日別アーカイブ: 2022年1月17日

伝えておきたいこと

1月17日 月曜日 晴れ 毎年、この日がくるたびに。 あの歌が流れていましたよ、とか。いろいろ。 もちろん、想うことは山のようにあります。でも、この日だけではなく、決して忘れることのない風景なので、この日こそ静かにしておきたいという気持ちもあります。 とはいえ、あまりにいろんなことを尋ねられるし、間違って伝わってることもあるし、僕からみたあの日のことをきっちり伝えておきたくて、連載していたwebメディアに数年前、渾身の力で描きました。 webなら後世まで残ると信じていた僕が甘かった。 そのメディアは某メジャー会社が運営していたのですが、方針転換により廃止、削除の憂き目に。 さっき、散歩しながら思ったのです。自分のblogに載せておけばいいじゃん。笑。 僕が生きている限り、この記事は削除しないので、いつでもここを参照してください。著作権は僕にあります。リンク、転載も自由にどうぞ。体験の公共財だと思っていただければ。 この記事がアップされたとき、クレームもありました。知っている(見聞きした)事実と異なる、と。あんたはアホか。これは僕が経験した、僕の記憶なんであって、それが100%正しいなんて言っていない。ただ、180%の誠実さをもって描いた。それがわからんのか!言いたいのはそれだけです。 忘れていいことと、そうでないこと。 それは毎日のことだと思っています。 forgive me, I’m sorry, thank you, I love you.     —————————————————— 満月の夕 (前編) こんな存在の歌になるなんて、思ってもいなかった。 リリースしたら、歌はもう自分のものではなくなる。ふ化したあと、大海へと漕ぎだす鮭の稚魚のように。成長して戻ってくる歌なんて、ほんのわずか。人々のこころという未知の大海を泳いでいく歌たちが、どんな旅をしているのか、僕は知らない。どれだけ歌を書いても、それだけは分からない。 「満月の夕」は僕にとって、そんな稚魚のひとつだった。違うことがあるとするなら、独りで書いたのではないということだけ。リリース後しばらくして、いろんな人たちがカヴァーしてくれるようになってからも、この歌をクローズアップされることが苦手だった。忘れることができない、あの焼け野原の風景に向きあうことは、正直しんどかった。それゆえ特別な理由がない限り、この歌について語らなかったし、歌うこともなかった。 けれど、この歌は作者の手に負えない存在になっていった。ある種の公共財のように。人々によって歌い継がれ、南米で、北米で、イラクで、沖縄で、日本や世界のあちこちで歌われていると聞いた。苦難に陥っている人々を励ましていると聞いた。 こうなると、稚魚の思いもよらぬ成長によって、こちらが教えられるという不思議な現象が起きはじめる。あまりにも多くの人のこころを経由しているから、こちらは太刀打ちできず、取り扱いに困ったりもする。 たとえば、とある場所で、とあるヴァージョンが流れていたので、「それ友人と書いたんです」と云ったら誰も信じてくれない。たとえば、この歌を映画で使ってくれた監督にパーティーで会ったので、お礼を云いに行ったら、初対面なのに首を締められ「お前か!あれはな!いい歌だ!大事にしろ!」と云われたりもする。 作家として最高の栄誉があるとするなら、たとえば100年後にこの歌が歌われていることだ。傷ついた誰かのこころに寄り添っていることだ。だから、誰が書いたか、なんてことは本質的にはどうでもいいのだけれど、一度だけ、パブリックな場所で、きちんといきさつを記しておきたい。というより、僕自身がこの歌に向きあっておきたい。歌い継いでくれた人々に感謝を込めて。 あれから22年の時が流れた。事実とは少し違うことがあるかもしれない。でも、僕はドリーマー。過去だって創造することがある。それは捏造ではない。お許し願えれば、と思う。 前置きが長くなった。話を始める。 1994年冬。バブルの終焉とともに、バンドブームは「バンド焼け野原」と姿を変えていた。そのブームもまたバブルそのもので、個性と実力のないバンドはほとんどが淘汰されていった。そして、焦土の中、いくつかの骨のあるバンドが生き残っていた。そのひとつが中川敬が在籍していた関西のソウル・フラワー・ユニオン。彼はじゅうぶんに興味をそそる希有な存在で、焦土の中にギラギラと背筋を伸ばして立っていた。 僕はその頃、半分は日本に居なかった。この国が息苦しくて、世界のあちこちを旅していた。中川はそれに批判的だった。「もっと現実と足下、見た方がええで」。いい組み合わせかも、と僕は思った。 真剣に向き合ったなら、化学反応が起きるか、良くない爆発が起きるかどっちかだろう。僕もじゅうぶんに面倒くさかったし、いちばん面倒くさそうな男と組んでみることにした。互いに若かったし、刺激にも飢えていた。 関西にある中川の家に僕は出向いた。土産代わりにラフなメロディーを抱えて。それはいつか友部正人さんに投げかけたくてキープしていたものだった。中川は三線、僕はギターという形で共作が始まる。くだんのメロディーを中川に投げかけると、「あかん!手癖や」。そして彼は隣の部屋に消え、数分でメロディーを作り変えて戻ってくる。それを受けて僕も作り変える。やりとりは数回に及んだと思う。 やがて、僕らはメロディーをループして演奏し始めた。こういうとき、三線とギターという組み合わせは都合がいい。中川がメロディーを、僕はコードを弾く。そうやってAメロとイントロとブリッジ部分が出来あがった。時間にしてわずか20分くらいのことだったと思う。濃密だった。2人の個性が凝縮されたメロディーとコードができた。そして、このAメロにはサビが不可欠だと意見が一致した。 … 続きを読む

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