ボーダー

8月15日 火曜日 曇り 

 夢とうつつと現生と。かつて某国の砂漠で経験したような、自分の外側に実在する宇宙と、内包する宇宙の境目が不明になる感覚。

 はっきりとそこにボーダーを引くのではなく、ぼかしていくと、両方に行き来できて、それらは同じものだと思えてくる。

 夜中に目を覚ますと、蒼い空に巨大な合歓の木が揺れているのが見えるのです。極度の近視なので、メガネを外していると、フォーカスがボケて、ほとんどこの世のものには見えない、というか。それが悪くない。

 その瞬間に聞こえてきたものを書き留める。それはオレがひとりで書いたものではぜんぜんなくて、うまく響きあったなら、なにかがもたらされる。ただのメッセンジャーなのかな。

 こんな山の中に水道なんてあるわけもなく。いつ降った雨かわからないけれど、そうとうな時間をかけて山に染み込んだ雨が濾過されて、泉になって湧いてきたものを引いています。飲むのも水浴びするのも、風呂に入るのも自然のままの水を使っていると親和性が出てくるというか、肌の感じも変わってきます。なんというか、その。プリミティヴになる。やっぱり塩素はあんまりよろしくないってことがわかる。

 音楽ってたとえ人工物だったとしても、そこから離れている方がエヴァーグリーンな響きを内包するんだと思います。

 どうやって、そんな世捨て人(ひどっ)、あるいは浮世人みたいな暮らしができるのかって?でも、まぁ僕みたいな人間は周囲からそう不思議がられてる方がいいと思うのですよ。考えのベクトルを変えてみれば、人はかなり自由に生きることができるってことを伝えたいのが第一だけれど。

 先日、とても仲の良い同業者が僕にこう訊きました。「株でもやっとるん?」。オレは吹き出しながら、即否定。やるわけないじゃん。金に興味ないし。でもまぁ、彼にしてみれば不思議だったんだろうなぁ、と。

 あの、こんなことやってる間は当然、収入なんてありませんから。組織から離脱して、フリーで生きるってそういうことです。フリーな農家と同じじゃないかな。安定したなにがしか、なんてないです。だからこそ、いいとも言える。ブレずにフォーカスが効いてくる。

 天下の回りものとは言い得て妙。目の前を川のようにお金が流れてさえいれば、不思議と必要なときには流れてくる。大事なのは自分のところでビーバーみたいに堰き止めず、誰かのためにそれを惜しげもなく使うことだと思っています。ただし、人には勧めないけれど。

 そうして生きてきたし、これからもそうだと思うな。それもまた自然が教えてくれたことなのです。すべては循環するってこと。

 老後にこれだけ必要だ、と。マスコミが煽る。その前に、老後まで生きてるかどうかもわかんないのに。そんなことより、目の前のことを慈しむ方がはるかに大事だとオレは思うし。ってか、老後っていつからの話なんだか。

 確かにオレもこのまま死んだら、たくさんの人に迷惑をかけるので、物は減らしてシンプルに生きようとは思います。でも、せっかくもらった命なら、ポテンシャルを徹底的に使い切ってみようと、今日も老化に抗ってみるのです。

 ワン。

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