日別アーカイブ: 2012年8月29日

「大人が何とかしようぜ」。福島県相馬市にて。

8月29日 水曜日 晴れ 相馬から帰ってきました。日程的にも精神的にもハードなものでしたが、子供たちや、そこに暮らす人々から、確かなエネルギーと、大きな課題を受け取りました。何よりも、「そこに暮らすこと」のほんとうの意味を垣間みさせてもらった者として、僕には伝える義務があります。どう伝えていいものか、ずいぶん悩みました。でも、知ってしまった以上、知らなかったとは云えないのです。長くなるけど、読んでくれると嬉しいです。主観も多いに含まれた上で、これは僕が観た現実です。文責はすべて、僕にあります。 ———————————————————– 数日前に下見した、相馬市の山間部にある幼小中学校が併設された小さな学校。全校生徒30人あまり。始業式の後、演奏し、子供たちと交流するために、堀下さゆり、プロジェクトのスタッフと共に訪れました。年末に計画している子供たちとの音楽祭に向けて、確かなリレーションを築いていきたいと考えているからです。 書きたくないけど、ここは線量が高いのです。当日も徹底した除染が行われていましたが(ほんとうに頭が下がります)、校庭の隅に設置されたモニタリングポストは当日、0.798マイクロシーベルトを示していました。これは単純計算で年間6.94ミリシーベルトに値します。もちろん、子供たちはいつも校庭に居る訳ではありませんし、校内の線量は0.1マイクロシーベルト台に保たれているそうですが、国が定めた民間人の被曝限度、年間1ミリシーベルトと照らし合わせながら、みなさんでこの現状を考えてみてください。 まず伝えておきたいことは、僕らはここで暮らす人々を責めるつもりなんてありません。そんな資格はありません。ただでさえ傷ついているのに、僕らの活動によって、更に傷つけることだけは避けなければなりません。教職員の皆さん、親御さんたち、そして何よりも子供たちが、あの日からどれだけ苦しみ、どのような日々を送ってきたのか、僕らには想像することしかできませんし、きっと現実は想像を遥かに超えるものだったと思います。 多くの人は、何故そこを出ないんだ、と云います。けれど、人にはそれぞれの事情があるのです。やむを得ない事情で離れられない人も居ますし、ある人にとっては、育った土地を奪われることは、人格そのものを破壊されることでもあります。簡単ではないのです。 僕はいったいどんな顔をして演奏すればいいのか、ずっと悩んでいました。「こんな世界にしてごめん」。そう謝ることに、今更いったい何の意味があるのか? 出来ることは何なのか?前日、東京でのライヴを終え、相馬へと向かう道中、ずっと逡巡していました。堀下さゆりが校歌を採取してくれました。僕はその歌を繰り返し聞いて、僕が音楽に救われてきたこと。たった6本の弦しかないギターに中学時分に出会い、それがドラえもんの「どこでもドア」のように、未知の世界に導いてくれたこと。何でもいいから、自分が興味を持ったことに夢中になって欲しいこと。それだけを伝えようと思いました。校歌の歌詞が、次第に僕の身体に浸透していきました。現状と照らし合わせると、希望に満ちた歌詞が辛かったです。でも、僕は大人です。ありがちな校歌として演奏するのではなく、「音楽は自由」だという本質を伝えられそうなアレンジが、頭の中に浮かんできました。 明るい陽射しが降り注ぐ中、小さな講堂にやってきてくれた全校生徒約30人、教職員のみなさん、親御さんたち。僕らの無意味な緊張が浮いてしまうほど、明るい表情でした。少し無理をしてくれたのか、それとも日常とは少しだけ違う「ハレ」の状態だったのか、分かりませんが。僕には子供が居ないし、コミュニケーションを取るのが決して上手いとは云えません。ただ、先週の町中での「子供たちとの交流会」の反省も踏まえて、この界隈には居なさそうな、「帽子をかぶった謎のスナフキンみたいなおっさん」然として、ただし、心の深いところからまっすぐに子供たちと向き合ってみようと思いました。ときどき、謎の威嚇もしながら(笑)。 堀下と4曲演奏しました。子供たちはいろんな受け止め方をしてくれました。驚きを隠せない子、音量に戸惑う子、花が咲いたような表情をする子、寡黙な子、エトセトラ。反応が画一的でなかったことが嬉しかったのです。そして、どんなライヴよりも、僕は鍛えられます。嘘はつけないからです。 結局のところ、身構えていたのは僕らの方で、子供たちは子供たちのままだったのだと思います。同行してくれたカメラマンの松本さんが撮ってくれた写真には、素晴らしい、あり得ないくらいの「未来」が映っていました。ほんとだよ。びっくりしました。 演奏を終えて、子供たちが家路につくのを観ていました。「じゃーな、またな、元気でな、また来るからな」。その頃には、お互い随分うちとけていたと思います。 なによりも、男の子に絶大な人気だったのはサッカーでした。音楽じゃなくて。でも、彼らには、思い切り外でボールを蹴れない現実があります。きっと、教職員、親御さんも頭を痛めていると思います。実は、僕らは音楽祭のスポンサーである新日本製薬から「元日本代表によるサッカー教室をやってくれないか?」と打診を受けていました。もちろん、やらせてもらうつもりでしたが、子供たちを観ていて、こりゃ、やらにゃいかん、と。「あのさー、今度、元日本代表選手が来てくれてさ、サッカー教室やるつもりなんだけど、来てくれる?」。そう子供に問いかけると、表情が瞬時に明るくなるのです。それだけでも良かった。 ————————————————————- 僕らは街に戻り、いつもの止まり木(ゴキゲンな飲み屋さん)にも行かず(行けず)、東京に戻れる時間をとうに過ぎて、たくさん話し合いました。頭が痺れるくらいに。どうして、あの子たちが、あそこに暮らす人々がこんな目に遭わなきゃいけないのか?それは一体誰の責任なのか?僕らはそれに対して何が出来て、何をすべきなのか?ケンケンガクガク、ケンケンガクガク。 ————————————————————- あなたが、この街に暮らし、自分の子供がその学校に通っていたなら、どうしますか?国、電力会社、官僚、政治家、銀行、原子力ムラ、エトセトラ。彼らは責任を取りません。まったくヒドい話です。でも、それって彼らだけの責任ですか?糾弾するだけで何かが変わりますか?問題は僕らひとりひとりの心の中にあると思いませんか?あなたが暮らす街だって、とつぜんこうなる可能性があることを、事故が示していると思いませんか?それでも対岸の火事だと、自分は自分の暮らしで精一杯だと、私には関係のないことだと云いきれますか? ひとりひとりがほんの少しづつでも、誰かを思いやることができたら、何かが変わると思いませんか?それとも諦めますか?何かを変えることが出来るのは情熱からだとは思いませんか?僕は先日の「海さくら」で主催者、古澤にそのことを今更ながらに学びました。自分の手を汚し、リスクをしょって、難題に向かっていく人間を僕は尊敬します。リスクのないところには未来を描けない時代に僕らは生きています。地位も、カネも、僕には響きません。その人の心が、志が、どこを向いているのか。僕にとって、大切なことはそれだけです。 議論の末、僕らはようやくひとつの言葉にたどり着きました。「大人が何とかしようぜ!」。ほんとうに、何とかしたいのです。この状況を打開するのは、国策でしかあり得ません。国民ひとりひとりが事実を知り、知ろうとし、自分のことに置き換えて考え、行動し、国を突き動かし、国策で解決する以外に方法はありません。僕は諦めません。 相馬は復興工事で宿が満杯。泊まる場所がなくなった僕らを、とあるお寺の住職さん夫妻が受け入れてくれました。そこで更にケンケンガクガク、疲労で頭が痺れてきました。でも、いい。松本さんのカメラに収められた写真に、僕は捨てられない、捨てたくない、未来と希望を観たからです。  

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