0月17日 月曜日 曇り
親にどんな愛を注がれたかってことが、子の人生に甚だ影響を与える。
兄貴分は全米の少年死刑囚の写真を撮っている。犯罪の背景には必ず愛の欠如があって、なんとも言えない気持ちになる。どうにもできなくて、悲しすぎる。だけど、自分は無力だとは言いたくない。
自分に照らし合わせてみても、よくわかる。誰もが知っている偉大な母を持つマブダチと、海を見ながらこう話したことがある。
「オレたちさ、ぎゅっと抱きしめられたかっただけだよな」。それ以上の言葉は必要なかった。こころの奥底で互いにほんとうにそう思っていたからで、男子たるもの、こんなこと、おいそれとは口にできない。笑。
DVの環境で育った子供が親になったとき、無意識に自分の子供にDVしてしまうこと。抗えない血はとってもやっかいだと思う。
でも。抱きしめられたにせよ、そうじゃなかったにせよ。自分のLIFEを創るのは自分。親を教師としても、反面教師としても学ぶことはできるはずだから。自分がそれを乗り越えられたと思ったのは、徹底的に母親を看護して見送ったあと。世界に無償の愛がなくなって、呪縛からも解放されたとき。恥ずかしながら、うちのクソ母親に「産んでくれて、育ててくれてありがとう、愛してるよ」と伝えたとき。彼女は「あんたには負けた」と言った。此の期に及んで、断じて勝ち負けではないんだけど。笑。
で、ようやく愛の意味が少しわかった気がした。求めなければ得られる。期待してはいけない。ちがうな。えっと、それは注ぐものであって、受け取るものではない。
どうしてこんなことを書いているのかと言えば。身近にそれと格闘している人がいるから。表現悪いな、共生しようとしている人がいるから。それに気づいているのに見ないふりをしている人がいるから。
善悪じゃないと思う。どんな生き方だってあっていい。向き合うも向き合わないのも自由。でも、ここは大きなポイントだってことは間違いないと思う。死ぬほど面倒臭いけどね。
僕がショーン・ペンの映画を愛してるのは、彼が一貫して「魂の救済」について描こうとしているから。傷ついていない人間なんか、いない。そんなの人間じゃない。「赦す」ってことは一生かけてでも、向き合う価値があると、いつもショーンから教えられている。
時間がないのでひと言。
あーめん。
自分の場合はDV・依存症の挙げ句亡くなった父でした。彼なりに愛情を注いでいた事も分かっていますが、自分は負の連鎖は断ち切ると決め、息子も成人となりました。
ショーン・ペンの映画、早く観たいです。
仕事で刑務所や少年院を出た方のやり直しのサポートをしています。
webから消えてしまって残念ですが、「再生の歌は鳴り止まない」の記事を読んで、自分の仕事を見つめる時、この歌が相棒のように寄り添ってくれます。
「ぎゅっと抱きしめられたかっただけ」
彼らと接していて、この言葉にとても共感します。
今も昔も片隅にいる、家も金も失った若者たちが、愛をやり直すことのできる世の中に。
土曜日の岡山でのライブ参加します。「君を連れてゆく」のカバーが聴けたら嬉しいなと思いますが、そんな贅沢はなくても、ただライブが楽しみです。
なんであの時もっと寄り添ってやれなかったのかな。そうできていれば家族がバラバラになることはなかったかもしれないのにな。長い年月の中で許しがたいこともあったけれど、もう家族で憎しみ合うのには疲れたし、もうこれ以上失いたくない。僕はHEATWAVEの音楽とこのブログに出会えて大切なことに気付けてほんとうに良かったです。取り留めのない文章ですみません。今日のブログ、書いてくださってありがとうございます。
憎しみにフォーク 悲しみに愛のスプーン すくって一緒に食べてしまおう きっと半分になるから