月別アーカイブ: 11月 2011

伝聞

11月6日 日曜日 雨  「伝聞」。 普段、僕は人から聞いた話は極力書かないようにしている。自分の目で見て感じたことは、主観だけれど、僕自身でその発言に責任が取れる。いわゆる文責ってやつだ。ただし、今日の話は書かねばならぬ、ともうひとりの僕が云った。だから、伝聞だと断った上で、読んで欲しい。それゆえ、場所や登場人物は曖昧にする。読み取って欲しいのは、そこではないからだ。そして、できれば、自分の故郷と重ね合わせて、自分のことだと想像して、読んでみて欲しい。 —————————————————————————————————- 原発から20キロ圏内にある「強制避難区域」。そこには誰も立ち入ることができない。自分の家にあるものを取りに帰るだけで、何枚もの申請書が必要になる。家に滞在できる時間は数時間のみ。僕の山の家がどんどん朽ちていくように、家ってものは人が住んでいないと加速度的にダメになっていく。彼らは制限時間の中で、その光景を目にしつつも、愛しい我が家に何もできないまま、必要なものだけを持って、追い立てられるように我が家を後にしなければならない。 多くは仮設住宅に避難しているその集落の人びとが、自分たちがかつて住んでいた集落で、イベントを催した。どうしてそれが可能だったのか、僕は聞きそびれたから分からないけれど、とにかく20キロ圏内に近い場所でイベントが開かれた。 誰もそんなことは口にしないけれど、この場所に、集落の人たちが集うことが出来るのはこれが「最後」かもしれない、と心の中で思っていた。イベントの最後に自然発生的に、誰ともなく「ふるさと」の合唱が始まった、と。僕にその現場の模様を教えてくれた人物は辛すぎて、美しすぎて、いたたまれなかった、と。 老婆が誰かに懇願していた、と。「私はもう長くない。生きても2,3年。だから、癌になってもいいから、ここに帰してけろ」。「お金も何もいらない。年金だけで充分だ。ただ、私はここで死にたい。望んでいるのはそれだけだから、私をここに帰してけろ」。 懇願された誰かは「ライフライン – 水道や電気 – が通ってないから、ばあさんの気持ちは痛いほど良くわかるけど、それはできないんだ」、と応えていた、と。 —————————————————————————————————— 僕は高速道路を運転しながら、その話を電話で聞いていた(ちゃんとヘッドセット使ってますから、念のため)。頭がグルングルンしてきて、思い切りアクセルを踏んで飛びたくなった(しないけど)。 僕はそのばあちゃんを抱きしめたい。「ほんとに、ごめんね」と云いながら。どう考えてみたところで、現状では何もできない。ライフラインを再開させようにも、作業員がきっと被曝してしまうだろう。国はこのばあちゃんの切なる願いに、耳も貸さず、「消費税を10%にします」なんて公約を国際的に云ってしまうんだろう。救いようがない。原発を再稼働させようとしている人間が、このばあちゃんの言葉を聞いて何とも思わないのだとしたら、そいつは人間として終わってる。逆に云えば、彼らの気持ちが揺らぐのだとしたら、原発事故によって、いったい何が起きているのか、正確に伝えることによって、何かが変わるかもしれない。国会議事堂を、電力会社の本社を、霞ヶ関を、全部「強制避難区域」に置いてみればいい。それが不可能なことは分かってるけど、要するに、自分がその立場だったら、と想像してみることが決定的に欠落してる。 誰でも知ってることだけれど、何となくぼやけてる気がするから、もう一度書いておくけど。ばあちゃんが使ってた電気は「東北電力」が発電したものだ。間違っても「東京電力」ではない。それを使ってたのは、関東に住んでる僕らだ。 東電に国が1兆円支援しようが、ばあちゃんに幾ばくかの金が手渡されようが、ばあちゃんの望みは生まれ育った故郷で、自分の家で死にたいってことだけなんだよ。その想いを阻害する権利がいったい誰にあるんだろ?君は仮設住宅で死にたいかい?僕は絶対に嫌だ。 僕はね、みんなが思ってるほど強い人間じゃない(知ってるかもね)。悩むし、ふさぎ込むし、確たる答なんて、ひとつも持ってない。今度、請われてトークショーに出るけど、いつものようにしどろもどろになるだけだろう。でも、この話を知らなかったことに出来るほど、能天気でもない。人間として、胸が裂けそうになったときに、自分に何ができるのか、それを考えてるだけだよ。だから、ときどき、僕に、僕らに力を貸してくれ。僕らは出来ることを全力でやり続ける。それだけは約束する。よろしく頼む。 僕は今日、アニキを成田まで迎えに行って、話して、ひとつだけ確実に掴んだことがある。 「可能性は、覚悟に比例すること。覚悟が無ければ、何をやっても不可能にしかならないこと。ひとりひとりが自分を大切にする事と同じように、社会を大切にしていく意識の覚悟をすること」。

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シュガーレスな日々

11月5日 土曜日 雨  ない智慧を絞る日々。シュガーレス。でも、料理の味は素材そのもの、それから塩胡椒、そして思いやり- つまり愛で決まると思って過ごしている。 そもそも、中傷は行動ではない。何も生み出さない。そして、匿名は意見じゃない。責任ってものが発生しないから。 考えてみる。 みんなの日々の営みや仕事が、社会や世界や現実と、どう繋がっていて、どう機能しているかという実感。それが希薄なんだろう、と。自分も含めて、ね。カネが第一義ではない人間にとっては、自分が社会の役に立っている、あるいは社会の一員として、自分の理想が機能している。その実感がなければ、幸福だと感じるのは難しい時代に生きている。 僕は大学を出てすぐにプロのミュージシャンにはなれなかった。その力量も知名度もなかった。イギリスからデビューしようと試みて、かなりいい感触があったが、言葉の壁は当時の僕には突破できなかった。で、簡単に云うとまったく喰えなかった。どのくらい喰えなかったか、と云うとタバコを買うためにコーラの瓶を拾っていた。慢性の栄養失調で体重は49キロ。後は想像してくれ。僕は大学卒業の際に、就職が決まっていた。はっきり云ってコネ。僕は一族の出来損ないと云われていた。そこで絶大な権力を持つ親類が僕のために最後の救いの手を差し伸べてくれたって訳だ。当時花形だった、世間的に云えば、一流と云われる広告代理店。僕はここが人生の分かれ目だと思った。でも音楽がやりたかった。就職先に興味はなかった。ただ、それだけ。だから蹴った。コネなのに。僕は学生課に呼び出されて、「君は自分のやってることが分かってるのか?」と聞かれた。「分かってます」。僕はそう応えた。 喰うために選んだのは、力仕事。昼間は身体を使って、夜は音楽で頭を使う。それがいいと、いつもの直感が云ったからだ。職場はミュージシャンに優しかった。ツアーの時には休ませてくれたしね。しかし、仕事は楽じゃなかった。簡単に云えば、ゼネコンの孫請け。建設ヒエラルキーにおけるかなり最下層の部類。ゼネコンはハコモノだったり、道路だったり、そのような仕事を国から入札(かなり談合と賄賂)で請け負う。橋が出来た。トンネル作ります。そんな時に現場で式典を催す。大臣が来る時もある。粗相はできない。だから、ゼネコンは責任あるメンドーな仕事を孫請けに廻す。絶対に失敗は許されない。何かの寸法が1cm違っていようものなら、非人間的な扱いを受ける事もある。まず、野外にサーカスみたいな巨大なテントを建てる(重労働)。中に会場を設営する(神経がすり減る)。神主を手配し、式典を執り行い、直会(巨大な宴会)も別のテントでやる。テント設営の際は作業員。宴会の際はバーテンダーになったりもする。雨が降ったら、僕らは人柱にもなる。そこには妙齢の女性たちも、酒を注ぐだけの目的で送り込まれる(揶揄する訳じゃないが、ギャラは僕らの数倍)。ま、とにかくヒドかった。僕はこんなニンゲンには絶対にならないぞ、と思うような見本市だった。今となっては感謝してるけどね。反面教師として。時はバブルの絶頂。云っておくけど、すべての金の出所は税金。僕のバイト代も含めて。稀に優しい人も居たけれど、ゼネコンの中間管理職からは虫のような扱いを受けることが多かった。ま、とにかく。その経験は僕を鍛えてくれた。かなりの下層から4年に渡って、政治家や官僚を頂点とするこのヒエラルキーを実体験として見つめることがね。 (云っておくけど、僕はゼネコンの人たちを中傷したいのではない。それは理解してくれ。東電の体質がイカれてるんであって、社員が憎くないのと同じだ。) 話を戻して、と。 簡単に云って、僕はこのような形で社会と繋がりたくなかった。だから、必死に抜け出そうとした。でも、この経験はひとつの確実な視座を僕に与えた。世の中で、どのように金が流れて、どのように無駄に使われ、利権の構図、社会の偉大なる無駄の数々、むらがる人間達、欲、得、ヒエラルキーの実態、労働者であることの意味。だから、たまの思いやりが心に染みた。たとえばそれはハードな仕事の後の缶コーヒー一本だったりもする。どんなにヒドい扱いを受けたとしても、それが心のこもった一本であれば、不思議と許せる。ニンゲンとはそういうものだ。僕は学んだのだ。組織に居る時の人間の恐ろしさも含めてね。でも、誰にだって良心はある。少なくとも、そのカケラは残っている。だったら、この世はまだ信じるに足りるはずだ。僕だって、良心から行動できるはずだ。そして、自分を救うのは自分だけれど、それは誰かのたまの思いやりがなければ成り立たないってこともね。 伝えたいことが、うまく伝わるといいけど。嗚呼、シュガーレス。

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beautiful songs from Donegal

11月4日 金曜日 晴れ 明るい話題でも。 山から帰ったら、アイルランドはドニゴール在住のシンガー・ソングライター、Ian Smithから新しいアルバムが届いていました。前回と同じく、ドーナルの弟、マナス・ラニーのプロデュースです。 僕は彼の地で、イアンにたっくさんのことを教えてもらいました。あちこちのディープなパブに連れていってくれ、僕はミュージシャンとしての腕を磨きました。故フランキー・ケネディー(アルタンの創設メンバー)を偲んで行われる年末の由緒正しきイベントで歌えるように手配してくれたのも彼。何よりも、僕がドーナルやシャロン・シャノンを迎えて「the homes of Donegal」をカバーできたのも、彼がこの曲を教えてくれたからです。 12月にリアム・オ・メンリィと相馬を訪れますが、震災後、僕を心配して、多くのアイリッシュが連絡をくれました。「お前、大丈夫か。いつでもドニゴールに逃げてこい。みんな歓迎するよ」。多くはそんな内容でした。彼らの「情」の深さ、そしてコンパッションにいつも心を打たれています。 ところで、相馬から「オブラディ・オブラダ」を施設の子供たちと演奏して欲しい、とリクエストが来ました。いつも音楽祭で歌っているのだけれど、今年はそれが開催できず、モチベーションが上がらないのだと。おー、よろこんで。ところで、この曲は施設の長である佐藤さんの作詞なんだけど、読んだだけで涙っつーか、なんつーか、その、是非リアムも参加してもらって、子供たちと音楽で繋がりたいと思ってます。 ———————————————————————————————- 僕は相馬、好きだよ(作詞/えんどう豆 佐藤定広) 1. 梅雨の開ける相馬に、旗がなびくよ 野馬追の法螺の音、街に響くよ 城に集う武者たち 風が騒ぐよ 街の人は千年、守ってきたよ みんな思いつないで、誇りをもって 君と暮らすこの街、守りたいんだ 僕は相馬、好きだよ どこに居たって なつかしいふるさとの 温もりがする 2. 宇多の流れ 清く 松川浦へ うまいホッキと魚  食べにおいでよ 海は青く 鹿狼の 山は緑に、 子どもたちは遊ぶよ 自然の中で つらいことがあっても  諦めないで みんなでつくろうよ ぼくらの街を 僕は相馬、好きだよ いつの日だって きっと元気な君、できるはずだよ。 3. さくら咲く馬陵の 城を歩けば ひばり空を高く、さえずる街よ 冬が来て鹿狼の 山に光が 灯る頃に君は 帰ってくるよ 子供たちの瞳に 映る明日は 未来見つめ 夢にあふれているよ 今は君と別れて、暮らしていても … 続きを読む

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都会に戻る

11月3日 木曜日 曇り   長い時間をかけて、自分や社会と向き合い、それを音楽に昇華させ、最後に アニキとそれを熟考し、さきほど都会に戻りました。深夜、12時に九州の山中を出て、爆走1300キロ、浅草でいつもの蕎麦を喰って、成田で見送るっちゅー、無茶苦茶な行程でした。  伝えたいことは山ほどあれど、今日はおふとんの国に直行します。えー、伝えそびれていてことをいくつか。 ———————————————————————– 被災地支援プロジェクト、My life is my message10月末の収支報告です。みんな、いつもありがとう。 http://www.kk.iij4u.or.jp/~tero/life11.html ———————————————————————- とつぜんですが、ATOMIC CAFEに出演します。 「大震災と原発事故。 ミュージシャンは何を感じ、見たのか。 私たちに何ができるか」。 ATOMIC CAFE TALK SESSION and LIVE @代官山UNIT 03-5459-8630 2011年11月23日 (水・祝) 16:00開場/17:00開演 前売り:2500円 当日:3000円 1部 LIVE : 遠藤賢司、山口洋 (HEATWAVE) 2部 TALK SESSION : 加藤登紀子、島キクジロウ、ピーター・バラカン、山口洋 … 続きを読む

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潜伏中

11月2日 水曜日 雨 国内某所、山の中にて、某人と連日ブレイン・ストーミング中。内容はいづれお伝えできる日が来るか、と。ヒロシ、元気です。ご心配なく。近日中に関東に戻ります。お伝えしたいこと山ほどあれど、身体はひとつ。しばしお待ちを。

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