、ボディー・ブローのように効いていること。自分でも意外な反応に驚いている。どちらかというと、若い頃は彼をトリック・スターのように感じて、あまり好きではなかったし、彼より好きな音楽を創る人はたくさん居たわけだから。 アーティストと呼ばれる人はエゴの塊であることが多い。僕も含め、ほぼ社会不適格者。自身と社会との軋轢が曲を産みだす。いい曲を書いてナンボなのだから、性格が良い必要なんてない。若い頃、僕もそれを激しく自覚していたから、まぁ、そりゃぁヒドかった。あの頃の山口洋を僕は人として認めない。あいつはクズ以外の何者でもない。(笑) 僕の人生に決定的な影響を与えたルー・リードは、最後まで人としてクズだった(褒めてます)。僕は彼の音楽が大好きだけれど、人として尊敬はしなくなった。クズだから。ヴァン・モリソンは紹介してやると云われて、断った。僕は一生彼の音楽のファンでいたいし、知り合いにはなりたくない。会えば、幻滅するのが分かりきっているから。ディランもしかり。ぜんぜん会いたいと思わない。これは悪口ではないのだよ、誤解なきよう。僕はアーティストとして(最近、敢えてこう表現するようにしてる)分かってきたことがある。例えばジョー・ストラマー。僕は彼を人として尊敬している。ミュージシャンである前に、人として素晴らしいから。自分のことより先に人を思いやれる人だから。加齢とともに、僕の中ではその方が尊敬に値するのだ。 自分の行動が社会にどうファンクションしているのか、そこにフォーカスしているかどうかが、僕にとっては大切なのだ。たとえば、政治的な発言を繰り返し、スローガンを掲げるのが大好きなミュージシャンに限って、自分の集団の中に決定的なヒエラルキーを作っていて、のさばっていたりする。哀れな奴。やがて、その態度が音楽ににじみ出て、最後に自分がその矛盾に苦しむことに気づいていない。それは、社会にまったくファンクション(機能)してるとは云えない。井の中の蛙、大海を知らず。小さすぎる。 みなさんの仕事に置き換えるなら、自分の仕事(家事も含む)が社会にどうファンクションしているのか、役に立っているのか。それを実感として感じられていることを大切にして欲しい。あるいは、それをイマジンし続けて欲しい。目先の金より、その実感を増やしていくことが、社会を良くするし、それが僕はアーティストの使命だと思っている。 話をデビット・ボウイに戻すね。彼は才能のある人物をたくさん再生させてきた。たとえば、今、清原を再生させた感じに近い。そんなリスキーなこと、やる人、日本に居る?居ないよね。ただ、匿名で彼をバッシングするだけだよね。でも、清原には偉大な才能がある。そこを見据えて、行動できる人なんだよ、彼は。清原が再生することは人間の特技である「失敗してもやり直すことができる」ってことを証明することで、それには過度に糾弾して彼を社会から抹殺するのではなく、原因(殆どは愛の欠如によって起こる)を究明して、二度と繰り返さないよう今後に生かすことだと思うんだよ。それが愛で、思いやりだと思うんだ。僕はそういう人をこころから尊敬したい。子供は見てるよ、大人の行動。 いつだって「自分のことより先に人のことを考える」。たったこれだけのこと。僕はそれができる人を見たことがない。口では云っても、誰もできない。僕はそういう人になりたい。そういう人を増やしたい。たとえ、アーティストとして失格だったとしても。デヴィット・ボウイは知る限り、いちばん近い存在だった。ジギー・スターダストとダイヤモンド・ダスト。人間としての理想を教えてくれた人。あとは残りの人生をかけて、自分がやるだけだよ。    

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