日別アーカイブ: 2025年8月24日

感謝の日

8月24日 日曜日 曇り   たいせつなライヴの朝に急逝した叔父に感謝を伝えに行く。  2日間のライヴから家に帰り、スーツを着てそのまま空港へ。  大学を卒業して、すぐにミュージシャンになれなかったオレは肉体労働をしていた。そんなオレを見かねた叔父は某広告代理店の就職を「コネ」で世話してくれたのだった。  当然、オレは反故にする。  学生課には「君がやってることはわかってるのか?」と。もちろん、わかっていた。  次に私立高校教師の職をまたしてもコネで世話してくれた。  またしても反故にする。  このあたりで親類から勘当処分が下るのは当然で、肉体労働4年目にオレはミュージシャンになった。  それから20年くらい経過して。  愚母が病気になって看病してるあたりで再会した。叔父は医者で、最後は叔父の病院(院長は従兄弟)にお世話になったから。  「おまえ、いい顔してるな」。初めて褒められた。  毎日、母の見舞いに来てくれたから、会っているうちになんとなく打ち解けて、いろんなことが氷解していった。その病院には地域のじじばばが通っていて、大先生(おおせんせい)と呼ばれていて、「大丈夫だよ!」と声をかけるだけで、彼らの顔が明るくなるのを何度も見た。赤ひげ先生、地域医療かくあるべし。  母親が死んだとき、病院のみなさんで見送ってくれた。その光景が忘れられない。並木の桜が満開だった。  叔父の家にお世話になったお礼を伝えに行ったら、オレのCDがいっぱいあった。気恥ずかしくて、申し訳なくて、嬉しかった。旅館みたいにでっかい家の奥の部屋に白衣がかけてあって、医師としての矜持を感じた。それってオレがギターを磨いてるのと同じじゃんって。そういうところが好きだった。  それから一年に一回くらい、帰郷するたびに挨拶にいくようになった。いつも優しく接してくれた。叔父と叔母に会って、昭和の話を聞いて、祖父と祖母に線香をあげさせてもらう時間が好きだった。  福島の復興に真剣に取り組んでいることと、町の惨状を伝えたら、帯のついた札束を渡された。苦しんでいる人たちのために使ってくれと。  不器用だけれど、根は優しい昭和の人だった。  最後に会ったとき、「葬式に来てくれるか?」と。「当たり前じゃないですか。だから元気でいてください」。そう応えたから、約束を果たしにきた。  たいせつなライヴの朝に亡くなったから、その数日前に亡くなった後輩や、長谷川博一さんや、天上に届くように演奏した。佐野元春さんのタンバリンはひかり、そのものだった。そして素晴らしいバンドはいつだってオレを鼓舞してくれた。  アイルランドの母が亡くなったとき、オレが飛行機で駆けつけて、花束を抱えて悲しい顔をしていたら、村のアホどもがオレにこう言った。  「ヒロシ、彼女の素晴らしい人生を祝福するんだよ!」、と。  それから死生観が変わった。  激動の昭和、平成、令和を生きた叔父は穏やかな顔で眠っていた。院長である従兄弟にはちゃんと素敵なファミリーがあって、叔父の表情の中にある優しさは従兄弟と孫にまで受け継がれていた。  並木に桜は咲いていなかったけれど、永い間、黙っていろんなことを見守ってくれていたのか、と。そう思うとちょっとだけ感傷的な気持ちになった。  父とも叔父とも、一度も乾杯できなかったから、渡辺圭一を呼び出して、焼き鳥屋で飲んだ。博多は焼き鳥屋なのに、豚バラから食うのがルール。その意味不明な感じが好き。お互い元気なうちに従兄弟と飲めたらいいな、と夢想してみる。  今度は天上で母親が叔父を案内する番。なんのかんの言って、母は叔父(兄にあたる)を慕っていたから、今頃仲良くしていてくれたら嬉しい。  誰にだって「死」はもれなく一回だけやってくる。だから、今日をどう生きるべきなのか。そんな当たり前のことを叔父は還暦をすぎたオレに教えてくれた。  それを忘れずに生きていたい。  感謝しかない。

カテゴリー: 未分類 | 6件のコメント