日別アーカイブ: 2018年1月5日

親父のギター

1月5日 金曜日 曇り 誰かみたいなギターを弾きたいと思わないくらいには、自分のギター・スタイルはオリジナルで好きだけれど、クリス・レアみたいなスライドギターが弾けたらなぁ、と彼の新譜を聞きながら思う。大病を乗り越えて、ひときわ素晴らしい。素晴らしいんだよ。 VINCENTの代表小川くんに親父の形見のガットギターの調整をお願いした。使えるようになるといいなぁ。 父親は何も教えてくれなかったけれど、小学生になった途端、グローブと硬球を買ってきて、庭にマウンドを作り、18メートル測って、オレをピッチャーに仕立てようとした。野球に関してだけ星一徹のような教育。笑。普通父親はド真ん中に構えるものだが、うちの親父は右打者の内角低めにしか構えなかった。理由はそこに直球を投げ込んで三振を取るのが彼にとって本当のピッチングだから。おかげで中学一年まで僕はピッチャーだったが、内角低めのコントロールは抜群だった。 野球部に入って、僕の方が球が速くなった日、親父はピタリとキャッチボールを止めた。寂しかったけれど、その理由は何となくわかった。 彼は音楽好きで、マーラーの「大地の歌」が好きだった。家にもギターがあって、ときどき弾いていたが、お世辞にもうまくはなかった。「アルハンブラ宮殿の思い出」がいつも同じところでひっかかるから、「夕陽へのファンファーレ」でその部分を僕が流暢に弾いて成仏させた。笑。 14歳の誕生日。僕は親友にギターを教えてもらった。天啓に近かった。その日に僕は職業を決めた。翌日、自宅に帰って親父のギターを弾きまくっていたら、目を丸くして、「お前、いつギターを始めたんだ?」と聞くから「昨日だよ」と応えたが、彼は信じなかった。 1週間もすると確実に僕の方が上手くなった。僕自身、初めて父親を「確かに」超えたと思った。彼は焦った。僕より下手なのを楽器のせいにした。大人気ない。彼は自分のガットギターを僕に永久貸与し(おかげで僕は遠慮なく鉄の弦を張ることができた。誰よりも握力がついたのは最初からエレキギターを弾けなかった(買えなかった)おかげ)、割と高いギターを買ってきた。簡単に負けを認めたくなかったんだろう。 18のとき親父が死んで。そのギターだけ僕は形見として受け継いだ。プロになるまで(なっても、かなりの間)クソ貧乏だった。信じてもらえないかもしれないけど、東京に出てくる金はレコードを売って捻出した。ときどきどうしようもなく金欠になると自分のギターを質屋に入れた。あまりに質屋に行くので、楽器の目利きを質屋に頼まれるほどに。 ついに僕は親父の形見に手をつけた。そして金を工面できず、流してしまった。さすがにひどく落ち込んだっけ。 東京行きが決まった日。な、なんと。ガールフレンドが押入れから親父のギターを出してきた。ありがたくて、情けなくて、泣けた。落ち込んだ僕を見兼ねた彼女が、秘密裏に質流れから救ってくれたのだった。 たかがギター、されどギター。次のアルバムはこのギターをたくさん弾いてやりたい。 最後に録音したのは「陽はまた昇る」の「銀の花」。それから「夕陽へのファンファーレ」の例の曲まで弾いていなかった。 ついしん 故郷の友人たちから、中原英司がついに車椅子に乗って病院内を散策している写真が送られてきました。クララが立った!並みに嬉しかったです。引き続きやつをどうぞ、よろしくお願いします。

カテゴリー: 未分類 | 8件のコメント