「あんぽん」と被災地の女性の声

1月25日 水曜日 晴れ

いやはや。エンドレスな作業も、極度の肩こりと共に、ようやくメドがつきつつあります。僕にとって、複数の人物に突っ込んだ質問をするのは初めての経験でした。痺れました。いろんな意味で。ただ、市井に生きる彼らが語る言葉は、失われるにはあまりに尊いものでした。

この作業を貫徹する力を与えてくれたのが、佐野真一さんによる渾身の本「あんぽん/孫正義伝」でした。失礼を承知で書きますが、震災以降、作家と呼ばれる方々の文章に失望することの方が多かったのです。(偉そうにすいません)もちろん彼らに救いを求めてなんていません。ただ、迷えるおっさんである、僕のケツを蹴飛ばすような力をそこに欲していたのは事実です。そんな意味に於いて、「あんぽん」は佐野さんと孫さんの情熱の闘いが描かれています。あまりに、あまりに素晴らしい。そして醜く、ひどく美しい。僕はこの両者と同じくらい、真剣に生きているか、と何度も自分に問いかけました。目の前にやらねばならない事があるのなら、そこから逃げてる場合じゃない、と。何度もペラペラで肉がない僕のケツを蹴っ飛ばしてくれました。痛かったけど、嬉しかった。この場を借りて、お礼を云います。本当にありがとうございました。この混迷の時代に悩んでいる人は、是非読んでください。きっと、それぞれに響いてくるものがあると思います。

はてさて。今日は僕がインタビューをした中で、唯一の女性、母の声をお届けします。彼女は勇気を持って、僕の質問に応えてくれました。

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市民が語る3.11とこれから

MY LIFE IS MY MESSAGE / from SOMA CITY #4 酒井ほずみ(マクロビオティック講師)

インタビュアー 山口洋
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酒井ほずみさん 34歳。相馬市内で自然食カフェ「なぴあはうす」を経営。震災後閉店を余儀なくされ、現在はマクロビオティック講師をされる傍ら、「そうま・かえる新聞」の編集長として奮闘されています。またの名を「かえる1号」。16歳の女子高生、くぽたんの母。

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—– かえるさん。簡単な経歴からお聞きします。

かえる いきなり「かえる」ですか?ムキーっ。相馬市尾浜で生まれ、12歳まで相馬で過ごしたあと、静岡市、八丈島を経由して、27歳で相馬に戻り、現在に至ります。高校生のムスメと猫3匹と暮らしています。

—– かえるさん。今回のインタビュイーの中で、あなたが一番「ヤング」で、なおかつ唯一の女性なのです。そんな意味で、あなたから見た、相馬の素晴らしさを教えてください。

かえる 相馬が好きだったわけじゃないんです。7年前にここに帰ってくることも不本意な理由だったし。街のことを、きちんと知ろうともしていませんでした。こんなに何もない閉鎖的な街でも、能動的に楽しく生きていこうよって、イベントを企画したり、自分の店を基地にして仲間を集めたりし始めたのが一昨年のことです。なんとか好きになりたかったんです。
でも、自分のルーツが満載で、大事な家族や仲間と、やっとやっと暮らしていた街がグチャグチャになった上に、決して消せないものをまき散らかされて、ばあちゃんが作った野菜は食べれないモノになって、陸に上がると飲んべえでどうしようもないけど、海の上では超かっこよかったおんちゃんが魚獲りに行けなくなって、そういうのがほっとけなかったんです。
子供の頃は当たり前過ぎて、気づきも考えもしませんでした。本当はここに在ったものを、震災後初めて知っていく過程にいます。震災がなければ、知らなかったことばかり。どんだけきれいだったか。どんだけ豊かだったか。それを知らずにいたことがちょっと許せなかったんです。今は好きか、って言われたら、まだよくわからないけど、最近は、ここにいられて良かったなと思えてきています。

—– 震災の日、娘さんの卒業式だったって、本当ですか?

かえる はい。3.11はムスメの中学の卒業式でした。感動の式が終わり、子供たちの卒業祝いカラオケパーティーの引率をしに、一人でその待ち合わせ場所へと向かう車の中で揺れました。子供たちの集合場所まであと数百メートル。きっと怖がってるだろうと、揺れが収まるまで待てなくて、ハンドルを取られて蛇行しながら運転しました。顔を見てホッとしました。
10人近い子供たちを全員親御さんに引き渡すまで、その場から動けず、その間に周囲からの情報で、津波警報が出ていることを知りました。街じゅう大渋滞で、最後の子どもを親御さんに引き渡せたのは、すでに第1波の到達後でした。ムスメと、身の周りのものと、怯えて隠れる猫3匹を車に積み込み、走りました。ケータイが不通で、誰とも連絡が取れない中、とにかく山側へ走りました。津波は2波3波が大きくなることを聞いていましたから。ラジオで繰り返される津波情報と、地震の警報の音。停電で真っ暗な山道。あちこちの陥没。橋の上での大きな余震に息を飲みました。停電で真っ暗な山あいの街で、運良く母と妹と合流できました。母の家も浸水したことを知りました。その夜のうちに相馬へ戻り、店に拠点をおいて様子をみることにしました。考えていたのは、ただ「これからどう動くか」だけです。不思議と心は静かで、緊張でこわばるムスメの心の内を穏やかにしてやりたかったんだと思います。
でも、本当に、世界の終わりが来るのかと思いました。
いろんな人の顔が浮かんで、ただ祈るしかなかったんです。翌日、原発がどうにかなるなんて知らないから、その後の葛藤はまだこの日はなかったんですけど。

—– うーん。言葉がありません。でもお聞きします。この震災はあなたをどう変えましたか?

かえる 変わったかどうかは、分からないけれど、変えようと思うには十分な出来事でした。それまでこだわっていたことに、こだわっていられなくなりましたから。それから、やりたくないことを、無理してやらなくなりました。悩んで動けない時間が少しは減ったかもしれません。当たって砕けて再生する一連の動きが、少しだけスムーズになった気がしています。

—– ほんとうに大切にしなきゃいけないものが、言葉に出来ない体験を通して、見えてきたんですね。人は乗り越えられない試練は与えられない、と云うけれど、「不思議と心が静かだった」と語るかえるさんの言葉に、母の偉大な力を感じます。かえるさん。更に突っ込んで聞きます。相馬が失ってしまったもの。あるいは、相馬が今抱えている問題。それを教えてください。

かえる もとの相馬をよく知らないので、なんとも言えないんですけど、未来への続きみたいなものがそっくり無くなったんでしょうね。今までやってたことを、これからは同じじゃダメです。って言われた人がたくさんいます。ヒロシさん。イマジンしてください。今日から歌を歌ったらダメです、ギターもダメです、明日からどうにかしなさいって、全く関係ない人にいわれたら発狂するでしょ?それと同じことが、今この街では起きています。それから、圧倒的に足りないと思うのが正確な情報。危機感、そして情熱。
あれから何事もなかったかのように戻りつつある世間。この現実に違和感を持たないことが私にはわかりません。楽観的な無関心が恐ろしいんです。
原発事故のレベルが7に引き上げられたときも、こちらに支援を向けてくれていた町や国が、台風や洪水に見舞われてしまった日も、猛暑の中、たくさんのボランティアの人たちが熱中症と闘いながら作業をしてくれていた時期も、この街のパチンコ屋さんの駐車場はいっぱいでした。そういうのを子供が見ているんです。
仮設住宅や高齢者福祉のこと、雇用、補償、医療、津波被害地の復旧、市長が人気ない、、、、。問題は山積みだけど、その当事者な人たちの無気力さが一番怖いと思っています。

—– なるほど。では無茶ブリで有名なプロジェクト、「MY LIFE IS MY MESSAGE」との関わりを教えてください。

かえる 7月のひばりさんのフィルムコンサートで、ガイガーカウンターを寄贈していただいたのが始まりです。ただ渡されるんじゃなくて、箱から出して、操作の仕方や扱い方、どうしてこの機種にしたか、などなど。ちょっと急ぎながら説明してくれたヒロシさん。今思えばとっても「らしい」なと。奔放で繊細です。
HEATWAVEのことも全く知らないし、クロエにも縁なく暮らしてきて、プロデューサーの中野氏はいったい何者なのかすらも知らないまま(ほんとにすみません)。
お金なくて買えないけれど、必要だったガイガーカウンターをいただきました。
まだ高価で、買う踏ん切りがつかなかったんです。お店はやめてしまおうと決めたし、でも放射能は見えない分、心配はつのるし。おかげで、何人もの人に貸し出して、繋がりが増えていって、大きなきっかけになりました。
その後、嵐の夜の9月の渋谷ライブを経て、プロジェクトのことがだいぶ分かってきて、12月のSOMA  WEEKの開催へと向かう中で、相馬本部長森田さんとヒロシさんの首脳会談で燃え上がった、そうまかえる新聞の謀略に飲み込まれました。・・・というと完全に受身に見えますが。

相馬のインターネット人口はとても少なくて、仮設住宅などにはネット環境もなかったりします。多くの人に知って欲しいことを伝えるには、やっぱり紙の媒体を作るしかないんです。情報共有や繋がりを増やしていくために情報誌、新聞的なものを作れたらという思いもありましたが、資金的、時間的余裕が全くなくて諦めていたから、あとは覚悟と勇気と根性さえあればよかったんです。その機会を与えてくれて、ほんとうに感謝しています。

プロジェクトに対して思うことは、最初は申し訳なさが大きかったんです。こんな種類の人たちまで、本気にさせてしまうほど、この震災ってほんとにオオゴトなんだなって、他人事みたいに俯瞰で見てたことがあって。きっと自由で奔放で、スポット当たる真ん中で、がおーって歌って。もちろんひばりさんの時に聴いた、りんご追分のときもびっくりしたんだけど、(ステージ袖からのヤジに「うるせぇっ!」って怒鳴るシンガーをみたのもビビッたけども)渋谷でHEATWAVEを初めて見たとき、ああ、こんなひとたちに心配かけてしまってるんだー、って。
何かをやる、守る、と決めたひとたちが、それをどう実行に移すかを考えて、悩みながら、方法と手段を生んでいくのを、今はとても心強く、あったかく感じています。
そこに血液が通ってるのが分かりますから。
見た目がコワくて、そのへんで会ったらゼッタイ声掛けない怪しいおっさんたちなのに、プロジェクトの姿勢や、私たち福島の人間への関わり方が、いかに繊細で、いかに配慮されていて、私たちに寄り添おうとしてくれているのか、痛いほど分かりました。やさしい。それが印象です。ただ、プロデューサー陣、相馬本部長を始め、みんなが決めてから動くまでが半端なく早いので、たいてい翻弄されています。

—– あはは。おじさん達はね、もう先が長くないんです。だから、急いでるんだと思います。許してください。でも僕もね、こんなことがなければ、ある種の新人類(言葉が古くてすいません)のようなかえるちゃんと共同作業をすることもなかったんだと思うんですよ。誤解のないように書けば、僕たちはそれを楽しんでいます。じゃ、ないと続きませんから。ところでかえるさん。相馬市民として、母として、未来への展望を教えてくれますか?

かえる 私にはムスメがいて、彼女はこの先を生きていくわけです。この世界には本当にどうしようもない、なくせない怖いものがすでにもう沢山あるんです。それは今の大人がきちんと片付けることができなくて、無害に戻すこともできません。負の遺産を彼女や、そのまた子孫に丸投げすることになるんです。未来を、明るい希望に満ちたものにする魔法が開発されればよいなと思うけど、それが無理でも、今起こってることは大人たちが必死こいてなんとかしようとしないと、あの子たちに顔向け出来ません。

よちよち歩きだったあの子の行く先に障害物があるなら、私が先周りして、それをどかして、もっともっと先まで転ばずに歩けるように、たとえ転んでもケガしないように、あの子たちの行く未来を、少しマシにしたいと思います。
原発事故がなければ、もっとちゃんと地震と津波と向き合えたんです。亡くした人や失くしたものを、もっとちゃんと悲しみたかったんです。それでも、起こってしまったことは仕方ありません。原発さえなくなれば、この世界はハッピーになるわけじゃないけど、いつかまたどこかで誰かがおんなじ目に合うかもしれない可能性は潰しておきたいんです。

今はまだ相馬にいようと思うので、ここにいるからできること、ここにいるならするべきことを諦めずに続けていきます。ハチドリのひとしずくのように、山火事に一滴ずつ水をかけるような、途方もないことかもしれないけど。

どうしようもないって、文句ばっかり言うのはやめて、自分たちでなんとかしようと、行動をおこしはじめた仲間がいっぱいいるから、意外となんとかなっちゃうかもしれないなんて期待もしながら、ここで、真面目に生きて、それ以上に楽しんで生きてみます。一度折れた骨が強くなるみたいに、案外サイコーの町になるかも。

—– 最後に全国のみなさんに伝えたいことを。

かえる まず。感謝を最大限に。阪神淡路のときも、中越のときも、ドラえもん募金するくらいしかできなかった私でしたが、この度、全国から、世界中から、本当に多くの方に支えられました。人って温かいなって、思いました。
チェルノブイリのときにもっと多くの人間が変わっていれば、今はなかったかもしれません。私たちには今と未来を繋ぐ責任があると思います。

ちゃんと知って、どうしたらいいか考えて実行してみる。それが今を生きる私にできることです。誤解されてもいいんです。

福島で起こっていることを、この先も発信し続けます。話をしに来てくれという依頼もあるので行けるように頑張ります。やれることはなんでもやるから、どうか今回のことをみなさんにとっても転機にしてください。
そうしたら世の中はきっとスピードを上げて変わっていってくれるんじゃないかな。
生きる価値のある、手応えのある未来を、子どもたちに残してやりたい。みなさんの立場でそれぞれにちょっとづつ、手伝ってもらえるとうれしいです。ケロっ。

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「あんぽん」と被災地の女性の声 への2件のコメント

  1. あきら より:

    カエルさん。

    おっしゃってること心から同感します。

    どうもありがとう。

    この国が変わるように望むのではなく、

    なんとしてでも変えられるような行動をそれぞれが

    それぞれの場で続けていくしかないのだと思います。

    挫けずに楽しんで、踏ん張っていきましょう!

    Harder they come(by JImmy Cliff).

  2. ながわ より:

    「そうま・かえる新聞」おたまじゃくし号、昨年末の横浜ライブで貰って
    楽しんで(こういう言い方は何ですが)読ませていただきました。
    アジカンの後藤さんが主宰した新聞「THE FUTURE TIMES」も被災地
    の方の様々な声、原発についての意見が掲載されていて考えさせられました。

    現地の方の意見、生の声に触れるってホントに大切ですね。
    ネットでは結局自分の興味ある情報を検索してバラバラの情報に触れるだけ。
    でも紙ベースの新聞だと同じ紙面に色んな意見・情報が載ってて複合的な視点
    で考えさせられる。とても意義あることだと思います。

    東京の喧騒の中に居ると丸で地震も原発事故も無かったかの様な錯覚に
    陥ります。こういった新聞に触れて現地の想いを知り「何をすべきか」
    を考え続けたい、そう思います。

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