日別アーカイブ: 2012年5月19日

「まだやってるの?」の衝撃

5月18日 土曜日 晴れ   都会で見えてくるもの、地方に足を運んで見えてくるもの。そしてこのド田舎で浮き彫りになるものは、それぞれ違う。良いとか悪いとか、そんな意味じゃなくて。  僕は山の中で人とつき合わない。1人になりたいからだ。以前は近所(と言っても、1キロ向こうの人とかそんな感じ)の移住者たち(多くは団塊の世代)と交流があったが、彼らの殆どは、ここで新たなトラブルを抱え、あるいは起こし、去っていった。理由は年下の僕から見ても明白だった。この自然の中では、他者をまず思いやれない者は淘汰される。それだけのことだ。批判する気はないが、悠々自適の生活を送ろうとして、都会の論理を持ち込み、そこに小さな軋轢が生まれ、やがて修復不能なものへと変化する。「田舎生活」なんて夢を煽るマスコミにも責任がある。そんなに簡単なものではない。エゴは自然の前では通用しない。  ここは国立公園の中に位置していて、すべての対応が遅れている。僕とて税金を払っているが、ゴミの収集をしてくれたことなんて一度もない。だから、ゴミを極力出さないように気をつける。最近、このエリアに地デジが来た。何だか、ぷーんと匂うものがあった。数キロ範囲に数軒しかないところに地デジが来ることがおかしい。ゴミの収集さえ行われないのに。  聞けば、国とNHKが金を出し、整備するのだと。ザッツ「補助金」。田舎でその名称を何度聞いたことか。額にして約1000万円。そのうち視聴者は年額1万だったか2万だったかを支払う。見返りとして、NHKへの加入がほぼ強制的に求められる。何だか、生理的にどうしようもなく気持ち悪い。this is 日本の縮図。テレビを視聴することはこのエリアの人たちにとって念願なのだろうから、そこまで軋轢を起こすことはなかろうと、僕もその金を払うことにした。ただし、地デジを観る気もないし、そのテレビを買う気もないのだから、NHKの受信料は払わない。当たり前だ。「補助金」によって引かれたケーブルは、僕の家の近くにぶら下がったまま。多分、永遠に僕の家に引き込まれることはない。無駄の極致。  とか言ったことがトラブルの元になる。くだらん。事を真偽をただそうと、近所の人がやってきた。彼もまた悠々自適組。僕は彼に出会ったら挨拶する。そのようにつき合ってきた。人間として、ただフツーにだ。半年以上前に、立ち話をした。自分の近況について聞かれたので、僕は東北のことを軽く話した。今回もその話になったので、「できることをやっているので、なかなかこちらに帰ってくる時間がないんです」と伝えたら、彼は「まだ、やってるの?」と言った。僕にはこの言葉が衝撃だった。「まだ、やってるの?」とはいったいどういう意味なのか。彼にとって、それは確実に過去のことなのか。それとも、僕の行動に対する彼なりの意見なのか?間違っても、それは褒め言葉のニュアンスではなかった。真偽をはかりかねたが、議論に意味があるとは思えなかった。分かれしな、彼は「たまにはテレビに出ないの?」と田舎で良く聞く台詞を僕にぶつけて、去っていった。何だかなぁ。ますますテレビを引く気がなくなった。  僕は彼を批判しないし、その権利もない。自分の生活を守る。それはそれで素晴らしいことさ。でも、これは大人が語った言葉で、自分さえ良ければいい。その集積がこの国を作って、そして見事に崩壊しつつあるのだ。それが僕の実感だ。田舎には「結」の精神があったはずで、それがなければ圧倒的な自然の力に淘汰されたはずだ。その精神を学ぶことなく、エゴで生きているなら、いつかそれが刃になって自分に向かってくる。そのことに気づいている人はあまりに少ない。もっと謙虚になれ。見返りを求めることなく、誰かに愛を注ぐことは、自分に愛を注いでいることでもある。忘れた頃に違う形で返ってくることもある。相馬が僕に教えてくれたことはそのようなことだ。得るために求めるのはエゴだ。求めないからいつか得られるのだと僕は思う。

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