7月13日 月曜日 晴れ
思い返してみると、物心がついたときにはすでに新興住宅地に住んでいて、東京に出てきてからは流れ者で、定住したことがなく、いわゆるSMALL TOWNには住んだことがない。無理にカテゴライズするなら、今生息しているエリアは、そう呼べなくもないけどね。とにかく何処に行こうと、安息の場所なんてものはなかったし、これからもないと思う。
20代、遂にこの国が耐えられなくなって、NYに脱出して、初めて街を歩いたとき。自分で居られることが嬉しかった。どれだけはみ出していても、オレはオレのままでよかった。3日間、歩けなくなるまで歩いてたよ。ほんとうに嬉しかったんだね。今だって、異国の雪山に一人で居るときに自由と幸せを感じる。
SMALL TOWN。
震災後、「SMALL TOWNの流儀」みたいなものがまったく理解できず、ドえらい苦しかった。きっと相手も僕が何を云ってるのか理解できなかっただろうけどね。4年もかかって、ようやく見えてきた。書き方を間違えると、面倒なことになるから、わざとボカすけど、あのように生きなければ、町では生きていけないんだろうね。僕のようにはっきりモノを云い、とことんやろうとするのは自殺行為に等しいんだろう。でもね、「郷に入りては従え」って、あまりにも人として無責任なことに「イエス」とは云えないよ。たとえそれが流儀でも。
で、うんざりはするけど、絶望もしない。僕には音楽があるしね。理解しようと思うし、割り切れない想いは音楽に転化させよう。難しいよ。やりがいはあるけど。ある種のファンタジーにするのは。
Facebookに馴染めず、やることもないけど、ひとつだけ、欠かさず見てるのがある。SMALL TOWNに住む、マブダチのFacebook。日々の何てことないことが写真と共に載ってるだけなんだけど、いいんだ、これが。まず、自己顕示欲で書かれてない。くだらなくて、情けなくて、季節感があって、どうしようもなくて、アホで、でも奥底に深い愛とガッツがあって、じーんとする。短編小説とか、曲みたいなんだよ。ってことは、結局、そいつの志が何処を向いてるかだけじゃん、何処に住んでたって。笑。でも、厳然としてあるんだよ。「SMALL TOWNの流儀」。物事を突き詰めるほど、露呈してくるやっかいなやつ。そもそも突き詰めることを拒否されるし、薄っぺらい付き合いが好まれることも分かっちゃいるけど、そんなことにつきあってるほど、人生は長くない。
ま、永遠の課題だね。でも、こういう部分を狡猾な連中にいいように利用されて、札束で頬をはたかれて、原発は作られ、再稼働される訳で。無視できないのが面倒くさい。
ぜんぜん関係ないけど、読者のコメントを読んで、突然思い出した。若い頃、漱石の「こころ」に「精神的向上心のない者は馬鹿だ」ってくだりを発見してね。読んだ瞬間、目の前に道が拓けたんだよ。ひかりの道みたいに。あれは、今でも道だよ。僕にとっては。
自意識過剰や自己顕示欲の罠にはまっている人を観ると痛いですね。と、他人事じゃないか自分も気をつけねば。自分の書いた文章を翌朝に読んでみると恥ずかしくなるとき多々あります。羞恥心が大事ですね。
僕にとっては山口さんのブログを読むと、光の道が拓ける感覚があります。
昔、ビブレホールの楽屋に書きなぐってありましたよね。
「精神的に向上の無い者は馬鹿だ」
有り難かったです。
スモールタウンの流儀、、島根の田舎に住んでたのである程度分かるつもり。
でも地の人(そこに土地を持って暮らしてる)ではなかったので、
本当にはわかってないのかもしれません。
(地元の先輩が自殺した際、たまたま地の人の家に泊まりにいっていて、
ニュースがそれこそ走るように家から家へ拡散していく様子を見て慄然とした
記憶はあります。)
今住んでいる広島にも原発事故のあと
避難してこられ知り合いになった方がけっこういます。
もう無条件に尊敬する。
たとえば自分の近県の原発(島根や伊方)が爆発したとして、
じゃあ自分だったら即座に家も職も捨てて避難できるかっていったら、
そう簡単にはできないと思うのです。
ましてやスモールタウンでがちがちにしばられてたら、、
でも、そういう流儀にしばられてる人は、どこかで断ち切ってほしい。
縁は、行った先でも作れるのだから。
そんなことをちょっと思いました。(まとまりなくてすみません)