理解

3月31日 火曜日 雨

宮本常一さんが昭和初期に自分の足でJAPANを記録した本。すこぶる刺激的。自分が物心ついたときには、この国は高度成長に舵を切っていたから(例の三種の神器のころかな)体験できなかったJAPANの善き風習を追体験している感じ。

大戦で世界中、相当に傷ついていたはずだから、物心両面に於ける焦土からの復興という意味では、世界的に似た状況だったのかも。小さい頃の写真は時代の「成長感」よりも「戦後感」の方が顕著だしね。

そんな意味で言えば、80年周期で世界に巨大なエゴまみれのアホがあちこちに出現し、戦争を起こそうとするのは、ニンゲンの本質かつ、語り部が死滅するタイミングでそうなるのかも、と仮説を立てたくなる。トランプは言うに及ばず、高市はすさまじく酷い。60年も生きてると政治家がどれだけ酷いか、嫌というくらい見てきたけれど、史上最高に酷い。あいつは国民を殺しかねないけれど、あの巨大かつ薄っぺらいエゴを選んだのは自分たちの浅はかさだってことを忘れてはいけない。

だから、個人攻撃ではなく、高市のことは書き続ける。本当的に奴が危険だと感じているから。

話を戻す。宮本さんによると。

かつて日本の田舎や離島には、問題をとことんまで話し合う風習があった、と。そのとことん具合が半端なくて、数時間じゃないんだよ。数日。紛糾して結論がでなくても村人全員が納得するまで時間をかけて。

現代ではあり得ない。でも村人の構成員ひとりひとりがその経験を積み重ねていたなら、簡単に他者を殺めたり、征服したりする発想になりようがない。その村で慎ましく生きていくには、他者との差異を骨身に沁みるまで理解して、思いやり、かなりの忍耐を許容するしかなかったのだと。

その文章を読んで、ものすごく思い当たるフシがあった。自分の血の中にもそれがある。どんなに理解不能な人物でも、なんとか理解しようとして、結局ズタズタに切り裂かれる。そんな経験を山ほどしてきたから。

オレはハーレーで旅をして、これを現代風にアレンジできないかと考える。

たとえば。どうしても分かり合えない存在。オレにも割といるよ。人間だもの(笑うとこです)。

でも追いかけても、理解しようとしても、どうにもならないことがある。他人が介在している以上、どうにもならないのだ。他人なんだし。

では、分岐点はどこにあるか。死ぬときに、このままで後悔しないかどうか。後悔しないのなら、もう時間の流れにすべてを任せる。後悔すると感じる関係でも、ある程度は時間に任せる。何度も頭をよぎるようなら、それが今なのかどうかを考える。関係の真ん中に「宇宙」(空でもいい)が介在していることを忘れないように。そうすれば、必ずその時はくる。自分が死ななければね。たいせつなことは「empty」。空っぽならそれはなされる。それを書いた。

理解できないことは理解の一部だとこの頃思えるんだよね。あながち間違ってはいないと思う。

 

関係ないけど。

日々モノクロで切り取ること。それもまた忘れていた経験。寝る前に、今日撮影したものを見てみると、すでに忘却の彼方にあることがたくさんある。日々は輝きに満ちている。それを忘れさせ麻痺させるのが現代の暮らし。特にネットとSNSとスマホ。ご同輩も気をつけられたし。

自分の日々にある「瞬間」の方がはるかにプレシャスだよ。

カメラの中にある写真は即座にネットにアップできないのが、それがまたいい。

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